【第5章・犬も喰わない閃き】『マインドコントロール(たとえば、毎日の歯磨き)』

 自分語りは嫌いじゃないが、一〇個も年下の女の子に聞いてもらうのは不思議だった。ボニーのようなひょうひょうとした性格でなければ、むしろおれが気遣って喋べらなくてはいけないところだろう。

 おれはきっと、彼女に話を聞いてほしかったのだ。

 ……まぁ、肝心なことは話せないんだけどな。

 たとえばそう、「妹に飼われていました!」とかさ。

「研修は泊まり込みで一週間なんですが、スケジュールなんてかわいいもんじゃない。接客を教えると銘打った洗脳だ。会社への忠誠心ってんですか、あぁいうのを植え付けることを目的にした合宿なんです」

「うへへ、こわぁ」

 ボニーの瞳は、怪談話を聞いて目を爛々とさせる小学生のようだった。

「でも、今はそこで働いてないんでしょ?」

「そうです。マインドコントロールをされる前に、逃げ出してきたんです」

「合宿って、どんなことやんの?」

 彼女は促した。お前はおれに比べて話上手だ。話していて気持ちがいい。あのコミュ障ワガママ女とは違う。いい加減なようで、ツボを心得ている。

「毎日同じことをやる。朝五時に起床。社訓があるんですが、それを読みます。一時間」

「社訓?」

「ええ。歯も磨かせてもらえず、読み続ける。『一、タクシーは、お客様のゆりかご……』」

「いや、『しゃくん』ってなに?」

 あ、そこから?

「なんつったらいいんですかね、会社の心構えというか……」

「まぁいいや。で?」

「……そういう感じで、一時間やります。それで、飯を食って、運転教習ですね。コースを自由に走って、客を拾って、その客ってのはもちろん社員なんですが。その社員が、一日マンツーマンで教習をする。すごいですよ、社員を拾って車に乗せて、『どちらへ?』と聞く。そうすると、『お前は屑だ。お前なんかに客を拾う資格はない』」

「あはは、どーしよーもねー」

 ボニ―の乾いた笑い。

「どうしようもないでしょ。こういうのをダブルバインド、二重拘束っていうんですがね。あれはダメこれはダメ。目的地を訊くと『そんなもの客の目で察せ』、訊かないと『逆に訊くけど、目的地訊かない運転手って聞いたことある?』と。八方ふさがりなんですが、これがまた恐ろしい」

「なんでなんで?」

 彼女は興奮した様子で激しく促す。興味を持ってくれるのは結構だが、そう前のめりだと、おれだって話しにくいさ。

「人間ってのは選択肢がなくなると、自然と相手の提案に乗りやすい状態になってしまうんですよ。その社員はおれにこう言う、『降りろ。地面に向かって、社訓を言え。それから、丹念に靴をなめろ』」

「やったの?」

「やりましたよ。社訓を三回唱えた後、社員の靴を嘗めて、そっから運転しました。日常会話、マナーまで全て講習がありますが、なにかあるたびに靴を舐めます」

「……それで、どうやって口がうまくなったの?」

 笑える疑問だ。正当で、筋が通りすぎている。

「なりますよ。口がうまくないと、体中が靴墨に浸食されてしまいますから」

「えへへ、マジこわいね」

「怖いですよ。午後は反省会。午前中の活動を報告する。そして、社訓です。笑顔で」

「どんだけ言うの?」

「社員が納得するまで。おれの場合は、陰気だ、顔色が悪い、そんなことを言われながら、ひたすら社訓を言い続けた。大声で、喉を嗄らして」

「顔色悪いよねぇ、ホント」

「……で、ですね」

「あ、無視した」

 話が進まないからな。

「げんなりしますが、それが決まりなんです。笑顔を崩すと、また靴を嘗めさせられますから。それか、殴られる」

「……」

 ボニ―は恍惚の表所を浮かべた。娘っ子は、本当に血と肉が好きだ。

「ただ、もう叫ぶ力もなくなった頃には、憎かったはずがそうでもなくなってきている。むしろ緊張がほぐれていて、不思議と開放感がある」

「一周回ってって感じ?」

「一周回ってって感じで。そして、社員が寝る前に『これから一緒に頑張ろう』なんていっちゃってね。嬉しかったんです。そして、そのことに悦びを覚えたことに心底ゾッとしました」

「するね、ゾッと……うふぅ」

「ただ、おれはちょっとある本を読んでいて、これは完全にマインドコントロールだと気付いてしまったんです。その日に逃げ出して、退職届を出して、別のタクシー会社に入社して、で、客ともめて辞めたと」

 めんどくさくなってきたから、ダイジェスト。すいません、我ながら長話。

「結局、その会社のおかげで口がうまくなったってこと?」

 彼女が尋ねた。おれは真面目くさった顔を綻ばせて、微笑んだ。

「この話は嘘です」

 呆気にとられたボニ―が、タバコの灰をぽろりと落とす。

「あち」

 おれはおしぼりを手渡して、小さなあくびを一つ。

「そんなもんで口なんか、うまくなるもんですか。そんな一日のマインドコントロールで」

 ボニ―は顔を歪めて、不平を露わにした。

「だまされたぁー」

「騙しましたからね」

 おれは視線を落として、呟くように言った。

 半分は作り話。半分は真実。いい加減な話を並べて、悲劇のヒーロー気取って見せる。

「実際は、酒ですよ。昔から口下手で悩んでいたんですが、大学生のとき酒を飲むと饒舌になると言われまして。そこで、酒を飲んで会話をしているところを録音して、毎日聞いた。自分の声で、刷り込んだわけです」

「それもマインドコントロールじゃん」

 ボニ―は不貞腐れ、唇を尖らせる。僅かにひび割れた唇に、薄く血がにじんでいる。

「その通りです。でも、マインドコントロールだって悪いことじゃない。人に親切にするべき、とか、毎日歯を磨く、とか。すべてはマインドコントロールです」

「えぇー、じゃあ今もウチのこと洗脳してんの?」

 ボニ―はへらへらと笑い、おれのほっぺたをぐりぐりとつつき、上機嫌に笑う。

「どうでしょうね。すいません、こんな時間ですか」

 話し始めて、気付けば一時間経ってしまった。

「さ、こんな話はお開きにして、そろそろ帰りましょうか」

 ボニ―は、けだるそうに伸びをして、小さく息を漏らしながら頷いた。

 雨は、まだやまない。


【第5章・了】

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