幻想酒場漂流記 第四夜 西王母の桃

西王母の桃 1


 商店街に面した角地で一日中客足の絶えない「あらかわ家」は元々川魚料理の店であったが、最近では朝から飲める酒場としてマスコミにも紹介される人気店である。


 岡崎は今日も夜勤明けの青白い顔でその店のカウンター席に腰を下ろして、酎ハイをちびちびやっている。


 目覚め始めた商店街から切り離された店内は優しい空気に包まれ、満足げに山かけのマグロをつまみながら、ぼんやりと外を眺めていた。


 通りに面した鰻の焼き場にはまだ煙が登らず、その向こうに黄色い帽子の小学生がじゃれあいながら通り過ぎるのが見えた。


 微笑ましい光景に、頬が緩む。こんなに穏やかな気持ちで世の中を眺めることができるようになったのかと思うと、一人で朝酒を舐めるこの生活も悪くないと思える。


 まだ混雑していない店内には、他にも岡崎の見慣れた中年男の顔が何人か揃っている。


 彼らも夜勤明けのタクシー運転手やビルの守衛などで、一様に澱んだ眼でグラスを傾けている。


 毎朝一時間程度の出会いだが、仕事から解放されて安らぎの時を共有する仲間の存在は、お互いに交わす言葉は少なくとも、妙な一体感を与えてくれる。


 そんな店内を一回り眺めて、岡崎は向かいのカウンターに座る一人の女性の姿に釘付けとなった。


 ロの字になったカウンターの向こう正面に、三十半ばくらいの地味な女性が一人で生ビールを飲んでいる。こんな時間に一人で飲みに来る女がいるとは信じられない。


 思わず凝視してしまう。初めて見る顔なのだが、何となくどこかで見たような気もする。


 そんな時に、隣でカチカチとせっかちそうにライターに火を着けようとしていた若者が苛ついた声で岡崎に声を掛けた。


「すみません、火、持ってないすか?」


 岡崎は煙草を咥えたまま顔を歪めている若い男を見た。最近幾度か店で話をしたことがある若者であった。


「いや、俺は喫わないから……」


 仕方なく岡崎がカウンターの中にいる店員へ声を掛けると、すぐに元気のいい返事をして最近では珍しい店の名前の入ったマッチ箱を持ってくる。


「ああ、どうもすみません」


 若い男は店員と岡崎と交互に頭を下げて、嬉しそうにマッチを擦り煙草に火を着けた。


 しかし若者はその後も苛立ちを隠そうともせず、小声で何やら呟いては長い頭髪を掻きむしっている。


「なんだ、今日は荒れてるなぁ。彼女に振られたか?」


 岡崎は軽くからかうような口調で隣の男を見た。ここ最近よく見かけるようになった顔で、確か、近所の倉庫で深夜のアルバイトをしていると聞いた。


 店の裏にある宅配便の倉庫で夜間の積み下ろしでもしている学生なのだろう。


「そうなんですよ。長い付き合いだったのに、別れるときは一瞬だもんなぁ」

 若者は煙を吐ききってから岡崎に顔を寄せる。


「なぁに、お兄ちゃんみたいないい男なら、すぐに新しい女が見つかるさ」

 岡崎は宥めるように言いながらグラスを持ち上げて、卓上で遊んでいる男のグラスに軽く合わせる。


「そりゃまあ今は辛いだろうけどな。で、どのくらい付き合っていたのさ」


「まぁ、大体七百年くらいすかね」


「な、ななひゃくねん?」

 岡崎は呆れて口をぽかんと開けた。


 それから男が別れた女についての未練をたっぷり語るのに付き合わされて、その朝はおかしな雰囲気に呑まれたまま中途半端な気分で引き上げた。



 岡崎がこの町で暮らし始めたのは、十年あまり前だった。


 都内の大学を出て印刷製本会社に営業職で入社した岡崎はこれと言った取り柄はないが、実直な人柄で堅実に仕事をこなし、二十代後半には上司の紹介で知り合った娘と所帯を持った。


 せわしない世の流れを追わずに地味な暮らしを好み、目の前を通り過ぎようとする小さな幸せを捕まえることに喜びを覚えるような二人は、似合いの夫婦になった。


 そのまま平穏な暮らしを送りながら数年を経て、やがて妻が子を宿したと知った時が、幸福の頂点であった。その頃には仕事も順調で、岡崎も次第に重要な取引を任されるようになり、帰宅が遅くなることも多くなっていた。


 その日も、上得意の客と遅くまで打ち合わせをした後互いに軽く酒場で乾いたのどを潤し、心地よい疲労感を感じながら家路についた。


 安アパートの薄い鉄扉を開くと、暗く冷たい家の中に、妻の姿はなかった。その時になって初めて、客先で電源を切った携帯電話がそのままになっていたことに気付いた。


 慌てて電源ボタンを押す。大量の着信履歴と留守番メッセージが次々と現れて、岡崎を絶望の淵へ運んだ。


 妊娠六か月を迎えるその日まで順調そのものだった妻が、夕方突然の腹痛に襲われ救急車を呼んだ。病院へ運ばれた時には既に流産の状態で、母体が無事だったことが何よりの救いであった。


 遅い時刻にやっと病院へ駆けつけた岡崎は、ベッドで茫然自失となった妻の姿を見て涙した。


 しかし、妻の眼に普段の光はなく、血の気を失った顔は作り物のように白かった。


 妻は岡崎の震える声も慚愧の涙も、既に届かない場所にたった一人でいるのだった。


 岡崎は、妻の涙が枯れ果てる前に自分が病院へ来てさえいればと、唇を噛んだ。しかし、既に遅かった。


 結局妻は心を閉ざして、再び笑顔を見せることはなかった。そして岡崎を許すこともなく、自分自身さえ許さずに、静かに一人で心を病んでいった。


 一週間後に妻は退院したが、以前のような微笑ましい暮らしは戻らなかった。表情を失った妻が三か月後、どうしても、と差し出す離婚届に岡崎は押印する以外なかった。


 実家へ帰る妻を見送り、岡崎もまた生きる目的を失った。



 何をする気力も失せて、一日二日と仕事を休み、食事もせず何日もそのまま家にいた。

 妻との出会いをお膳立てしてくれた上司が責任を感じて岡崎を無理やり外へ連れ出してくれなければ、部屋で餓死していたかもしれない。


 上司が会社と掛け合って、何も考えずに現場で体を動かす仕事をしてみたらどうかと提案した。


 促されるまま妻との思い出の詰まったアパートを引き払い、工場の近くに狭い部屋を借りた。


 当初は輪番制で二十四時間三交代の勤務だったが、いつしか静かな夜間の仕事を好んでするようになり、今では夜勤専門で働いている。


 そのまま、時が止まったように密やかな暮らしが十年続いている。

  

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