西王母の桃 2


 ある日のこと、その日は休みの前日で、岡崎は家へ帰り昼まで一眠りして街へ出て、流行りの映画を一本見た。

 そして夕方早めにあらかわ家へ来て、のんびり飲み始めた。


 あれ以来岡崎が「七百年」と呼ぶようになった若者がいつの間にか隣に来て、一緒に飲んでいる。


 最近妙によく会うようになり、岡崎も珍しく自分の身の上など語り始めるほど気を許す仲になっていた。


 いい気分でカウンターに肘をつき店の外へ目をやれば、暮れゆく商店街を、若い母親が幼子の手を引いて急ぎ足で通り過ぎるのが見えた。


 ここへ越してきた頃は親子連れの姿を冷静に見る余裕がなく、慌てて目を逸らしたものだ。それが今では落ち着いて、世間と自然に向き合えるようになった。


 風の噂によれば、その後別れた妻も回復して良縁に恵まれ、今では一児の母であるという。


 岡崎にとってあの五年余りの結婚生活こそが人生そのものであり、今のこの平穏な日々は恵まれた余生のようなものだ。


 七百年の若者が店を去った後も、岡崎は一人で静かにグラスを傾けていた。


 ふと見ると若者のいた隣の席で、いつかここで見かけた女性が一人でモヒートを飲んでいる。以前と同様、どこかで会っているような軽い既視感に襲われた。


「こんばんは」


 女が先に、声を掛けた。想定外の事態に、岡崎は混乱する。近くで見れば、女は意外と若かった。


「あ、どうも」


 咄嗟に、それだけ言うのがやっとだった。


 それだけで十分というように女は破顔して、まっすぐに岡崎を見た。魂が吸い取られてしまうかのような笑顔に耐えられず、岡崎は委縮して目を背けた。


 こんな普通の女性が一人で男だらけの騒々しい酒場にやって来る理由が、岡崎には全く想像できない。


「今日はお休みですか?」


 何気なく女が尋ねる言葉が、すぐに頭に入らない。少しの間考えて、やっとまともな思考が追いついてくる。


「ああ、そう。今夜は休みなんだ」


「じゃあゆっくり飲めますね」

 そう言って女は再び花のような笑顔を見せる。


「どうしてこんなところに一人で飲みに来るんですか?」

 思わず、愚直な思いが口に出た。


「ふふ、それはあなたも同じでしょ」

 相変わらずの笑顔で女は言う。


「いや、俺は他に行くところもないし……」

 何のてらいもなく正直に言葉が出ることが、岡崎には不思議だった。


「私だって、この店にいつも一緒に来ていた人がいなくなって、仕方なく一人で来ているだけです。だって、私もこのお店が好きだから」


 そう言われると、何の異論もない。思い出から逃げたい者も、縋りつきたい者も、どちらの気持ちも岡崎には理解できる。


 しかし、人はそう簡単に一人で行動できないことも、岡崎は知っている。


 人が集えば強い力を手に入れるが、孤独は常にそんな人間の隙を伺っている。そして何かの偶然でその隙を突かれ囚われたとき、人は心を病む。


 家でひとり苦しんでも、酒場で酒に溺れても、行着く先は同じだ。だからこそ、下手に他人に寄り添い傷つき更なる孤独の深淵を覗く前に、安直な孤独を望む場合もある。


 この店に集まる面々はそんな臆病さで人との濃厚な繋がりを求めないので、心地がよい。


 緩いが共感のあるコミュニティが存在しているのだと岡崎は思い込んでいた。



「つまり、この店で出会い仲良くなって一緒に暮らすとか、そういう場所じゃないんだよ」


 この店に通い始めた頃、店主が自虐的に放った言葉を岡崎は思い出す。


 この店はマスコミで度々取り上げられて一見客が多くなり、昔と客層が変わってしまったことを店主は嘆いていた。


 今は多少落ち着き、常連客中心の営業に戻ってはいる。しかし、昔の濃厚な地元民の触れ合いの場所とは一線を画している。


 ただ、岡崎のような余所者にとっては、逆にその軽さが居心地の良い理由になっている。


「今日は疲れたのので、これで失礼します」

 岡崎は欠伸を一つして、席を立ち勘定を求める。


 ではまた、と軽く頭を下げ卑屈に見えない程度に堂々と店を出るのが、今夜の精一杯の行動であった。



 次にその女と出会ったのは、二週間ほど後の立ち飲み屋であった。


 その日も夜勤の仕事が休みで、午後から運転免許の更新講習に行った帰りに軽く一杯だけ飲んで帰るつもりで立ち寄った丸源という狭い立ち飲み屋のカウンターである。


「あら、久しぶり」


 先に一人で飲んでいた女は岡崎に気付いて振り返ると、親しみを込めた目礼を送る。岡崎は又も驚かされて狼狽しつつも、空いている女の隣へ体を入れた。


「こんな店にも来るんですね」


「そう。ちょっとだけ飲みたいときにはね」


 そう言ってハイボールのグラスを口に運ぶ女の横顔を見て、岡崎ははっとした。


 その仕草と痩せた白い頬が、別れた妻を思い出させる。もしかしたら、初めてこの女を見た時に感じたのも、元妻の面影だったのかもしれない。


 そう思うと自分の未練がましさが情けなく、そして恥ずかしくて、いたたまれない気持ちになった。


「日本酒を、冷やで」

 強い酒を煽って早く酔ってしまいたい。岡崎は肴も頼まず、立て続けに冷や酒を二杯空けた。


「どうしたんですか」

 隣の女が心配そうに岡崎の顔を覗き込む。


「いや、別に」

 その顔から眼を背けるようにして、岡崎は三杯目の酒を注文する。


 それから何を話したのか、よく覚えていない。三杯目の酒に口を付けた辺りから記憶に霞がかかり、その後はどうやって家に帰ったのかすらわからなかった。


 ただ翌日昼過ぎに起きた時、携帯に届いていたメールの差出人の名前を見た瞬間に、女の屈託のない笑顔が脳裏に広がったことを思うと、色々と話をしたであろうことは間違いない。


 メールの文面は、飲み過ぎた岡崎の身を思いやってのことであった。


 悩んだ末に努めて簡素な言葉を使い、岡崎は返信した。ありがたいことにメールはそれだけで、その日は穏やかな午後を過ごした。

  

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