ニーチェ 3


 翌日は土曜日で、昼近くまで寝ていた。


 いい加減に起きなさいと妻に蹴飛ばされて起きてみれば、まだ昨夜の酒が残り胸焼けがする。食欲もないので熱いお茶を啜ってから、駅前の床屋へ出かけた。


 快晴の真夏日、家を出てすぐに後悔した。脱水気味のふらつく足取りでゆっくりと駅へ向かう。狂ったような蝉の声が頭の中へ響き、平衡感覚がおかしくなりそうだ。


 何とか駅前へ辿り着き、冷房のよく効いた床屋へ転がり込んだ。


 古い馴染みの親父に頭を刈ってもらっているうちに、どうにか気分も落ち着いた。


 隣のコンビニで水を買い、飲みながらぶらぶらと家路につく。そのうちに気付くと昨夜ニーチェの後を追っていたあの道を辿っていた。


 ちょうどあの店の辺りへ差し掛かっている。


 この時間に開いていることはなかろうと思いながらも気にしながら歩いていると、その店が前方に現れた。


 まぶしい太陽の下で見ると、モルタルの外壁はひび割れ、塗装も剥げて、飲食店とは思えないほど汚く壊れかかった建物だ。


 こんな状態で営業していたとはとても信じられない。わざわざ薄暗い路地側に入口があるのも、この店の外見のせいではなかろうかと思ってしまう。


 更に近寄りよく見れば、準備中の看板の代わりに出ていたのは、色褪せた貸店舗の文字であった。


 どういうことかと入口のガラス窓に貼り付くようにして中を覗き見る。


 変色したカーテンの隙間から中を覗けば、確かにあの店のあの間取りである。


 しかし所狭しと置いてあった民芸品や、壁に貼ってあった写真やメニュー、カラオケセットも見当たらない。


 小ざっぱりした店内に、ただ特徴的なカウンターとテーブルセットが残るのみである。昨夜のうちに夜逃げでもしたのだろうか。


 しかし、入口に掲げられた貸店舗の看板は汚れた扉にすっかり馴染んで色褪せて、最近ここに置かれたものではないことは明白だ。


 そして目を凝らして薄暗い店内を探してみると、とんでもないものを見つけてしまった。白く埃の積もったカウンターに、封の切っていない芋焼酎のボトルが一本だけ置かれている。煤けた店の中で、その瓶だけが別世界の生き物のようにキラキラと外光を反射しているのだった。



 それを見て、全身に鳥肌が立った。


 昨夜の情景が目に浮かぶ。

 散々飲んで騒いで、ついに勘定をして帰ろうと立ち上がった。こんな時に限って、財布には小銭がなく、一万円札しか残っていない。ママが困ったように、お釣りがないと言う。


 何といういい加減な店かと改めて思ったが、酔って気の大きくなっていた私は、お釣りはいいよと言ってそのまま店を出ようとした。


 するとママが、じゃあ焼酎のボトルを一本入れておくから、また来てね、と言って手を振った。私も笑い手を振って店を出た。そこから先は何も思い出せない。


 あの不自然な新品のボトルが、昨夜私がここで飲んだ明白な証拠であろう。

 ではあの人たちはどこに行ったのか?


 八月の昼間とは思えぬ冷気が、扉の隙間から流れ出ている。私は狼狽して踵を返した。


 ニーチェ、いや龍介君の運転していた車は三年前の夏、事故にあったと最初にママから聞いた。


 それは、事実だったのかもしれない。ただ、今から三年前なのかは、あの貸店舗の看板の傷み具合からすると少々怪しい。


 そして、その車に乗っていたのは、龍介君だけではなかったのかもしれない。


 幽霊と妖怪のいる店だと思って飲んでいたが、実は店ごと全部が幽霊だったのではないか。そんなことを考えると、震えが止まらない。


 それ以上は考えることを禁じて、振り向きもせず家へ急いだ。ニーチェの足音が後から追って来はしないか、不安の塊が胸を圧迫する。冷たい汗が背中を流れ落ちた。


 息を切らして蒼白な顔で家へ戻ると、妻が怪訝な顔をして何事かと尋ねる。それには答えずただ熱いコーヒーを一杯欲しいとだけ言って、すぐにベランダへ出た。


 猛烈な太陽光線に焙られた狭いテラスで、焼けるような折り畳み椅子に体を預ける。全身の力が抜けた。


 心臓の鼓動が少し落ち着くのを待って、妻が淹れてくれた火傷するように熱く苦いコーヒーを啜ると、やっと自分を取り戻すことができた。



 以来、間違ってもあの路を通らぬようにしている。当然、店にも、一度も近付いたことはない。


 しかし今でも時折ニーチェに似た青年の後姿を見つけると自然に体が強ばり、目を見開いたまま歩みを止めて、しばらく動けないことがある。


 そして忘れた頃に突然不安に駆られて、暗い路上で耳を澄ますこともある。


 夜の駅に降り立ち家へと歩き始めた後、ふと歩く人波が途切れた刹那、ニーチェの足音がどこからか聞こえはしないか、と。


 幸か不幸か、連中との再会は、まだ無い。





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