君は、覚えてない話


 物心ついた時から、両親はいつも罵り合って喧嘩をしていた。


 日常の些細なことから、態度への不満。

 子供ながらに父親の大きな怒鳴り声と、母親の悲鳴のような金切り声は、まだ幼いひまりの心を酷く苦しめていた。


 大好きな二人が、憎悪の籠った瞳をぶつけ合いながら喧嘩をする姿なんてみたくなくて、その度にひまりは部屋の隅っこで体育座りをしながら顔を埋めていたのだ。


 一つ年上の由羅はそんな光景にも慣れてしまったのか、素知らぬ顔で人形遊びをしていたけれど、器用でないひまりはそうもいかない。

 

 両親の喧嘩をする声が小さくなるタイミングを見計らって、戯けたことを言って、どうにか重苦しい空気を払拭しようとしたのだ。


 わざと大きな声で学校で起きた出来事を言うなどして、彼らの喧嘩を遮った。


 『ひまりのおかげで家の中が明るくなるよ』


 そう言った母親の疲弊した表情は今でも覚えている。

 きっと、母はずっと無理をしていた。共働きだというのに、父親は何も家事を手伝おうとしない。


 子供から見ても、父親の言動は母にちっとも寄り添っておらず、怒って当たり前だと思ってしまうほどだったのだ。


 それでも、彼は娘たちには優しかった。一緒に風呂に入ってくれるときもあれば、寝る前に本を読み聞かせてくれたこともある。

 

 思い出は多くないけれど、ひまりは確かに両親のことをどちらも愛していたのだ。

 

 

 


 決して仲が良いとは言いづらかった家族だけど、だからといって何も思い出がないわけではない。


 あの二人も最初は寄り添い合おうとして、休みの度に色々な所へ連れて行かれたものだ。

 

 あの子と出会ったのも、本当に偶然だった。


 沖縄への家族旅行中。

 また、両親が言い争いを始めたとき。姉の由羅はいつものことだと、持ってきていた本で読書を始めたが、ひまりは我慢の限界だった。


 激しく罵り合う空間に我慢ができず、宿泊先のホテルを飛び出してしまったのだ。

 

 勢いよく飛び出したのはいいものの、見知らぬ土地で知っている人もいない。


 道端で蹲っているひまりに、声をかけてくれたのがあの子だった。


 『色しろいねえ。ナイチャー?』


 確かあの頃も、背はひまりより小さかった。タンクトップにショートパンツを履いた、短いヘアスタイルのあの子は、どう見ても男の子にしか見えなかったのだ。

 

 歯の生え変わりの影響で、少し舌足らずな喋り方も、実年齢より幼く見えていた。


 『なにしてるの?』

 『……お父さんとお母さんが喧嘩してたから、飛び出してきた』

 『けんか?それは嫌やっさ』


 沖縄の方言が強いため、聞かずとも地元の人だと分かった。

 あの子が話す言葉で理解できたのは半分ほどだったが、いまと変わらぬマイペースさでお構いなしに言葉を続けていたのを覚えている。


 『沖縄、たのしくない?』


 そう言うあの子は、どこか不安そうな瞳をしていた。

 もしかしたら、旅行で来た観光客に、沖縄がつまらない所だと思われるのが嫌だったのかもしれない。

 

 地元を酷く愛しているあの子であれば、そう考えたとしてもおかしくない。


 『ここからね、海近いんだよ 』


 ひまりの言葉を聞かずに、あの子は強引に手を取って、そのまま海まで連れだしたのだ。


 初めての土地で、見知らぬ男の子と手を繋いでいる状況は、幼いひまりをドキドキさせるには十分だった。


 夏の日差しにキラキラと照らされていたせいで、より一層輝かしくあの子が見えていたのだ。


 砂浜は真っ白で、ふわふわと柔らかい。海もエメラルドグリーン色で、今まで見た中で一番綺麗な景色だと、本気でそう思ったのだ。


 『沖縄、いい所でしょ』


 そう言って誇らしげにするあの子が、あまりにも子供っぽくて。

 つい笑ってしまえば、あの子は嬉しそうに笑っていた。


 『ね、海見たら幸せな気持ちになれるんだよ』


 純粋で、真っ直ぐで。

 だから、惹かれたのだ。

 一緒にいると肩の力を抜けて、自然と笑えてしまう。

 もっといたいと、気づけば思ってしまった。


 しかし時間と言うのは無常にも過ぎ去ってしまうもので、一時間もしないうちに、あの子に案内をして貰って宿泊先のホテルまで戻って来ていた。


 ロビーには酷く心配そうに表情を歪める母親の姿があって、ひまりの姿を捉えるのと同時に涙を流してしまっていた。

 

 見知らぬ土地で娘が消えて、きっと酷く心配させてしまったのだ。


 『あなたがこの子を連れてきてくれたの?本当にありがとう』

 『べつにいいって、無事に着いてよかったよ。もうかえるね』

 『まって、なにかおれいを…』

 『じゃあ、ご飯食べにきて』


 にこっと口角を上げて見せる姿に、ひまりの初恋はまんまと奪われてしまったのだ。


 『店やってるから。食べにきてよ』


 その笑顔にあっさりと恋に落ちてしまったなんて、彼女が聞いたら笑うだろうか。


 『記念に、写真撮ったら?』


 恥ずかしそうに頬を染め始めたひまりを見て、母親は何かを察したのだろう。後押しされるままに、二人でツーショットの写真を撮ってもらったのだ。


 そのまま走って帰って行くあの子の背中に、ひまりはずっとドキドキしてしまっていた。


 翌日、ひまりはもう一度あの子に会いたいと駄々をこねた。

 しかし、お店の名前を聞く前に走り去ってしまったために、聞けずじまいだったのだ。


 そして、10年後。

 まさか高校生になって、東京であの子に…島袋晴那と再開するなんて思いもしなかった。

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