第51話
店名が入った黒色の半袖Tシャツに、腰にはエプロンを巻いて接客に励む。
仕事の内容はいつもと何も変わらないけれど、決定的に違う箇所が一つある。
「てびち、おかわり」
「はーい」
返事をしながら、独特のイントネーションに懐かしさが込み上げる。
半年程前は毎日聞いていたというのに、どうしてこんなにも懐かしく感じてしまうのだろう。
「3卓のお客さんてびちお代わりだって」
「わかった。晴那、そろそろ上がって良いよ」
時計を見やれば、既に時刻は20時を迎えていた。
12時からここで働いていたため、あっという間に8時間も時間が経過していたのだ。
「晴那のおかげで仕事楽になったよ。ほんと助かる」
現在の店長である親戚の言葉に笑みを返して、晴那は店を後にする。
いつもと決定的に違う箇所。それは、ここが東京店ではなくて、本店のある沖縄だということだ。
季節は10月だというのに、まだ半袖でも生活できる気温。東京との差は、そう言った些細な所からも感じられた。
両親は当然東京で仕事に勤しんでいるため、店を出た晴那が向かったのは父親方の祖父母の家だった。
ホテルに連泊できるお金もないため、信用できる彼らを頼ったのだ。
「ただいま」
「おかえり、外寒いねえ」
「…そう?まだ暖かくない?」
「沖縄にしては寒いさあ」
確かに、晴那も沖縄に住んでいればそう感じたのかもしれない。
暖かいと言っても夏に比べれば気温は下がっており、現地で暮らしている人にとってその差は大きいのだ。
無意識に、あちらを基準に物事を考えてしまっていた。
既に食事は出来上がっており、急いで手洗いを済ませてから祖父母と共に食卓を囲む。
父親方の祖母は料理が上手で、うみんちゅハウスのメニューの中には父にとってのお袋の味が幾つも混ざっているのだ。
「おいしい」
「本当?よかったさあ」
「落ち着くまで、ここにいていいからね」
東京に引っ越した孫娘がある日いきなり、一人で現れる。
きっと酷く驚いたであろうに、彼らはそれを顔に出さずに、いつも通り優しく接してくれているのだ。
理由も言及せずに、東京で何かあったのだと察して両親に連絡まで入れてくれた。本当に、祖父母には感謝してもしきれない。
文化祭を終えて、晴那は逃げ出した。学校を出た足でそのまま電車を使って空港まで向かい、沖縄行きのチケットを購入して、ここまでやってきたのだ。
家に帰れば、あの子と顔を合わせなければいけない。
他の誰かとキスをしたひまりと、平常心で顔を見合わせられる自信がなかったのだ。
東京で他に頼る人もいない晴那は、遥々沖縄までやってきて、この恋心が覚めるまで雲隠れしてしまっていた。
いまはまだ、冷静にひまりと向き合える自信がないのだ。
気づけば、すでに1週間も日付が経過してしまっている。
スマートフォンの電源は落としているため、東京の友人とは一度も連絡を取っていなかった。
長期休みでもない平日に帰ってきた罪悪感から、沖縄の友達にも、誰一人帰ってきたことは伝えていない。
うみんちゅハウスで働く人と、晴那の親族だけが行方を知っている状態だった。
晩御飯を食べ終わってから、祖父が市場で買ってきたスターフルーツを頬張る。縁側に足を掛けながら、ぼんやりと夜空を眺めていれば、洗い物を終えた祖母が隣に腰を降ろす。
「しばらく見ない間におしゃれさんになったさあ」
「そうかな……?」
「お化粧して、東京の人みたい」
昔の晴那であれば、その表現に勢いよく訂正を入れていただろう。
東京に行ったけれど、自分は沖縄の人だと、ムキになって噛みつく姿が容易に浮かぶ。
昔だったら嫌で堪らなかったそれを言われても何も思わないのは、東京にいる間に心境に大きな変化があったからだ。
あの場所にいるうちに、晴那は土地も、人も、次第に好きになっていったのだ。
いつかは、あの場所に戻らないといけないことは分かっている。
だけど今はまだ、この場所で現実から目を背けてしまいたかったのだ。
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