第52話


 本日五度目のアラーム音に、ひまりは這いつくばうようにベッドから起き上がる。今朝も、晴那は来なかった。


 朝起きるのが苦手なせいで、携帯のアラーム音を三分起きにセットしているのだが、どうにも効果はいまいちだ。

 結局今日も、遅刻ギリギリの電車に乗るはめになりそうだった。


 ベランダに出て、深く新鮮な秋の空気を楽しむ。

 どこかさっぱりとしていて、冷たいそれが体に染み渡っていく。


 「……どこ行ったのよ」


 不格好に、段ボールでふさがれた隔て板に視線をやる。

 父親に言えばすぐに直してもらえるだろうけど、なぜかそのままにしているのだ。



 朝一人で起きて、遅刻ギリギリの電車に一人で乗って、学校に行くのも。


 今まで通りだと言うのに、あの子がいないだけで、どうしてこんなにもぽっかりと胸が空いたような気分になるのだろうか。


 失恋は、一度した。

 初恋の子が男の子ではないと知って、ひまりの初恋は一度終わっているのだ。


 学校に着けば、上っ面に仲の良い人たちが寄ってくる。

 その人たちに適当に相槌を打つのも、いつも通りなのに。


 あの子がいない日常は、もうひまりにとって当たり前ではなくなってしまっているのだ。


 担任である女性教師が入ってきて、出席を取り始める。名前順で、ひまりの二つ前に呼ばれるはずのあの子の席は、相変わらず空っぽだった。


 「島袋は今日も休みな」


 後ろから、「晴那ちゃんどうしたのかな…」と心配そうな声が聞こえてくる。


 島袋晴那は、文化祭以来学校を休んでいる。

 今日で1週間で、連絡を入れても何も返事がないのだ。


 それどころか、家にもいない。晴那の両親に掛け合っても、「誰にも教えないでと言われている」の一点張りで、何も教えてもらえなかった。


 両親が行方を知っているため身元は安全なのだろうけど、心配であることには変わらない。


 

 一限は移動教室のため、教科書を持って廊下を歩いていれば、ヒソヒソと声が聞こえてくる。


 ここ一週間で慣れてきてはいるが、鬱陶しいことに変わりは無かった。


 「あの子だよね?」

 「そうそう。小森に全治1ヶ月の怪我追わせた子」


 わざとらしく、チッと大きく舌打ちを打てばすぐに静かになる。


 体格差のある男に怪我を負わせた凶暴な女子生徒として、悪い意味でひまりは有名になってしまっているのだ。


 文化祭後の後夜祭。過去に告白をされた小森に呼び出されて、そのまま壇上の上でキスをされてしまった。


 一度振った相手だというのに、進路のことで話を聞き出そうとしたのがそもそもの間違いだったのだ。


 「……はぁ」


 ひまりにしては珍しく、大きなため息が零れる。


 もし過去に戻れるのであれば、ひまりはあの男の言葉に一切耳を傾けなかっただろう。


 ひまりは小森に対して何の感情も抱いていない。

 

 それどころか、しつこい彼に対してマイナスの感情を抱いていた。


 しかし、ある日のこと。

 彼が特別な入試方法で、ひまりの希望する大学へ進学する予定であることを、本人の口から聞いてしまったのだ。

 

 通っている高校と、ひまりが希望する大学の間では、特別な入試制度を結んでおり、在学生だけが受験できるルートが存在する。


 小森もそれを利用するらしく、殆ど受験資格は得たものだと自信満々に語っていたのだ。


 特別な入試制度といっても、その枠は限られている。


 世間的に見ても偏差値も高く、ネームバリューのある大学であるために、毎年選出できる生徒は三人いるかどうかで、倍率はすさまじいのだ。


 きっとこの男は、ひまりの希望する進路をどこかで聞きつけていたのだろう。


 まんまと釣られてしまい、情報を聞き出すために何度か会ってしまったのだ。


 もちろん男女の仲になることはなかったが、当初より友好的な態度のひまりに、彼は何かを勘違いしてしまったらしい。


 壇上の上でキスをしてきた小森に、あまりの苛立ちと吐き気に思いきり蹴りを入れてしまったのだ。


 当然学校中でそれは噂され、ひまりは凶暴な女と噂話をされるようになってしまっていた。

 



 



 中休みになれば、当然のようにひまりは教室でクラスメイトと食事をしていた。

 

 晴那がいないのであれば、わざわざ仲の悪い姉と二人で食事をする理由もない。


 コンビニエンスストアで購入したカップスープに口を付ける。


 食堂に置かれてあるポッドのおかげで、熱々の状態で食べることが出来るのだ。


 晴那はいつもおにぎりやパンばかりを購入しており、食堂に寄る理由もないため真っすぐに校舎裏へと向かっていた。


 由羅と二人きりにする時間を少しでも減らしたくて、ひまりは食堂へ行かなくて済むようにお湯や電子レンジの必要ない食べ物を購入していたのだ。


 そのため、こうして中休みに暖かいスープを飲むのは久しぶりだった。


 「晴那ちゃんげんきにしてるかな」


 沈んだ声を漏らしたのは、晴那とひと際仲の良い水戸沙月だった。


 悪いと思いつつも、背後にいる彼女たちの会話を盗み聞きしてしまう。


 「文化祭から一回も来てないよね?」

 「何かあったんだと思う…他のクラスの子が、廊下で晴那ちゃんが泣いてる所見たって言ってたの」


 初めて聞く話に、手を止めて沙月たちの会話を遮って言葉を発する。


 焦りを隠す余裕もなかった。


 「どういうこと?」

 「私もよくわからないんだけど、何か辛いことがあったのかなって…」


 純粋なあの子が、誰かに傷つけられてしまったのではないかと、心配で堪らなくなる。


 今すぐに連絡を取って理由を聞きたいところだが、生憎連絡しても一度も返事は帰って来ていないのだ。


 当然だ。


 ひまりは、晴那の気持ちを見て見ぬふりをした。


 女として、ひまりのことを好きだと言うあの子の気持ちを、蔑ろにしてしまったのだ。


 そんな相手から連絡が着て、返事を返してくれるはずもない。


 寧ろ、今まで変わらぬ態度で接してくれただけ奇跡だったのだ。



 グッと、下唇を噛み締める。

 晴那は、可愛い。

 幾度となくそう思っていたし、だからこそあんなにも守りたいと思った。

 

 由羅から遠ざけようとしたのも、優しいあの子が傷つけられるのが怖かったからだ。

 

 あの日、事故でキスをしてしまった感触を思い出す。


 柔らかくて、髪からはひまりと同じシャンプーの香りがした。

 ドキドキして、その日はちっとも眠れなかったのだ。


 だけど、それが恋と呼べるのか。

 愛と呼んでもいいのか。

 同性に対して恋心を抱いたことがないひまりは、長いこと戸惑い続けているのだ。


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