エピソード五 ボーイスカウトについて

 なぜか宗教団体がボーイスカウトの団を持つブームがやってきていた。そこで小学四年生だか五年生になる俺にも白羽の矢があたったのだ、大変迷惑な話である。

 推察が入っているのだけども、三十年〜四十年前くらいの当時、宗教団体が青少年育成の予算をかちとった時に、ボーイスカウトという青少年向け活動団体がうまい具合にはまったと思われるのだ。もちろん、ボーイスカウト団には宗教の後ろ盾がある団もあればそうでない団もあるのは承知のうえで言及している。あと古い話なので話半分程度に聞いて欲しい。

 ボーイスカウトについて説明をすると、小学生のうちはカブスカウトと呼ばれる紺色制服だ。カブスカウトの次が小六でボーイスカウトになり、カーキ色の制服になり高校生でシニアスカウト、大学生がローバースカウトになる。俺の時代はそうだったが今は違うようだ。ガールスカウトなんてのもあったよな、今はボーイスカウトに吸収合併されたようだけども。

 米国だか英国発祥の少年活動でその歴史は長いらしい。スカウト手帳という冊子があって、それがちょっとした読み物兼マニュアルになっており、行動規範や活動について色々書かれていた。たしか「一日一善、備えよ常に」がモットーだった気がする。理念は悪くないし、少年野球やサッカーチームに所属する代わりだと思えば楽しいものだと、当初は思った。

 実際スカウト活動は楽しかった。小中学校という狭い世界しか知らない自分にとっては、スカウト活動を通じて学校外の同世代の友達が増えたから単純に嬉しかった。制服はそれなりにかっこよく、ナイフを持ったりロープワークも楽しかった。竹と麻ひもを使った立ちかまどもとても素敵に見えた。

 自慢できる事といえば、中学生でマッチ一本とナイフと空き缶と薪でお湯を沸かすという競技があり、俺はそれがとても得意だったのだ。ナイフで薪を細くさき、毛羽立たせて火口を作る。ちょっとしたテクニックと根気と集中力が作業を楽にしてくれたのだった。

 デイキャンプも長期滞在のキャンプも楽しかった。鍋にクレンザーと粉洗剤を混ぜ塗り、真っ黒いすすから保護するテクニックもボーイスカウトで学んだ知識だ。

 しかし、たのしい事ばかりではない。俺にとってのスカウト活動は、世界救世教の教徒として目には見えない戦場へ駆り出される戦士だったと思える。親から強制された信仰を盾に、それを疑わず無知を剣にした少年兵の誕生であった。

 子どもの当時はそこまで意識はしていなかったが、卒業して大人になってからふりかえるとそう思える事柄が多かった。例えば宗教章の授与であったり、布教所のご神前でスカウトの制服のまま祝詞奏上をしたこともあった。少年兵だった自分の事を語るのは苦痛である。

 どう苦痛だったか?自分から進んでやりたいと言わなかったからだ。父親の誘導があってはめられた。最初の鎌倉のデイキャンプの時からそうだ。周囲の大人や父親の圧力がとてもすごく強かった。感受性の高い俺はそれら無言の圧力を無視できず、ボーイスカウトへの入団に「イエス」と答えざるをえなかった記憶がある。

「くんたー!」という声を思い出したので、それについて書いてみる。今でも意味が不明な言葉なのだが、年下の団員にろうあ者(耳が聞こえない人)が二人おり、その二人がしゃべっていた言葉が「くんたー」なのだ。

 四〇年経ても何を言っていたのか不明なのだが、そういった障害者の「お世話係」を押し付けられていた感覚を持っている。やりたくて世話をしていた訳ではないのだ。正直言うと彼らは苦手だったし、なんなら嫌いだった。意思疎通ができないのだもの。

 彼らは何かあると「くんたー」という返事をしていた。何か便利なマジックワードか何かなのだろう。彼らと意思疎通が取れた感覚が「ない」謎の敗北感を五〇才の今になっても覚えている。

 一方、俺は彼らの父母からなぜか好評だった。理不尽な気分だ。なんで俺が障害者のお世話係をしなきゃならないんだ、というマイナスの感情は消すことができず、澱のように残っている。

 話を変えると、団員が円になって「いつもー元気!」などエールを出すか!恥ずかしいではないか!羞恥で死にそうだった。従順に行っていたが内心は反発しまくってた。

 他の事を思い出してみる。リーダーとして祭り上げられる反面、俺の手本になるリーダーはいなかった。俺は自分勝手な暴君になっていった。例えば、後輩シゴキ。半田くんが半目をあけたまま移動中に寝てしまう程度にキャンプ中にむちゃぶりをしまくったりした。野島のキャンプでは夜に抜け出してコンビニでエロ漫画を買ったりもした。

 あれだ。鬼軍曹ごっこだ。体育会の後輩イビリだ。でももっと具体的な手口を思い出せないのが悲しい。

 内心は神などを信じていなかったが、大人たちの手前信じているフリをしなければならなかった。なので本心は「やってらんねんわ、バカげてる」なのだが「真面目にやろう」と同年代をまとめる役割だった。とてつもなく苦痛である。俺は嘘つきだった。

 小学生の時点でこれなのだから。おかげでグレるのも早かった気がする。五年生で万引きしたり、エロ本を読んだり、中学でタバコを吸ったりと、ボーイスカウト活動がなければこれらの悪さをしなかっただろうと思えるのだ。抑圧の反動かはたまた早熟だったのかなと五十才の今なら思える。

 これが二重拘束、信仰しないと愛さないと縛り付けられた子どもの末路だとも言える、そんな気がする。

 最初は大船か鎌倉の団にひとりで体験入門した。世界救世教横須賀支部(布教所)所属の横須賀二一団ができてからはそこに所属し、最後は俺一人が横須賀四団に間借りするような状況だった。宗教の大人たちに踊らされたまま、最後は孤独にケアされず放置された。恨んでる。悲しみも大きい。皮肉な事に宗教賞という名誉ある賞も授与された。

 高校生になり、俺は気がついたら孤独にスカウト活動をしていたのだった。信仰を盾にもった少年兵は孤独な騎士団長になっていたのだった。俺の短い人生はなんだったのだろう?としみじみ考えた時期でもあった。

 奉仕活動、野外活動など活動したが、面白かったのはキャンプやハイキングだ。奉仕活動は苦痛だった、制服で赤い羽根共同募金の呼びかけをした事があるのだが、あれは寒く声をはりあげそしてなにより少年には恥ずかしかった。羞恥は一番辛い。なぜ恥ずかしかったか?理屈ではない感情だ。ああこうして俺の中のなにかが死んでいったのを覚えている。度胸がついたか?いや、より消極的になった気がする。感情がつよく事実の記憶が曖昧になるのも切ない。

写真説明:カブスカウトの俺が餅つきをしている(左)

 写真が残っている、カブスカウトで餅つきをしたのと、ボーイスカウトで千葉県の鋸山へハイキングに行った時の写真だ。記憶がないけど。たしかシニアかボーイスカウトで日本ジャンボリーか世界ジャンボリー(両方参加したけど)のどちらかの写真も残っているが記憶はない。

 記憶に残っている活動の記憶は、日本ジャンボリーで他の団の人たちと一緒に生きている鶏をさばいて調理した時の臭かった事だ。ブロイラーだったのを覚えている、卵巣があったのでメスで卵になりきってない内蔵からの残滓が臭く黄色かったのを覚えている。臭くて食えずだったスープを無理やり食べたような食べられなかったような、とりあえず食べようとしたのは覚えている。あと首を切って痙攣している鶏も。

写真説明:鋸山にて、左から二番め手前が俺

 山中湖の湖畔でもキャンプしたのだが、日本ジャンボリーだったか団のキャンプか覚えていないが、消灯・就寝時間なのに坂本九の歌声が聞こえてきて「うるさいがあれはなんだ?」と誰か大人の指導者に聞いたら「あれは坂本九の野外コンサートだ」と教えてもらったのを覚えている。次の年かその年に日航機が墜落したのは後年知った事である。

 中学の頃も比較的熱心にスカウト活動をしていたような気がする、実際には行きたくないと思っていたが、その感情はよく覚えている。

 中学か高校かかなり曖昧なのだが、強烈に覚えているエピソードがある。世界ジャンボリーで会津かどこかへ行った際に急遽呼び出しをくったのだ、宗教賞の授与を告げられた。唐突である。

 いや実際には予め予定されていたのだろう、知らぬは俺のみである。どこか控室のようなテントか広場に通された俺は、そこで他の宗教団体傘下のボーイスカウト達と初遭遇した。自分が宗教の先兵だとわかっているが、他団体の先兵はいるであろうとは理屈ではわかっていたが、実物を見かけると感情が吹き出してくる。

 そこで俺はつい社交的にかつ行動の結果を考えず言ってしまったのだ「俺は熱心な信者ではないのにここで表彰されたり何かを授与されるような事は不名誉である」と。

写真説明:多分日本ジャンボリーだと思う

 そこにいた二人のうち一人はうなづいてくれたし、なんなら乗っかってくれ「俺もそうなんだ」とさえ言ってくれた。もう一人は超然とたたずんでいた。今もその狂信者の印象は残って消えない。いや偉いと思うよ。でもそれって親の奴隷でしょ?そう問いかけたい自分が五十才の今もいる。それは俺への問いかけでもある。

 思い出の曲。今日の日はさようならやキャンプだホイだ。活動自体は米国の本団体であったような少年レイプなどなく良かったのだけど、根本が宗教団体がらみなので悪印象はぬぐえない。巻き添えをくらった大人たちもいるだろうに。あれからみんなはどうしているだろうか?生きていればいいけれど。

 取材で横須賀へいった行き帰りに安針塚の梅林公園や、湘南鷹取のハイキングコースを思い出した。ボーイスカウトで何度か行った場所なので、五十才の今もう一度訪問したらどうなるだろうか?行きたい気分と危機を察知して、行くべきではないという気分を感じている。

 苦い想い出を追記する。ボーイスカウトの連絡網は家庭用電話だった。T君へと連絡をするのに、電話番号が間違っており、何度もかけなおすが別の家へつながってしまい、泣きながら同じ人へ電話を繰り返すという事があった。なぜ泣いたかというと父親がT君につながるまで何度もかけろとむちゃぶりをして、パニックになった俺は泣きながら電話を繰り返すというキチガイじみた行為をさせられたからである。五十才の今もって意味がわからない行動である。父親は俺に何をさせたかったのだろう?どうしたらT君に連絡が取れるのだったろう?苦しく辛い思い出だ。

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