エピソード四 中学生の頃

 世間では、三宅裕司のヤングパラダイス(ニッポン放送の夜十時からはじまるラジオ番組で、恐怖のヤッちゃんやヒランヤ、ベースボールクイズが人気コーナーだった)が人気を博しており、中森明菜のミ・アモーレがレコード大賞を受賞した頃の話だ。

 俺は横須賀市立坂本中学校に入学していた。以下坂中は京急の汐入駅から徒歩十分〜十五分程度の小高い丘の上にあり、近隣に不入斗中学校や青葉台中学校、市立養護学校、幼稚園があるザ・文京地区といった感じだった。不入斗中から坂中にたびたび侵入者があったりと、当時は治安がよくなかったのも記憶にある。

 中学時代は不遇だった。毎日が灰色だった気がする。なんでか?俺もよくわかってなかったが、思春期特有の不安定さに加え環境の悪さがあったのだろう。そういえばこの頃、やっとオナニーを覚えて猿のようにシコってた気がする。それ位しか何かを発散する手立てがなかったからだ。常日頃から眠さも最大級だった。ADHD(注意欠如・多動症)特有の症状だったのと夜になると眠れずゲームをしてた気がする。そういえばドラゴンクエスト3のやりすぎで受験を棒に振ったのを覚えてる。

 それと何故か理科が異様にできる子どもだった。クラス担任で理科担当の青柿教師は、社会人を経験してから教師に転職した経歴を持つ人だ。その経歴ゆえに食えない奴だった。

 彼の見た目は気持ち悪いオタクだった。まあオタクの同族嫌悪だったのかも知れないが。

 彼がクラスをまとめるために主導して、いじめのターゲットになる生徒を用意した。つまり、問題児やケアが必要な生徒を、クラス運営が彼の思い通りになるように、いじめっ子たちへ投げ出したりと狡猾だった。だから食えない奴だったのだ。

 そんな青柿教師に俺は嫌われていた。俺も彼を嫌ってもいた。

 ADHD(注意欠如・多動症)特有の落ち着きのなさや衝動のコントロール不可についても中学時代が一番ひどかった気がする。衝動的に何かしたくなった時に歯止めがきかないのは自分にもどうしょうもないのだが、先生や両親からはどう見られていたのだろう?当時はあまり気にも止めなかったが苦労をかけたようだ。学校に父親を呼び出されたりしたっけ。何の件かすっかり忘れているけど。

 そんな中、嘘をついて大事になった事件があって、悪友の月山と学校の一時間目をサボろうと、その辺をうろちょろしてたが暇をつぶす場所すらなく、仕方ないから遅刻して学校へ行こうとなった時、どちらかが言い出したか忘れたが「カツアゲされて遅刻した」という嘘を思いついたのだ。そしてわざわざ月山のシャツをやぶり、登校したのだ。

 結果大騒ぎになってしまった。警察に通報がされ、これまた別の学校をサボっていた罪のない高校生、運悪く暴走族の人らしかったのだが、そういった人たちが警察に検挙されてしまい、俺達の嘘をまともに受け取ってしまった警察の人らに大変丁寧な取り調べにあったそうな。どれくらい丁寧かと言うと、そりゃもう天下の神奈川県警がヤンキー相手に殴る蹴るの暴行を加え……いや、これ以上真実を書くのは止めておこう。

 俺達が嘘をついたのもすぐバレてしまったのだが、結果高校生や暴走族の人らが大激怒してしまう。その結果として俺達二人は同級生のワルに殴られけじめを取るという行動に出たのであった。バカだよねえ俺達は。

 こういう結果を予想できず衝動的に行動してしまうのが非行だしADHD(注意欠如・多動症)特有の衝動のコントロールができない事だと知ったのはだいぶ大人になってからである。あーあ。

 行動の結果を予測できず失敗したなというのは他にもあって、子どもだったなあと思うのが波多野さんとのやりとりである。

 あれは中学一年の入学直後くらいだったと思う、波多野さんからラブレターを渡されたのだ。なんとこの俺が。おどろきである。

 舞い上がったのもそうだが、同じクラスの悪友竹脇に自慢したかったのもある。ついつい帰り道に自慢してしまったのだ。波多野さんからのラブレターにちゃんと返事をすればよかった。それがお断りの挨拶でもだ。

 そういった事をしなかった俺は波多野さんをクラスの人たちの前でラブレターを読み、侮辱してしまったのだ。ああバカだ俺。もうちょっと考えて行動すればモテモテ人生だったかもしれないのに。見た目だけは美青年の領域だったはずなのに(うぬぼれ)。

 この行動の結果かどうかわからないが、高校生になってから波多野さんに間接的に復讐されたのだ、おかげで背中が痛むのだ。

 いじめにあったのも中学生の頃だ。森平と竹脇がなんでか知らんが急に俺へちょっかいを出してきはじめ、事あるごとに何かされてたのを思い出す。怒りや戸惑い等マイナスの感情は思い出せるが、いじめの詳細を覚えていないのがまた辛い。

 そういえば思い出した!配達員をしていた竹脇の父親が、自殺したのを聞いたのは中学だったような気がする。もっと前だっけ?どうも父親を亡くして、しょげて凹んでいた竹脇と、俺に対してしつこくいじめてきた竹脇は同一人物なのに、なぜか記憶の中では別人のように感じるのだ。なんとも不思議な感覚だ。彼の父親の死に対して同情する所があったからかも知れない。

 いじめも辛かったが、もっと辛かった出来事を冬になると思い出す。昭和六十年二月十七日の雨の日に、祖母の葬式があったのだ。

 大腸がんだった、享年六十三才。見た目は老けてたけど、若くして亡くなった。

 何が辛かったって、祖母が死ぬのがわかってから父親に「がんで先は長くない」と言われた事。それまで調子が悪く自宅の二階で寝てばかりいた祖母は、家の中に不機嫌と苦痛を撒き散らしていた。

 継母(当時は実母だと思っていたが)の作った食事を残す、文句を言う、食べないとわがまま放題。ワルじゃん。この頃すっかり母へなついていた俺は、祖母のそんな態度に反抗心を燃やしていたのだった。

 内心で死ねとさえ思っていたが、まさか本当に死ぬ病だったとは思わなかったので、ショックは大きかった。しかもがんの告知はなかったらしい。父親も取り返しのつかない所まできてようやく俺に死を告げるという阿呆さであった。もっと早く死について言ってれば最後の言葉くらい何かあっただろうと思っている。

 叔母への取材で判明したのだが、祖母のわがまま放題は「ひょっとしたら、カツ子さん(祖母)は明穂さん(継母)へ甘えていたからわがまま放題だったのではないか。その証拠にカツ子さんは私(叔母)へ嫁の文句の一つも言わなかった」との証言があった。なるほど全幅の信頼があればこそ甘えられる訳か。しかし祖母は甘え方が下手だったと思えるのだ。

 家の中の空気をどんよりさせておいて、それかいなというツッコミはしたくなる。この自分史を書くかたわらに読んだ、ちくま文庫の正岡子規に泣き言を言う病人の言があり(子規が結核に苦しんだ件でエッセイを書いており、それらが収録されている)、それが祖母によく似たわがままさなのだ。もっとも正岡子規の方が素直に弱音を吐いている、これはおそらく病識の違いというやつだろう。子規が死病である結核、祖母が告知なしのがんだ。病識の有無で言動もかわるだろう。五十才の今ならやっとわかるが、中学生の俺にはそんな祖母の甘え下手を知る事もなかった。

 祖母への怒り、それは宗教の子どもとして育てられた事への怒りだ。そういった感情を生きている間にもっとちゃんとぶつけられたならば、そうしたらもしかして俺を見捨てた実母への言及も聞けたかもしれない。そういったチャンスを全て無くしてから「もう最後だ」と告げる父親への俺の怒りは凄まじかったし今も残っている。

 そんな感情で迎えた祖母の葬式も最悪だった。自宅が斎場で……つまり自分の部屋の学習机を含む荷物が全部放り出され、ブルーシートに包まれ、隣の空き地に放置されたのだ。どさくさまぎれになくなった本やマンガもあった。火事場泥棒というのは知識として知っていたが、葬式泥棒は初体験だった。

 自宅のそこかしこで雑魚寝する、見知らぬ親戚。唐突に俺をどなる見知らぬ親戚、酒の匂い、世界救世教の祝詞と玉泉寺(大船にある寺院。菩提寺)の般若心経の合奏、もうこりごりだった。この一件以来、親戚をみたら、泥棒か蛮族あつかいする内的ルールができた。一気に老け顔にもなった。

 どんなに面白いことがあっても、どんなに感情が高ぶっていても、この葬式の事を思い出すと精神が落ち込み、そして真顔になれる。そのくらい祖母の死とその葬儀はショックが大きかった、五〇才の今になってもそれは変わらない。

 この頃か、世界救世教が内紛を起こし、箱根と熱海で分裂をしたはずだ。いい機会だったので距離をとることができたするけど、まだボーイスカウトに所属していた自分は縁を切ることができていなかった。この辺のボーイスカウト・世界救世教・俺については別稿で触れる。だってよく考えたら宗教賞をもらっているのだもの俺!熱心な信者じゃないのに!

 時系列がちゃんとしてないのはADHD(注意欠如・多動症)特有の現象なので申し訳ないがどうにもならんのだ。

 思い出したので追記する。中学生の頃に横須賀市上町の柳屋という衣料品店で、小学校一年生の時にお医者さんごっこ(おしりの実験)をした、「ちゅーちゅー魔神」こと白田さん(エピソード三で触れている)と再会したのだった。同行していた母が白田さんの母親に気づいて再会したからであり、俺は成長した彼女を一目で気づけなかった。

 あの積極的にスキンシップしたきた近所の女の子が、おっぱいもおしりも成長して、おとなしい風に見え、再会するとは!そのままお互いに再会を喜ぶでもなく、うつむいてたのには、たいへん妄想がはかどってしまった!どうせなら電話番号を聞き出しデートに誘って「あの頃のえっちな行為の続きをしませんか?」などと男子中学生らしい自分に都合のいい妄想をして夜のオカズにしていた。だから性癖が歪むんだ、ぎゃふん。

写真説明:四十年以上経てもまだ現役の、パンダ公園のパンダ

 令和三年三月二十日に坂本中学校の入り口まで取材にでかけた。京急汐入駅から歩いたが、思い出より結構遠かった。具体的にはパンダ公園から坂本坂下までがやたらと長く感じられた。パンダ公園のパンダと謎恐竜のオブジェクトは現在も健在であり、なつかしさに負けて写真を撮影してしまった。

写真説明:坂本坂の途中にある馬頭観音

 子之ねの神神社かみじんじやも道路の反対側から鳥居を撮影した。例大祭は毎年六月だったはず。坂本坂途中の「うらが道枝道」という古道の標識も撮影してしまった。関連して、中学生の頃は郷土(史)研究会という、小池先生が顧問の同好会にも参加してたなあと思い出したりしたのであった。

 この小池先生が授業やクラス運営はやる気をみせない大人で、趣味の郷土研究や文学の事になると急に熱心になるのには、子ども心に「なんて趣味に生きる昼行灯な大人なのだ、うらやましい。このような大人になってみたいものだ」と、変なあこがれを抱かせる人であったなと思いだした。今もまだご存命なのだろうか。

 なつかしさついでに坂本坂の途中にある馬頭観音も撮影してしまった、わはは。とはいうものの、いつもは道路の反対側を登り下りしていた関係で、懐かしさや特別思い入れがあるわけではないが、汐入や坂本が特別なのか、馬頭観音をそこそこ見かける事が多かった横須賀時代を思い出したりしたのだった。

 坂本坂上に出たら正面に、見たことがない小学校があった。それもそのはず、青葉小学校と坂本小学校が合併して、一九九九年に桜小学校となったそうだ。この周辺へ二十年近く一切近づいてないから事情がわからなかった。しかも、記憶にあるより道路の車線も幅も増えてるいるし、盛り土もされているようだ。

写真説明:記憶にない桜小学校とその正門

 坂本中学校の入り口に到着したけれども、特段感動したりはなかった。ネガティブな感情もなかった。よかったのか悪かったのかわからない。中学時代に対してとても嫌な感情が記憶されているけれども、その場所を訪ねてもフラッシュバックもなかった。いやな記憶や感情を引き出すかなと警戒していたのだが、あっけなかった。

 写真の石碑は、もっと木々の中に埋もれていた記憶があるのだけれども、道路そばに移動させられたのか、俺の記憶違いなのか不明。気になったので撮影してみた。

写真説明:坂本中学校の入り口付近、奥に見えるのが中学校の建物

 黒歴史を思い出したので書く。修学旅行は京都・奈良だった。問題はそれじゃなくて、修学旅行の感想文をなぜか俺はSF小説っぽく書き上げて提出してしまったのだ。うろ覚えだけどこんな感じ。

 ある組織のエージェントである俺は、中学校の修学旅行を隠れ蓑にとある資料を受け取りに京都・奈良へと赴いたのだった。行く先々で現れる謎の人物、とある資料とは何か?……みたいな。

 それを面白がった国語の金城先生が、なんと俺に自著を校内放送で朗読させるという地獄を味あわせやがった。最悪!はずかしいじゃないか!俺の創作への意欲は羞恥心のためポッキリ折れてしまったのだった。

 この事があってから、他人の中二病エピソードを見聞きすると、この件を思い出して悶絶するようになってしまった。どうしてくれるんだ金城先生のハゲ!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る