Track6 深窓のイドラ(上)

## 00


 その屋敷は暗雲の下に鎮座していた。立派な門扉を備えてこそいるが、手入れがされなくなって久しいようで、庭は荒れ果て、外壁も痛んでいる。いわゆる幽霊屋敷と聞いてまっさきに想像するような建物が、そこにはあった。


「ここが……『深窓のイドラ』の……」


 ティーノはひとつ息を大きく吸うと覚悟を決めて、庭の中を進み始める。全体的に老朽化の進行している屋敷だが、入口となっている玄関扉は問題なく開閉ができるらしい。

 高く、野放図に伸びた草を掻き分ける。

 為すべきを為すために。


(——『深窓のイドラ』を消滅させる。それが、ぼくに与えられた、最初の試練)


 彼は頭の中で反芻する。彼の師匠であり、庇護者であったヴェリーゼの言葉を。


## 01


 魔道機関エンジン式自動車“プロミネンス”が停車すると、ヴェリーゼはティーノに車から降りるよう促した。


「ティーノ。お前に試練を与える。『深窓のイドラ』、彼女を消滅させてこい」


 その一言は、ティーノのみならず、降車していた他の面々にも一定の驚愕をもって受け取られた。


「イドラ退治をファウスティーノ君に任せる!? 正気かヴェリーゼ!」


 エマヌエルが詰め寄る。だが、ヴェリーゼは一歩も退くことなく真正面から言葉を受け止めた。静かに頷いて、


「『深窓のイドラ』は試金石として丁度良い。私がティーノの師匠として、庇護者として、彼が森の外に出ても、ブレーゲラント軍の庇護下から離れても問題ないのかを試す絶好の機会だ」

「だがっ……! イドラは危険だ! 一体何人の魔術師が彼女に挑戦し、敗れ、傀儡にされてきたか……知らないわけではあるまい!」

「だからこそだよ。エマヌエル」


 ヴェリーゼは微塵も動じることなく告げる。


「イドラごとき祓えぬようでは、野垂れ死ぬのが関の山。

 私がティーノに仕込んだのは最低限の常識と魔術のことだけだ。高確率で、彼は魔術師を生業とすることになるだろう。そして、もっとも得やすい仕事はイドラのような怪異退治だ。〈サイリュクス王の呪い〉があるとはいえ、〈穢れ〉が蓄積すれば幽霊や怪物をはじめとする魑魅魍魎が発生するのはフォウステス大陸でも同じこと。中には、イドラの数倍手強いものもあるだろう。一度の失敗が大きな災厄に結びつくものさえ、存在するのだ。

 ゆえに、イドラは試金石たりうる。それなりに厄介で、それなりに歴史を持っており、しかし失敗しても傀儡にされるだけで済む。

 むしろ、これは温情というものだ。幸運というものだ。巡り合わせに感謝するべきだろうさ」

「……温情? 幸運?」


 ルチアは眉を顰めた。その瞳には憤怒の二文字が浮かんでいる。〈聖遺物〉などなくとも、視線で人を殺せるかもしれない。そう思わせるだけの気迫がある。

 ティーノは自分にその言葉が向けられているわけでもないのに、手の平にじっとりとした汗が湧き出るのを感じた。


「伝説の魔術師が聞いて呆れる。ただ、見殺しにすると言ってるだけじゃない」

「……ルチア、君はたしかこう言ったな。『然るべき時とはいつか』と。それは彼が試練を突破した時だ。そして試練はこれから始まる。幸いなるかな、然るべき時の到来は間近だ。ゆえ、手出しは許さん。黙って見ていろ」

「何を勝手な……」


 納得できなかったのだろう、ルチアはヴェリーゼに掴みかかろうとする。しかし、ヴェリーゼの胸倉を掴むより先にルチアの身体が膝をついて倒れた。


「——な。い、つの間に……魔術を……」

「魔術師って生き物の言葉は、その全てが詠唱だと思った方がいい。警戒すべきは沈黙をもって為される無詠唱ではない、会話をもって為される偽装詠唱だ。これからは、油断しないよう…………もう、眠ってしまったか」


 眠りに落ちたルチアを車に運ぶようエマヌエルに命じて、ヴェリーゼはほか全員に向き直った。


「さて。何か意見のある者は?」


 返答は沈黙をもってなされた。


「いないな。では、さっそくだが第一の試練を始めよう。刻限は……日没までだ。怪異は夜に力を増すものが多い。もし、日没までに帰ってこなければ、ティーノ、試練は失敗したと見做す。いいな」

「…………」


 ティーノは首肯した。

 その一方で、横目でちらとセナの顔をうかがう。

 セナは何か考えている様子だったが、ティーノの視線に気付くとにっこりと微笑んでうなずいた。


## 02


 セナの微笑みの意味を考えながら、ティーノは屋敷の扉に手をかける。


(セナさんは、ぼくが試練に失敗したら困るはずだ……それなのにあの表情。もしかして、ぼくが試練を突破すると確信してくれているのだろうか。ぼくが『深窓のイドラ』を祓って、消滅させて帰ってくると、そう思ってくれている……?)


 だとしたら、それは嬉しい話だとティーノは思う。突破できないと決めつけられるよりもずっと、心強い。


 事前の情報通り、見た目に反して扉はあっさりと開いた。怪異の中には、一定の領域を自分のモノとしているものがいるという。イドラのような地縛霊は十中八九その手合いだ。

 つまり、ここより先、屋敷の中はイドラの領域。そこに、ティーノは一歩踏み込む。


 屋敷の中は薄暗くてよく見えないが、外部の荒れ果てた様子とはうって変わって綺麗なものだ。まるで、今も人が住んでいるかのようですらある。

 玄関を抜けて出た先は広いホールだった。よく磨かれた床、手入れの行き届いた彫像。明かりもなく、しんと静まり返っているのがかえって不自然に感じられる光景だった。


(……さすがに、入ってすぐにイドラが出て来るわけじゃないのか)


 一瞬、ティーノは緊張の糸を緩める。


「まあ!! 頭の上からも耳が生えてるお客様ははじめて!!」


 瞬間、背後から声がしてティーノは振り返る。だが、そこには誰もいない。

 その時だ。不意に、背筋がざわつく感覚に襲われた。


「こっちの尻尾もかわいいわ。ふわふわしていてずっと触っていたくなっちゃう」

「あっ——ま、また後ろに!?」


 再び振り返ってみて、ティーノはその少女と目が合った。彼女はネグリジェ姿でかがんでいた。長い黒髪に痩せ気味の身体。この薄暗いなかで妙に存在感を感じさせる出で立ち。間違いない。彼女が、これから彼が消滅させるべきモノ。


「……し、『深窓のイドラ』」


 その名を呼ぶと、少女はにっこりと笑った。


「おどろかせちゃってごめんなさい。そう、私のことをご存知のお客様だったのね」


 ホークスの話によれば、彼女は病弱とのことだったが、その天真爛漫で人懐っこい笑みからは病の気配など微塵も感じられなかった。

 胸に垂らした髪を手でいじりながら、彼女は赤面する。


「私、お客様が来るとついついはしゃいでしまうの。悪いクセだわ……ねえ、あなた、名前は、なんて言うの?」

「えっ……と……」


 怪異退治にはセオリーがある。分けても、ポピュラーなのは「怪異に名前を知られてならない」というもの。名前とは、個人を同定するのに最も有用な手段の一つだ。名前を知られるということは、怪異からの攻撃を受けやすくなるということを意味する。

 そんなことは当然、ティーノも知っていた。だが、その愛嬌に絆されてか、ティーノは言ってしまった。


「ええと、ぼくはファウスティーノ…………あっ」


 言ってから口を抑えるが、もう遅い。


「そう。ファウスティーノって言うのね。……ちょっと長いから、縮めてティーノと呼んでも構わないかしら?」

「あ、ああ。うん」

「じゃあティーノ。さっそくだけど、あなたをお茶会にご招待するわ! 我がコードウェル家の紅茶とお菓子は絶品なの。是非、ご賞味あれ♪」


 ぱん、とイドラが手を叩く。

 薄暗いホールは一瞬にして燦々と太陽の照り付ける中庭に変わった。暖かな陽気が周囲には満ちている。


「!? ……ここは、」

「どう? 素敵なお庭でしょう?」


 咲き誇るバラを背に、彼女は両手を広げて言った。そして、とたとたとパラソルの下に入ったかと思うと、真っ白な椅子を引いてそこに座るよう促す。


「さあ、席について? 楽しいお茶会を始めましょう」


## 03


「——あの屋敷の中は一種の異界と化している。おそらくは、イドラの思うがままにできる領域だ」


 ヴェリーゼは屋敷を睨みながら言う。


「怪異退治にはいくつかのセオリーがある。だが、問題はそのセオリーを守ることではない。あいつが、ティーノがイドラに惑わされることなく、己の為すべきを為せるか否か。……すべては、その一点にかかっている」


 ヴェリーゼらの頭上には未だ暗雲が空を覆っている。陽射しは阻まれ、冷たい風が吹き付けていた。

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