第20話 さよなら2【銀治郎サイド】

「銀さん」

そのまま椅子で放心していると、ふいに後ろから声をかけられた。顔を上げると、そこには見慣れた自分の顔があった。ただし、髪は相変わらず垂直方向に立っている。少し出たおなかに映える、真っ赤なトレーナーに白抜きのロゴが目にしみた。

「健吾君」

「銀さんも娘さんのお見送りに来たんすか」

銀治郎は顔をなで、涙をごまかした。健吾に君も見送りかい、と言いかけて、銀治郎は急にひらめいた。にわかに血相を変えて立ち上がり、健吾に詰め寄る。

「健吾くん。君は娘に何を言ったんだい」

「え?」

銀治郎は携帯の画面を健吾に見せた。

「このメッセージだよ。『お父さん。行ってきていいって言ってくれてありがとう』・・・・・・僕はこんなことを言った覚えはない。何か話したのかい」

健吾は目を細め、携帯の画面をしばらく見る。

「よく覚えてないっすね」

「思い出してくれ。僕はこの前、行くなって言ったはずなんだ」

「テーマパークの時っすか。あー・・・・・・なんか話してたかも」

「何を?」

健吾はしばらく黙り、答えを探すように頭の後ろを掻いた。

「よくおぼえてないっすけど。銀さんはムスメさんを応援する、って言ったんですよね?」

「僕はそんなこと――――」

そんなこと言ってない、と言いかけてはっとする。もしかすると紘子は、銀治郎が気持ちの上では応援したい、と言ったことを言っているのだろうか。いやでも……。

「だから俺は、銀さんがいいって言ったんならいいんじゃねって言いました」

 銀治郎はそれにも思い当たった。銀治郎は噴水の側で、応援する、と言った後、そのことは、まずは両親に相談してみなさいと言ったのだ。


 銀治郎は駄々っ子のように床を転げ回りたくなった。なんて馬鹿なんだ。なんでもっと慎重に発言しなかったんだ。

「大丈夫っすか」

くぉぉ、と呻く銀治郎に対して、健吾が言った。だいじょうぶなわけがなかった。銀治郎は涙声で言った。

「娘が…行ってしまった。どこに行くかも結局はっきりしないし、アフリカなんて危険すぎる。そうだろう」

「はい」

「いや……正直、こんなに紘子の行動が早いとは、正直思ってなかったんだ」

銀治郎は独り言のようにぶつぶつと呟く。健吾は無言で自分の身体を服の上から叩き始めた。何してるのだろう、と見ていると、ポケットをあさり、銀治郎によれよれのティッシュを渡す。銀治郎はありがとう、と言いながら鼻をかんだ。

「そういえば……健吾くんにも今日メールが入ったのかい」

「はい。アフリカ行ってきますって」

我が娘ながら、軽い。

「で、今日は休みだから俺も見送ろうと思って」

「君は紘子を見送ったのかい。紘子は元気だったか」

銀治郎は懇願するように健吾に聞いた。

「見送ったかって……」


「……姫城さん?」

その時急に、聞き慣れた声が銀治郎の耳に飛び込んできた。


銀治郎はものすごい勢いで、首を三六〇度回し、声の出所を探した。銀治郎のななめ後ろ、ベンチの数メートル先。スタバのカップを両手に持った紘子が、目を丸くして立っていた。テーマパークに行った時とは違った、紺色の軽そうなダウンコートに、動きやすそうなパンツ姿だ。紘子は笑顔で駆け寄ってくる。

「え、来てくれたんですか?」

「あれ、ええと、出発は、十三時四十分の便じゃなかったのかい?」

「ええと。もしかして、間違えちゃいました?ごめんなさい。来てくれるとは思って無くて、適当なメッセージで済ませちゃって」

紘子は申し訳なさそうに上目遣いで銀治郎を見た。

「アフリカ行きの便って二つあって、私の方はケニア行きの四十二分発のやつです。でも、風が強くて到着がちょっと遅れてて。出発はあと三十分後です」

紘子はそう言って時計を見た。三十分後なら、ぐずぐずしてはいられないのだろう。

「そうか……よかった」

 銀治郎はそう言って息を吐き、娘を見つめた。電車の中ではあんなに何を言おうか必死で考えていたのに、娘を目の前にして、何も言えなくなってしまう。こうしてまた会えたことがただ嬉しくて、今一目会えただけで、銀治郎はすでに目的を達成したような気がしていた。銀治郎は感慨深い思いで言った。

「メッセージを読んで驚いたよ。すごい決断だね」

それは正直な気持ちだった。紘子が、自分の夢を自分で叶えるために、ひとりで行動していた。それがなぜか、自分のことのように誇らしい。

紘子は小首をかしげて笑う。昔から変わらない仕草だった。いつもは紘子がハイヒールを履いているから、銀治郎とは同じくらいの身長だ。でも、今日は紘子が自分を見上げていた。子供の時みたいに。しかし、その目は思っていたよりずっと意志が感じられた。


「紘子」

「はい」

紘子はまっすぐな目でこちらを見ていた。もう時間が無い。銀治郎は息を大きく吸った。


「お前は少し緊張感に欠けるところがあるから、防犯にはとくに気をつけなさい。まず金目のものを身につけないこと。お金持ちに見られていいことはない。ピアスやネックレスなどのアクセサリーもその中に入る。カメラ、パソコンの電子機器も同じ理由で、むやみに人目につく場所では出さないこと。お金は分散させて保管すること。パスポートは肌身離さずもつこと。日が暮れたら出歩かないこと。当たり前だが、知らない人についていかないこと。あと、生ものには気をつけなさい。おまえはおなかを壊しやすいからね」

銀治郎はぽかんとしている紘子を見てはっとした。もうそろそろ出発の時間だ。銀治郎は思わず、紘子の手を両手で覆うようにして握った。え、と言いながら、紘子は驚いたように目をぱちくりとさせる。

「一つだけ約束して欲しい」

「え、ええと、はい」

「ちゃんと、無事に帰って来ること。僕が心から望んでるのはそれだけだ。いいね」

「え、あ、はい…」

紘子は銀治郎の真剣な表情を、驚いた顔で見ていたが、手を握られ、見つめられているうちにみるみるうちに赤くなっていく。

そのときやっと、銀治郎も今の自分の姿に思い当たって手を離した。


「あ、いや、ごめん」

「いえ・・・でもあの・・・姫城さん、何か勘違いしてませんか?」

紘子は赤い顔を手で扇ぎながら言った。

「え」

「アフリカは確かに行きますけど、二週間で帰ってきますよ」


 銀治郎はぽかんとした。紘子ははにかみながら続ける。

「年単位のボランティアする勇気もお金も、まだないので」

紘子は、父の姿をした健吾の方をちらりと振り向いた。そして、健吾が少し離れていることを確認してからまた喋り出す。

「お父さんに行けばいいじゃんって言われて、逆にちょっとビビっちゃったんです。本当に行けるかなって。だからとりあえず、二週間だけ行くことにしたんです。自分を試すために」

 銀治郎は全身の力が抜けたようになった。もう、常に娘を目の届くところで守ってやることはできないかもしれない。でも、手が届かないほど遠くに行ってしまう日は、今日ではなかった。

 ケニア行き飛行機の搭乗案内のアナウンスが流れ、紘子が数メートル向こうのゲートを振り返る。人が並び始めていた。

「じゃあ、行きますね」

「本当に気をつけて」

「あはは、心配しすぎですよ」

「心配しても、しすぎることなんてない」

 銀治郎はそう言ってまた涙ぐんだ。いまだけなのだから、思う存分心配させてほしい。銀治郎は、なんとか残りの気力を振り絞って声を張り上げた。

「いってらっしゃい」

「いってらっしゃい」

いつの間にか側に来ていた健吾も、同じように声を合わせる。

紘子が飛行機の入り口に吸い込まれていく。姿が見えなくなる直前に、紘子はもう一度笑顔で振り返って言った。

「いってきます!」

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気の小さいお父さんが入れ替わったのは、娘が恋したヤンキー君でした 湊川晴日 @masamikira

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