第16話 巻き込まれる【銀治郎サイド】

 その後仕事が終わるまでずっと、銀治郎は息吹の持ってきた金について考えていた。怒りとも不安ともつかない思いが、頭の中をぐるぐると巡る。今、自分はこんな状態なのに、あんなにお金を使ってしまって、息吹は変な宗教にでも入ってしまったのだろうか?そしてこの先、ずっとこの体が戻らなかったら、二人はどうするのだろうか。二人ともお嬢様育ちだから、生活レベルを下げるのは難しいに違いない。銀治郎は暗澹たる気持ちになった。健吾の状況から現職に戻るには、大学に行く必要があるが、その金はどこから出す?それに、大学に行っている間、誰が二人を養うというのだ。


 銀治郎はその後、なんとか仕事を終えたが、直接家に戻る気にはなれなかった。気がつくと銀治郎は、電灯がチカチカしている公園のベンチに腰掛けていた。携帯で何度も調べたキーワードをまた入れる。

 入れ替わり。脳の障害。他人。魂。

 銀治郎はこの症状を、できれば専門機関に相談したいと思っていた。しかしいくら探しても、怪しげな個人のオカルトサイトが出てくるだけだで、まともな相談ができる機関はどこにもなさそうだった。銀治郎は一瞬、精神病院に行くことも考えた。しかしすぐに選択肢から外した。多分、こんなことを相談しても、精神障害者か、多重人格だと判断されるのがオチだろう。また、そういう場所に行ったことが万一周りに知られたら、健吾にとっても銀治郎にとっても、社会的損失になる可能性がある。

 銀治郎は両手で頭を抱え、呻いた。数日に一度来る、暗雲が立ちこめるような不安に襲われる。それは、逃れられない悪夢のように、走って逃げる銀治郎を雲の手がつかみ、握りつぶす。銀治郎は真っ暗な中で、息ができなくなる恐怖に襲われる。

 変な事を考えないようにと自分を保ってはいるが、こんな状況、正直自分自身でも受け入れ難い。健吾と定期的に会ったり話したりして、互いの状況を確認することができていなかったら、銀治郎はとっくに発狂していただろう。


 銀治郎は廃棄でもらったパンを開け、無意識に頬張る。しかし、食べても食べても、あまり味を感じなかった。明日のためにとっておこうと思ったのに、四つあったパンを、全部食べてしまった。胸もお腹も苦しかった。買ってきたコーヒーでパンを無理に体の中に流し込む。

 その時、近くで甲高い笑い声し、銀治郎はビクッとした。その声はまるで、自分を笑っているかのように聞こえた。銀治郎は声の出所を確認するために辺りを見回したが、姿は見えなかった。

「あれ?」

 自動がハッと後ろを振り向くと、ベンチの斜め後ろに、この前の万引き少年達がいた。今日は制服を着ている。この公園は、あの子達のたまり場だったんだ。銀治郎は何も考えずに、前と同じ公園で休んでいた自分を心の中でなじった。何で僕はこうなんだ。

「服装が違うから気付かなかった。この前はどうも」

男たちはそう言って銀治郎をとり囲んだ。少年達は、銀治郎を見てニヤニヤと笑っている。銀治郎はとっさに逃げようとベンチから立ち上がったが、他の少年達がそれを阻み、銀治郎の身体を左右から押さえた。銀治郎は本能的に、腕を思い切り振った。すると、銀治郎の拳が、少年のうちの一人の顔に当たった。男は一瞬ひるんだが、すぐ体制を整える。

「いってぇな!」

少年は銀治郎の手を後ろに持って行き、足に蹴りを入れた。銀治郎はよろめく。やばい。これはやばい。


 スエット姿の少年は、今日は学ランの下に赤いトレーナーを着ていた。こいつがリーダーらしい。銀治郎は、前会ったときの彼の怒りの形相を思い出し、ぞくりとした。

「おい栗本」

 彼は、以前万引きをしかけた猫背の少年の方を振り返った。今日もいじめられていたのか、と銀治郎は思う。猫背はリーダーに促され、びくびくしながら正面に立った。やっぱりうっすらと笑っている。これが地顔なのかも知れない。リーダーは立たされた銀治郎を指さし、天気の話をするような軽さで言う。

「こいつ殴れよ」

 一瞬、銀治郎は耳を疑った。銀治郎の辞書には、そういうワードは記載されていなかった。栗本は困惑した表情で、リーダーを一瞬振り返った。「やれ」。それだけ言われて、栗本はもう一度銀治郎の方を振り返る。その顔は薄ら笑いを浮かべながらも、心痛に歪んで居るように見えた。いや、そういう顔をしたいのはこっちの方だ、と銀地路は思った。

 栗本は一瞬目をつぶって息を吐き、目を開けた。その目には、もういじめられる側になりたくないという強い意思が感じられた。栗本が笑った顔のまま銀治郎ににじり寄る。本能的に逃げようとして身体を動かしたが、びくともしない。

周りの少年たちがはやし立てる。

「顔だぞ顔」

「顎ねらえ」

「本気でやんねぇとお前も同じ目にあわすからな」

 リーダーがそう念押しする。銀次郎はクラクラしながら目の前で繰り広げられる野蛮なやり取りを見ていた。こんな場面、映画でしか見たことがない。いや、そういう野蛮な映画はあんまり見たことがない。だから、漫画かな。

 栗本はもう一度顔を歪め、手を振り上げた。銀治郎は体を硬くし、頭を引いた。次の瞬間、左顎に鈍い衝撃を受けた。

 二郎は小さい頃父親に数回叩かれたことがある。そのことを急に思い出し、泣きそうになった。殴られた痛みよりも、数人に囲まれ、殴られたことの惨めさと、これからどうなるのかわからない恐怖が勝った。

「ウェーイ」

「ちゃんと入ってねえぞー」

「よく見ろー」

周りの少年達はそう野次を飛ばしながら手を叩く。栗本は青ざめながら、呆然として立っている。

「やめなさい」

銀治郎は震える声で、かろうじて言った。普通に言ったはずだったが、声はかすれ、弱気な独り言のように聞こえた。

「警察に言うぞ」

「無駄じゃないすか。現行犯逮捕じゃないと。証言する人がいなかったら、証明できないんすよ」

リーダー格の少年がそう言ってせせら笑いながら、銀治郎の前に立った。笑うと歯が抜けているのが見えた。

「おい、どけ」

少年はそう言って栗本を突き飛ばす。

「俺が見本見せてやる」

 銀治郎はぞくりとした。リーダーは周りの少年に比べ、ひとまわり体が大きく、喧嘩慣れしている風だ。瞬間、銀次郎の頭の中に「殺傷事件」とか「暴力事件」、「少年犯罪」、「逮捕」などいうワードが飛び交った。自分には一生縁がないと思っていた言葉だった。

 銀治郎は、自分が殴られる恐怖とともに、健吾の体を守れない自分を責めた。この身体なら、いじめられないと思っていた。でも、身体だけで威嚇できるのなんて、一瞬なのだ。 

恐怖で耳が遠くなる。かすかに周りの野次が聞こえる。リーダーが振りかぶり、一瞬にやりと笑った。人を痛めつける興奮に酔った人間は、こんな表情をするのか、と冷ややかに見ている自分を感じたとき、なぜか自分が今居る状況に、猛烈に怒りがわいた。

怒りは土石流のように身体から放たれた。銀治郎は獣のように叫びながら、無我夢中でリーダーに襲いかかった。リーダーも銀治郎の変わり様に一瞬驚いてひるんだのか、銀治郎の拳がリーダーの頬をかすめた。味わったことのない高揚感が、銀治郎の身体を何周も巡る。

しかし、次の瞬間、銀治郎は膝を折った。はじめ、何が起こったのかわからなかった。次に猛烈な吐き気と痛みが腹から全身に広がり、銀治郎はむせるように咳き込んだ。その時、自分はリーダーに腹を殴られたのだ、と気づいた。

 「調子乗ってんじゃねぇぞ」

 声のした方を見ると、リーダーは膝を折った銀治郎を、上から冷ややかな目で見つめていた。リーダーは銀治郎の首根っこをつかんで立たせた。リーダーの頭の向こうには蛍光灯が見える。その蛍光灯に、蛾が何度もぶつかっていた。

 リーダーはもう一度銀治郎の腹を殴った。あまりの衝撃に、このまま死んじゃうかもしれない、と銀治郎は思った。

 

「やめろ」

その時、少年の手を何者かが掴んだ。

銀治郎はその光景を一生忘れることはないだろう。少年の手を止めているのは、紛れもなく自分だった。

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