第14話 日村と健吾【姫城サイド】

 だんだんとパソコンが使えるようになった健吾は、会社でグループ内の下請けのような仕事をするようになっていた。今日は、健吾は細谷の資料成を手伝っていた。表から該当する数値を集め、グラフにする仕事だった。依頼されたときは、やり方を教われば、自分にもできる仕事だと思ったのだが、細谷は何度直してもOKを出さなかった。今度こそ大丈夫だろうと、健吾が五度目に資料を出しに行くと、細谷は内容を一瞥し、あきれたようにもういいです、これで、と言った。健吾は腹が立ったが、何も言わなかった。


 健吾が会社を出て時計を見ると、六時だった。駅への道を歩きながら、ポケットにしまっていたタイのお土産のチョコレートの包みを開け、口に放り込む。銀治郎の奥さんの伊吹へ、帰宅時間を知らせるメッセージを送る。ふと目を上げると、周りには、同じようなスーツを着たサラリーマン達が、同じように携帯を見ながら駅に向かって歩いている。

 健吾はぼんやりと考える。自分がスーツを着て、会社に通うなんてことは一生ないと思っていた。なのに、今なぜか自分はサラリーマンになっている。

 トラックの運転手をしていた父親ははいつも、高望みをするんじゃない、と健吾に言っていた。ちゃぶ台の上に、灰皿とガラスのカップに入った酒を置いて。

 友達に誘われて入ったバレー部も、一年で辞めてしまった。父に、おまえはどうせ何をやっても駄目。努力をしても無駄。やってもどうせ失敗するから部活なんぞやらない方がいいとくだを巻かれるのに嫌気がさしたからだ。

 ある日、いつもと同じようにくだを巻く健吾は父を冷めた目で見ていた。父親は、なんだその目は、と大声を出した。おまえはろくな大人にならない、と繰り返し、逃げるように家を出た。母はそんな父親に対して何も言わなかった。

 その父の言葉に対し、健吾は反発しながらもどこか諦めていた。たしかにそうかもしれない。だって、自分はこの父親の息子なのだから、と。


 しかし、サラリーマンとしての仕事は、思っていたのとは大分違った。ものすごく難しくて、自分にはできないことばかりだとおもっていたが、理解して繰り返せば、できるようになることも多かった。むしろ作業中にしょっちゅう怒鳴られたりしない分、集中できる。でも今日、きちんと仕事を完遂できなかったことが、健吾の胸にしこりを残した。細谷はむかつく奴だけど、仕事にOKを出して貰えなかったのは悔しい。それに、なぜ駄目なのか、よくわからないところがますますモヤモヤした。

考えながら歩いていると、ふいにスーツがぐん、と引っ張られた。驚いて振り返ると、日村がいた。息を切らせている。

「どうしたんですか。息切らせて」

「いや、宮内さんが何度呼んでも止まらないから、走って追いかけて・・・きたんです」

 日村が呼吸を整えてから言った。

「ちょっとお時間いいですか」


 健吾は断る理由もなく、二人は駅前のコーヒーショップに入った。健吾は一番安いブレンドコーヒーを頼み、日村はラテを頼んだ。カウンターのショーウィンドウにはケーキが並んでいて、誘惑されたが、我慢した。今月もかつかつだし、家賃も滞納していた。日村は、健吾が砂糖を三袋、苦チームを2パックカップに入れるのを、じっと見つめている。今日はめがねも外していた。日村は顔にかかった髪を耳にかける。


「ええと。宮内さん、体は大丈夫ですか」

「大丈夫です」

「会社とか仕事とかはどうですか」

「今日の仕事ですか?入力とは違う仕事ができて面白かったですけど」

「そうですか」

日村は曖昧な表情で頷く。健吾は日村の表情を見て、苦労していると言った方がよかったのかなと思った。でも実際健吾は、今の状況を他人事のように見ていた。母を亡くしてから、もう失うものは何もない、と思っていたから。

 ちょっと話ししてもいいですかと言ったのは日村なのに、日村は話ずらそうだ。その時、健吾ははっと気がついた。自分がここに呼ばれたのは、今日、何度もミスをしたせいかもしれない。

「すいません」

「え?」

「細谷さんの仕事です。なんどもダメ出しされました。でも、退職だけは勘弁してください」

そう言って、健吾はテーブルに額を擦り付けるようにして頭を下げた。日村は慌てて立ち上がり、健吾を制した。

「顔上げてください。そもそも、私にそんな権利私ないですから。それに、細谷さんはいつもああです」

「そうなんですか」

健吾は顔をわずかに上げた。

「そうです。資料の図や色あいにまで口を出してきますから。好みのグラフを作らないと、何度やってもやりなおさせられるます。課長のせいじゃないです」

健吾は少しほっとした。なんだ、好みの問題だったのか。健吾は改めて、細谷のあきれ顔を思い出す。日村は顔を上げた健吾にほっとしたように言った。

「会社だからって、ミスくらい、人間ならだれでもしますよ。仕事のできなんて、六十パーセントから七十パーセントでいいんです」

「ほんとうですか」

健吾がぽかんとしていると、日村が苦笑した。

「・・・・・・って、課長が言ってたんですよ。覚えてないですか」

「あ、忘れてました」

健吾はすこし思案顔をする。。

「でもおれ、七十パーセントもできてないです」

「成長してるから、大丈夫です」

日村はそう言い、笑って頷いた。


二人は雑談の後、店を出て、改札のそばに向かった。駅の改札の前で、日村はぽつりと言った。

「・・・・・・課長、私の下ではたらくの嫌じゃないですか。元部下だし、他の人に代えて貰えるよう、部長に言いましょうか」

「俺は言われたことをやるだけなんで。嫌とかないです」

健吾の淡々とした口調に、日村は思いがけず少し笑った。日村はバッグの中から何かを出して、けんごに差し出す。『簡単Excel入門』というタイトルの本だった。

「これ差し上げます。新品じゃなくて申し訳ないんですけど」

「え?ありがとうございます」

「あとこれも」

それは先ほどの喫茶店の袋だった。ケーキ、食べたそうにしていらしたから。健吾は本とケーキを受け取りながら言った。正直、めちゃくちゃ嬉しかった。

「ありがとうございます。でもあれは迷惑だったんでしょう。以後気をつけます」

「いや・・・・・・」

そう言いながら日村は言葉を濁した。直接的な健吾の表現になんと答えたらいいのかわからないというように。

「すみません。ありがたかったです。お気持ちは。でも、シングルマザーの家に男性が来ると、近所の人にいろいろ言われるんです」

「へぇ。何ででしょうね。俺の母親も、いつも恋人いましたよ」

「え?そうなんですか?」

「はい」

「嫌じゃなかったですか?」

「そうですね。偉そうな男が来るときは、ちょっと目障りでしたけど。パン屋勤めの男とかはよかったです。いつも廃棄のパンを大量に持って帰ってきてくれて」

木村は目を上げて鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、健吾を見た。そして噴き出した。もしかして、銀治郎はそういうことを言うキャラじゃなかっただろうか。まぁ、それは多分そうだな。でも健吾もちょっと笑った。日村が大きく笑うと、目尻のしわがはっきりとした。でもそれも含めて、いい笑顔だった。

その後、お互いに自分の家へと向かうために、駅の改札をくぐる前に、日村は言った。

「さっきの言葉」

「え?」

「七十パーセントでいいって言葉、課長が私に言ってくれたんです。子供産む前で、辞めようかと思ってたけど、こうして残ろうと思えました」

日村はお辞儀をし、去って行った。

 健吾は電車の中で、本をぱらぱらめくる。いつのまにか、今日使った機能のところを一生懸命に読んでいた。

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