第7話 会社ってこんな風なのね【姫城サイド】
休みの明けた月曜日に、健吾は初めて銀治郎の会社へ出社した。四階あるフロアは窓一面がガラス貼りで、近代的な雰囲気だ。場所は多少辺鄙なところにあるけど、規模はでかい。門には守衛がいるし、受付もある。
一体、銀治郎の給料はいくらぐらいなんだろう、と健吾は考えた。十五万が過去最高月収のアルバイターである健吾にとって、大企業のサラリーマンの具体的な年収など、想像もつかなかった。しかし、家も大きかったし、かなりもらっているはずだ、と健吾はざっくりと考えた。
健吾は会社に着いたその足で上司の菱寺のデスクへ行き、事故のことを話した。記憶に障害があり、今までと同じ仕事はできないこと。しかし、これから先、元に戻る可能性はたしかにあること。それは銀治郎の用意した台本そのままの台詞だった。菱寺は面食らい、とりあえず上とも話し合わないと行けないから、移動が決定するまではしばらく待っていてほしい、とだけ言った。
デスクに戻った健吾は、さてどうしたものか、と考えた。とりあえず、資料をUSBに移した。後で銀治郎に渡すように頼まれていたのだ。
そのあとは机の上を片付けたり、書類を整理したりしたが、銀治郎は綺麗好きのようで、あまり手をつけるところもなかった。健吾は机の中に入っていたタブレット菓子を食べたり、何度もトイレに立ち上がるふりをして、同僚が持ってきていた海外旅行のお土産のチョコレートを何個も食べた。それでも暇になったので、銀治郎に勧められた少年漫画のキャラが戦うタイピングソフトを立ち上げ、練習したりした。ゲームを始めるとき、大きな音が流れ、周りの人間がちらりとに振り向いたが、健吾は次第にゲームに集中していった。
「宮内さん、資料できました」
健吾は最初、自分が呼ばれたということに気がつかず、ゲームに熱中していた。名前を数回呼ばれ肩を叩かれて初めて、今の自分は『クナイさん』だったことに気づく。
「宮内さん、資料出来ました」
「あ、ウス」
健吾は一瞬だけ振り向いてさっと資料を受け取り、またゲーム画面に戻った。しかし、 相手は健吾の横を動こうとしない。
「資料、見てくれないですか」
「クソ、ざけんなよ」
自分のタイプミスに対し、思わずそう口走るのと、相手が何か言ったのはほぼ同時だった。相手は健吾の言葉に面食らったように黙っている。健吾はため息をついて、相手の方を初めて見る。そこには、マッシュルームカットの前髪の長い男が立っていた。ネームプレートには細田と書いてある。確か同僚の一人だったはずだ。健吾は銀治郎のノートを頭の中でパラパラとめくった。たしか、後輩だ。
「何」
「いや、資料見ないのかなって。いつもチェックするじゃないですか。細かいこといろいろと」
何を当たり前のことを、という調子で細田は言う。健吾はへらりと笑った顔になんとなく苛ついた。
「ああ、それ、上司に直接渡して」
「え?」
「俺、今日から異動になるんだよ。怪我で。頭やられて」
「え? 大丈夫ですか?」
「さぁ」
健吾はそう言い、唖然とする細田を無視してゲームに目を戻した。その後、昼になり、健吾がデスクで弁当を食べていると、菱村にネチネチと際限なく駄目出しをされている細田が遠目に見えた。
昼飯を終えると上司に呼ばれた。これからはしばらく日村の下で、事務作業や、資料制作を手伝ってほしい、ということだった。何もしない事にも飽きてきたところだったので、二つ返事でその申し出を受けた。菱村はそんな健吾を憐れむような目で見ていた。
健吾はその足で荷物を移動し、丁度空いていた日村の隣のデスクに移る。日村はディスプレイを見ながら、一定の速度でパソコンに何かを打ち込んでいた。真面目そうな女性に見える。肩まである髪を一つに結んで、眼鏡の下には隈があった。日村。たしか、その名前もノートにあったはずだ。『入社歴長い10年以上 三十代?』という走り書きを、健吾は思い出した。『最近シングルマザー』、という文も。健吾はノートの内容をすべて覚えているわけではなかったが、自分も片親なので、日村がシングルマザーだと言うことはよく覚えていた。
よろしくおねがいします、と健吾が頭を下げると、日村はこちらを向いて、少し戸惑ったような表情を健吾に向ける。元上司に指示を出せと言われているんだから、戸惑うのも仕方がないだろう。
「話はお聞きしました。よろしくお願いします。さっそくですが、宮内さん。P 株式会社と、C会社の資料に目を通して、ここに書いてある必要事項を、こっちにまとめておいてください。できますか?」
「わかりました」
健吾はさっそく仕事を始めたが、当然のように捗らなかった。取引先の情報をコピペするだけの作業だったが、二時間ほどかかった。せっかく入力したものも消してしまったり、なかなか思うように進まなかった。
何も報告に来ない健吾を待ちかねて、日村が様子を見に来た。
「宮内さん。できましたか」
「まだですね」
「・・・・・・宮内さん、もしかしてキーボード打てないんですか」
「はぁ」
健吾は少し気まずい思いで頷いた。たぶん後ろから、健吾がキーボードを指一本で売っているところを見られたのだろう。日村は少し黙ってから言う。
「大丈夫ですか」
「大丈夫っす。遅いですけどできます」
「いえ、そうじゃなくて、体です」
「え?」
「菱村部長から聞きました。宮内さんが事故にあわれたって」
「ああ・・・そうっすね」
他人事のような軽い回答に、日村が怪訝な顔をしているのに気づき、健吾は言い直した。
「平気っす。ありがとうございます」
日村は表情を変えずに続けた。
「今日は早めにあがってください。残りは私がやります」
「いえ、それより日村サンが帰ってください。子供いるし」
健吾はそう思わず口走った。日村はちらりと健吾を見て、また目をそらす。
「いえ、今日は母が家にいてくれるので、大丈夫です」
そう言って席に戻りかけた日村に、健吾は後ろから声をかけた。
「じゃ俺は何をしたらいいですかね」
自分の席に着いた日村は、振り向いて言った。
「ええとですね。まずキーボードを打てるようになって頂けるとありがたいです」
「練習してるんですけど。朝からだから、さすがに飽きてきて」
「飽きた?」
「はぁ。なんか他の事したくて。誰でもできるような仕事ないっすかね。さすがにこの時間に帰ると、家族が妙な心配するんで」
日村はしばし黙って、じっとこちらを見た。それは一瞬だったが、何かを推し量るような、そんな目線だった。
「宮内さん、口調まで変わったんですね」
日村は言ってから、ハッとした表情で目を逸らす。
「じゃあ・・・・・・宮内さんは、資料室の整理してきてください」
健吾はわかりました、と言って資料室に退散しようとしたが、すぐに日村の席に戻って聞いた。
「さーせん。資料室ってどこっすか?」
日村は複雑そうな顔で、ゆっくりと資料室の方向を指し示した。
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