第6話 相談しよう、そうしよう【銀治郎サイド】
朝日が眩しい。畳の上に敷かれたせんべい布団の上で、銀治郎は寝返りを打った。
薄い汚れたカーテンから、直射日光が容赦なく差しこんでくる。昨日はほとんど眠れず、心も体も疲れきっていた。今日が土曜日で本当に良かったと思いながら、銀治郎はゆっくりと身体を起こす。
銀治郎はあの後、二時間程度現場で働いた。短い時間だったが、慣れない仕事で右も左もわからない上に、怒鳴られっぱなしで、泥のように疲れてしまったのだ。結局、今まで以上に使い物にならない銀治郎に再度呼び戻したはずのボスも呆れ、身体がおかしいなら、こんな仕事はやめておいたほうがいいんじゃないか、と心配までされてしまった。
銀治郎は深いため息をついた。大学を卒業して以来、人生のほとんどを会社の中で過ごしてきた銀治郎にとって、仕事がないと言う状況はとても落ち着かないものだった。何か、職を探さなければ、と強く思った。
銀治郎は顔を洗った。その際に恐る恐る鏡に映った自分を見た。鏡の中の自分が、思ったよりも元気そうで銀治郎は驚く。それに、今日は筋肉痛を覚悟していたが、思ったより体は痛くもなく、軽かった。頭も、起き抜けはぼうっとしていたが、起きてしばらくしたらだんだんと気分が良くなってきた。銀治郎は若いということの何たるかを、驚きとともに感じていた。ついでに腹も鳴り、激しい空腹感も感じた。
銀治郎は小さく古い冷蔵庫の中を開け、何か食べられるものを探した。しかし冷蔵庫の中は、あまり充実しているとはいえない内容だった。賞味期限の切れた卵、ビール、封の開いたハム、二枚しか入ってないカラカラの食パン。すべてに特売のシールが貼ってある。調味料類はあるのに変だなと銀治郎は思った。それと同時に健吾の、母親は一ヶ月前に亡くなった、という言葉を思い出す。キッチンから見える玄関のたたきには、ピンクのフロックスが脱ぎ捨てられてあるのが見えた。銀治郎の母親が癌で死んだときのことを思い出し、すこし息が苦しくなる。
銀治郎は最初、コンビニに何か買いに行こうかと思ったが、空腹感の方が勝った。仕方なく食パンを取り出し、ハムを挟んで食べる。カビていないだけましだ、と自分に言い聞かせながら。しかし空腹感は一向に収まらない。銀治郎はまたもや仕方なく、賞味期限の一週間過ぎた卵を拝借した。柄の部分が禿げているフライパンに油を敷き、卵を焼く。テフロン加工が剥がれているのか、卵はフライパンにくっついてカピカピになってしまった。
それにしても、と銀治郎は思った。キッチンとダイニングが一緒になった空間と、ぎりぎり一人ずつが寝られるサイズの和室が二つ。小さい頃から一軒家で暮らしている銀治郎にとって、この狭さとかび臭さは、耐えられるものではなかった。
銀治郎が音の割れた古いテレビを見ながら目玉焼きを食べていると、急に玄関の扉を叩くドンドンという音がした。銀治郎は驚いて飛び上がる。一瞬、健吾が来たのかもしれない、と思う。昨日、別れる間際に、明日二人で今後のことを話そうと約束をしていたのだ。しかし覗き穴に顔を近づけると、そこには眼鏡をかけた、油の多い初老の男がいた。銀治郎は戸惑う。対応しないといけないのかもしれない、とは思うが、こんな荒々しいノックをする人間とは話したくなかった。
その時、外で誰かの声がした。
「あ、そこの人、今出てますよ」
銀治郎はそれを聞いて少しほっとしたが、すぐにまたノックの音が聞こえた。しかし、今度はこんこんと小さい音だ。
「おはようございます。姫城さん、いますか」
時計を見ると十時を過ぎていた。今度こそ健吾だ。
「おはよう」
そう言って扉を開きかけた瞬間、銀治郎はぎょっとした。目の前にピンクのシャツを着た小太りの男がいたからだ。そしてそれが自分の姿だと認識するのに、銀治郎は数秒を要した。第二ボタンまで開けられたシャツ。それぞれ束になって屹立した髪の毛。なんだか田舎のヤンキーが、そのままおじさんになったような感じだ。つまり、衝撃的に似合っていない。銀治郎は頭が痛くなった。
服装について文句を言おうと、銀治郎が息を吸った時、健吾の後ろからふいに人影が現れた。
「こんにちは」
そこには娘の紘子が立っていた。銀治郎は何でここに、と叫びそうになって慌てて言葉を飲み込む。
ひろ子はもじもじしながら、少し上目遣いで銀治郎を見る。顔が紅潮している。
「その後ご加減はいかがですか?」
そんな殊勝な日本語がつかえたのか、と銀治郎は心の中で唖然とする。昨日から娘に対して驚いてばかりだ。
「ああ、ええと、大丈夫です」
「本当にごめんなさい。うちのお父さんのせいで」
そう言って頭を下げる娘に対し、銀治郎は大丈夫ですよ、と言いながら顔を引きつらせて笑うしかなかった。健吾はそんな二人の様子を、無表情で眺めていた。
*
「まぁ、くつろいでください」
「ありがとう」
幸い、紘子は玄関先で挨拶をしたあと、すぐに帰った。銀治郎は塗装のはげたダイニングテーブルの前に座る。健吾は食器棚を開けて、せんべいを取り出す。今日は二人の情報交換、そして、仕事をどうするかという話を詰める予定だった。しかし、その話をする前に、銀治郎はどうしても言いたいことがあった。
「あのさ、その髪型…」
「ああこれ。娘さんのスプレー借りました」
健吾はツンと立った毛束の先端をつまんだ。
「襟のボタンは?」
「あ、これ開けてるんす。娘さんに締めなって言われてひとつ締めたんですけど。二つくらい開けたほうがかっこいいと思うんで」
目も当てられないとはこのことだ。そもそも、ピンクのワイシャツは、もともと銀治郎の趣味で買ったものではない。妻の息吹とウインドウショッピングをしているとき、店員と妻二人に猛プッシュされて買ってしまったのだ。勿論一度も袖を通していない。
銀治郎は目を背けながら言った。
「あの、申し訳ないけど。そういうの、僕の外見にはあまり似合わないと思う」
健吾はグラスに水道水を入れ、銀治郎に差し出しながら、きょとんとする。
「そうですかね。俺は結構好きですけど」
「もとの君のような、若くて背の高い人だったのに合うかもしれないけど」
「そうかもしれないっすね」
否定はしないのか、と銀治郎は思う。
「でも、好きなもの着てると、楽しいので」
健吾の言葉に、銀治郎は目を見開く。楽しい? これが? 銀治郎はもう一度、恐る恐る自分を見た。やはり似合っていない。だが、たしかにそこに妙な自信のようなものが感じられた。
「とりあえず、ボタンだけは締めて」
銀治郎の言葉に、健吾は渋々ボタンを一つだけ留めた。
銀治郎は部屋に戻り、持ってきた数冊のノートや封筒を机の上に広げた。
「僕の周囲の環境について、簡単にまとめてある。職場の人間関係や、仕事の説明、あと家族や家のこととか。頭をぶつけたっていう病院の診断書は持っているね。週明けにもっと詳しい検査をしてもらって、一時記憶喪失っていうことにしよう。そしてそれを会社に提出する」
銀治郎にとって、これは苦渋の選択だった。会社に対し、自らを戦力外だと宣言するのはつらい。しかし、健吾が銀治郎と同等の仕事ができないことは火を見るより明らかだ。とにかく元に戻るまでなんとか仕事をつないでくれれば万々歳だ、と銀治郎は思った。
「すごいっすね」
健吾は他人事のように言った。ノートのなかの一つを手に取ってパラパラとめくると、走り書きだが端正な文字で、ページがびっしりと埋まっている。昨日の夜だけで、こんなにたくさん書いたのか、と健吾は感心する。
銀治郎は健吾にも、新品のノートを手渡した。
「君も、君の周りの情報について教えてくれると助かる。ここに書いてくれてもいいし、メールや何かで送ってくれてもいい」
「はぁ」
健吾はノートの角をパラパラと弄びながら、気のない返事をする。自分について何か書くことがある、とはあまり思えなかった。学校を卒業して一年経ち、当時つるんでいた友達にもほとんど会わなくなった。そして唯一の肉親だった母親は死んだ。健吾は話題を変えた。
「昨日、仕事はどうでしたか」
「ああ、そのことだけど・・・・・・」
今度は銀治郎が言いづらそうにする番だった。
「あの、現場の仕事は辞めてもいいかな」
「いいですよ」
健吾があっさりとそう言ったので、銀治郎は拍子抜けする。
「そうか。じゃ、何か他の仕事を探すよ。どんな仕事がいい?」
「どんなって」
「やりたいことは?」
健吾は沈黙する。
「とくにないです」
「前は何をやってたの」
「居酒屋とか、コンビニっすかね」
居酒屋か、と銀治郎は思った。接客業など、数十年やっていない。それに、できれば座ってできる仕事がいいと思った。
「事務職とかは難しいのかな」
「俺、パソコンあんま使えないっす。文字打つのとか。だから、元に戻ったときやばいっす。まぁそしたら辞めりゃいいか。でもまぁ、高卒っていうことで結構はねられますよ」
銀治郎は少しだけ胸がチクリとした。健吾はそういう話をする時、全く表情を変えない。そんなことは当たり前だと思っているようだ。
「ブラインドタッチなら、いまからでも練習したらいい。使ってないノートパソコンがあるから、それをあげよう。会社にいるなら、パソコンが使えないとだめだからね」
「っす」
健吾の表情は相変わらず無表情だったが、自信がありそうには見えなかった。
「あ、あとそうだ。転職する時、この金髪は黒に戻してもいいかな」
「え」
今日初めて、健吾が拒否反応を示した。
「それはちょっと」
「金髪だとできる仕事が限られるだろう」
「はあ・・・」
言葉を濁す健吾に、銀治郎はため息をついた。
「わかった。じゃ、金髪のままにするから、僕の髪もつんつんするのはやめてくれないか」
「それは・・・うーん。じゃ、黒髪でいいです」
銀治郎はため息をついた。期せずして、健吾のトンチキな格好を許すことになってしまった、と思った。
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