第5話 そうか、俺はお父さんか【姫城サイド】

 健吾の頭の中は、なんだかフワフワとしていた。

これは大変なことになった、とは思っているのだが、それはなぜか現実感を伴わず、夢を見ているみたいな不思議な感覚だった。銀治郎が深刻に考えているのが、余計に健吾を気楽にさせるのかもしれなかった。とにかく、体が自分のものではない、ということが不思議で仕方ない。

 健吾は新しい我が家に向かって歩いていた。周りはそこそこ高級な一軒家が並ぶエリアで、一つ一つの家は大きくはないが、綺麗に整えられた小さな庭や、高そうな車が並んでいた。

 言語はその中の一角の、白黒のモダンな家を見上げた。

「おお」

 健吾は銀治郎に指定された住所と、表札を確認する。宮内。確かにここだ。健吾はつばを飲み込んだ。さすがに少し緊張する。ただいま、と言いながらドアを開けたが、家の中から返事はなかった。

 家の中には所々ものが錯乱していた。健吾は少しほっとして、黒い革靴を脱いで中に上がる。

 玄関から入って廊下をまっすぐ行った右手に、カウンターキッチンがあった。洗い場にあげてあるグラスはどれも乾いていて、きらりと光っている。ふと、健吾は自分がとても喉が渇いていることに気がついた。健吾は、すぐそこにあるキャラクターもののマグカップをひょいと取り上げる。マグカップも、100均の物や、何かのおまけでもらったものではないんだなぁ、と思いながら、蛇口から水をくみ、口元へ運ぶ。

「あーっ!」

 後ろから急に飛び込んできた叫び声に健吾は驚き、飲んでいた水を霧吹きのように吐き出した。振り向くとキッチンの入り口に、眼鏡の女の子が立っていた。ピンクの起毛のガウンを着ている。

「うわきたなっ!お父さん、私のマグカップ使うのやめてよって言ったじゃん!」

 女の子はそのまま歩み寄り、健吾からマグカップを取り上げた。限定品なんだから、などとぶつぶつ言いながら、コップを洗っている。

 健吾は後ろから、今現れた女の子を観察した。健吾のことをお父さんと読んでいると言うことは、彼女は銀治郎の娘のはずだ。姉妹も居ないはず。

 しかし、と健吾は考えた。肩まである髪を後ろで一つにまとめ、ヘアバンドでおでこを出した顔は、昼間会ったときとは大分感じが違った。ずいぶんと幼く見える。メイクの所為だろうか。健吾はその変わり身に、しばしあっけにとられた。

 紘子はコップを流しに置き、後ろを向いたまま呟くように言う。

「お父さん、だいじょうぶ? 身体」

「ああ」

「本当?」

「ああ。どこも痛くない」

「そう」

 紘子はしばらく黙ると、くるりと振り向いた。言いにくそうに、目線を床に落としている。

「あのさ。お父さんにちょっと聞きたいんだけど」

「何を」

「何をって、今日のことだよ」

「今言ったじゃん。元気だよ」

「そうじゃなくて」

 紘子は少しだけ言い淀む。

「あの紙袋のことだよ。分かってるでしょ」

「ああ、あれか」

「間違えて持ってっちゃったのはいいとして、なんで持ち歩いてたの? それに何であんなに汚れてたの」

「ああ、それは、橋の上から落ちたんだ」

「は?!なんでよ」

 紘子はさっきの態度とは打って変わり、怒りを含んだ声で健吾ににじり寄ってきた。健吾は当惑した。そんなこと、俺が知ってるわけがない。しかし、健吾は銀治郎の 慌てぶりを思い出して言った。

「わざとじゃない」

「どうだか」

「わざわざ荷物を持ち歩いてたんだから、届けようとしたんじゃないか」

「じゃないかってバカにしてんの」

「バカにはしてない」

 健吾が真顔で言うので、紘子は毒気を抜かれたようになる。

「お父さん・・・・・・なんか変じゃない? 昼も、私の作ったクッキー食べて・・・…まあ姫城君が食べてお腹壊すよりいいから、ちょうどよかったけど」

 健吾は紘子の物言いに内心驚く。こんな台詞、俺が出て行った親父に言ったら百回くらい殴られるんじゃないか、と健吾は思った。

「まあ頭を打ったから、変なのは仕方ないんだよ」

「大丈夫? やばいんじゃないの」

「まあ、やばいな」

「…もういいよ」

 紘子はため息をつき、諦めたように踵を返した。

「あ、ちょっと」

健吾はふと、その後ろ姿に呼びかける。

「何」

「紘子はいつ、姫城君を知ったの」

 紘子はみるみる赤くなった。

「そんなのどうでもいいでしょ!っていうか関係ないし!!」

 言いながら、ヒロコは階段ドスドスと踏みならし上っていく。健吾はちょっと残念に思いながら、その後ろ姿を見送った。まあ、父親にはそういうことを言いたくないのだろう。自分には父親がいないからよくわからないが。

気を取り直し、他のグラスについだ水を飲んでいると、また後ろから声がかかった。

「お父さん」

振り向くと、紘子が階段の下からちょこんと顔を出していた。

「姫城くんにこれから会うことある? 怪我のこととかで」

「そうだな。多分」

「…分かった」

 紘子は少しだけ満足そうな表情をして、顔を引っ込めた。階段をすたすたと上がっていく足音が聞こえた。

 健吾はふうと息をついて、もう一度コップの水を飲み干した。今日の昼、紘子が着ていた制服は、健吾の母校の制服だった。ということは、学校でおれのことを知ったと言うことだろうか。しかし、健吾は部活もしていなければ、委員会などにも入っていない。友達も多くなく、普段はバイトに明け暮れていたので、デートはおろか、友達と遊ぶこともまれだった。

自分はいつ紘子に会ったのか、紘子がなぜ自分にクッキーをくれようとしたのか。健吾は目を瞑り記憶の糸をたぐったが、まるで思い当たらなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る