第4話 やっぱり無理です【銀治郎サイド】

「うまいすよこれ。一枚食べますか」

「いやいいよ」

二人は人気のない公園にいた。そこは都会の公園の割に、背の高い木が生い茂り、二人を周りの喧噪から隠していた。

 健吾はブランコに乗りながら、むしゃむしゃとクッキーを頬張っている。すっかり憔悴してしまった銀治郎は、ブランコの囲いに腰掛けて、放心していた。

 娘と少し話しただけでこれだ。この先、どうなるのだろうか。会社は。仕事は。金を稼ぎ続けられるだろうか。まだ紘子の学費もある。

それに、いつまでこのことを隠し通せるのだろう。いや、隠す隠さないの問題ではないかも知れない。真実を言ったとしても、こんな突拍子もないことを、誰が信じてくれるのか――。

「はぁ・・・・・・どうすればいいんだ」

 銀治郎の口から、長い溜息と頼りない呟きが漏れた。健吾がクッキーの袋をポケットに入れ、クッキーのかすをスーツで払った。銀治郎はその仕草に苛立ったが、健吾は全く気がついていない様子で言う。

「まず戻る方法を探すって感じですかね」

「そんなものあるのかい」

「さぁ。あとは後は戻るのをひたすら待つとか」

「待てない」

「まあそうですけど」

二人はしばらく黙った。

「じゃ、今日は帰りましょうか」

「どうして」

なぜこの状況で帰るというワードが出てくるのか、銀治郎にはさっぱりわからなかった。

「ていうかどこに帰るの」

「自宅に」

「無理だろう、この姿で」

「いや、お互いの家にってことっす」

「え?!いやそれはちょっと」

 紘子と同じ屋根の下に、健吾を置くということは、銀治郎には到底考えられなかった。

でも同時に、自分がこの姿で家に帰ることも考えられない。ではホテルに泊まるか? しかし、それはいつまでなんだ?

 健吾は淡々と言った。

「銀さん、どこに住んでるんすか? 俺んちM駅の近くなんすけど、遠いっすか?」

「え? いや、T駅だけど」

「あ、同じ路線すね」

「いや、どうでもいいが、銀さん呼びは決定なのかい」

「そうすね。語呂がいいので」

 銀治郎はくらりとした。この男と話していると気が遠くなってくる。ただでさえ足場が崩れたような、訳のわからない状況なのに、さらにそこから無重力空間に放り込まれたように感じた。

「あ、ちなみに職場はA台駅です」

「しょくば・・・・・・」

そうだ。仕事だ。

その言葉が健吾の口から発せられた瞬間、不安は急に現実の質感を伴って、銀治郎に迫ってきた。紘子の学費。家のローン。衣食住の生活費。銀治郎は自分の手足が冷えていくのを感じた。

 銀治郎は万年平社員だが、所属している会社は一応一部上場企業だ。五十年以上の歴史を持つ、しっかりとした基盤のある会社である。今はそれほど勢いのある会社ではないが、福利厚生や退職金は充実していた。銀治郎が会社にずっと不満を抱えながらも、なんとかやり過ごして今日まで過ごしてきた理由も、そこにあった。

 定年になる前に足切りされるような事態は、絶対に絶対に避けなければならない。

先ほど銀治郎は会社に連絡して、今日の午後は怪我のため大事をとって休むという旨を伝えていた。でも、ずっと仕事を休むわけにもいかない。今抱えている仕事もある。銀治郎は思わず言った。

「仕事のメールや資料をすべて転送してもらえるかい。僕が対応するよ」

「え。俺も仕事してますけど、大丈夫ですか?」

「ああ、そうか。ええと、それってどういう・・・・・・」

「工事会社です。家を建てたり、リフォームしたり」

「それは、何か特別な勉強や、知識が必要な分野かい」

「いや、おれも2ヶ月に勤め始めとこなんで、それはないっす」

「そうか」

「あ、でも体力は結構いります」

 銀治郎は心の中で呻いた。体力を使う仕事は苦手だ。いや、でもこの体ならだいじょうぶなのだろうか。それはまだ、試してみないとわからない。

「まぁ、それならなんとかなるだろう。僕の仕事だけど、今は怪我で記憶が混濁しているってことにして、長めに納期をとってもらって・・・・・・」

一日三、四回ならメールが返せると思う、と言いかけて、はたと気がついた。そんなこと、全く現実的ではない。銀治郎は自分を殴りたくなった。信用を失ったら元も子もないのだ。

「いや・・・・・・そうだね。やっぱり頭を打って記憶を失ってなにもできない、と言うことにしよう。そして、何もわからなくてもできる仕事を回してもらえるように、どうにかお願いしてほしい」

「わかりました」

二人はお互いに、自宅と職場の住所を交換し合った。

「俺の仕事はここの住所です。今日は帰されちゃいましたが、明日は多分行った方がいいと思います」

「え? 帰された?」

そのとき急に健吾の携帯に着信が入った。健吾は着信画面を見てちょっと目を細め、銀治郎に携帯を渡した。

「え? 僕?」

「職場です。声が違うとあれですから」

 銀治郎はなにか釈然としなかったが、促されるままに電話を耳に当てた。

その瞬間、今までの人生のなかでは聞いたことのない、地響きのような怒声が、電話口から飛び出した。

「てめえどこほっつき歩いてんだ!帰れと言われて本当に帰るやつがあるか!さっさと戻ってこい!」


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