第3話 なんかマンガみたいなことになったなぁ…【姫城サイド】

 散々な日だといえばそうだが、毎日こんな感じなので特に何も思わない。しかしそれにしても、今日はやっぱりひどかった。

 姫城健吾が高校を卒業し、仕事をするようになってから大体一年だ。最近始めた工事の仕事は、思ったのと少し違った。ただ機材を運んでいればいいというものではなかった。

 普通にしていてもぼーっとするなと言われる健吾が、現場でキビキビ動けるわけがなかった。アスファルトをこぼしそうになったり、材木を違う場所に置いてしまったり、手渡す工具を間違えたり。

 毎日怒鳴られて、突っ立ってるなとどやされ、急いで行動しようとするとミスをした。だが、健吾はそもそも人の言葉にはひどく感じたりはしないタイプなので、そのうち慣れるだろうと思っていた。でも、状況は2ヶ月たってもあまり変わらなかった。


 連日寒い日が続いていたが、それにしても今日はひときわ寒い日だった。鉄を触ったら、手に張り付いてしまいそうだった。今回はバルコニーを作る作業だったので、寒さから身を守ってくれるものは何もない。皆の動きも鈍かったが、期日が迫っていたので、強いて体を動かすだけは動かしていた。

もうすぐ昼休みになる、というときに、それは起こった。若いから目がいいだろう、と言うことで、一段高いところで細かい作業をしていた姫城は、手に持っていたトンカチを落としてしまった。それは下で作業をしていたボスの耳をかすめた。

ふざけるな、と怒鳴られ、手際が悪いとか、愛想がないとか頭に木くずが詰まっているとか、いつも言われていることを一通り繰り返された後、もう今日は帰れと吐き捨てるように言われて、姫城は現場を離れた。健吾は歩きながら、「木くず」が罵倒のワードに出てくるあたり、さすが職人だな、とぼんやりと考えていた。


 健吾はコンビニで菓子パンを買い、立ち読みした後、川辺への道なりにあった自販機でコーヒーを買った。堅く縮こまった指先が、コーヒーの温度ですこし解れた。しかし、今後のことを考えるとさすがに少し憂鬱になった。

この仕事は、ホステスをやっていた母親が、客のつて紹介してくれた仕事だった。しかし、その母も先月亡くなった。葬式や手続きで仕事もできず、もともと厳しかった家計は今では火の車、自転車操業状態だ。もしこの仕事を辞めるにしても、何とかして金を稼がなくてはならない。そうでなければ、食っていけない。

 健吾は五百円で買ったビニール製の黒い時計を見た。まだ十一時二十分。そのまま家に帰っても何もすることがないので、ぶらぶらと川沿いを歩いた。彩度の低い、枯れ果てた草がまばらに生えているのが寒々しい。灰色の空と灰色の川に、白いものがちらちらと落ちていくのを見て。健吾は一つ身震いをした。雪か。そりゃ寒いわけだ。

川の方に下りていくと、ホームレスの掘っ立て小屋がぽつぽつと続いていた。青いビニールシートが重く垂れ込めた曇り空とは対照的だ。健吾はその中にいる人間の安否が気になった。と同時に、自分もいつかここで暮らすことになるかもしれない、と想像しテイル自分に気づき、心底気が滅入った。普段ならそんなこと考えたりはしないのだが。

 健吾は橋の下に座り込み、サンドイッチ状の菓子パンを頬張った。ここなら人目を避けられると思ったからだ。こんな時間に一人でコーヒーと菓子パンを食べている自分は、なんだかいたたまれなかった。

 しかし、そんなふうに考えても仕方がないと、健吾は頭を振る。今の仕事が駄目なら、他に仕事を探せばいい。スーパーの仕事はどうだろう。いや、でも以前働いていたコンビニで、レジ打ちが遅いと怒られていた記憶がある。ウェイターはどうか。そういえば、高校時代、居酒屋で働いていたとき、いつも注文を間違えていたが、店長は優しい人だったので何とかなっていたな。店は潰れたが。

まぁ、大丈夫。今までだってなんとかなってきたのだから。一歩歩くごとに、そう自分に言い聞かせながら、健吾は防波堤を登っていった。いいかげん寒いし、家に帰るか、と思って階段に足をかけたその時、上で鳥を絞め殺したような声がした。見上げると、重そうなおっさんが自分の方向へ向かって落ちて来るのが、スローモーションのように見えた。



 銀治郎が三連発でくしゃみをすると、病院の待合室にいた患者数人が銀治郎のほうを振り向き、そのあと嫌そうな顔で顔を背けた。くしゃみの仕方は以前と同じだった。銀治郎は鼻をすすり上げながら身を縮めた。もっとも、健吾の体は背が高く、縮めても相変わらず存在感がある。銀治郎は濡れた服を脱ぎ、スーパーで買ってきた服に着替えていた。ホッカイロを手でさすりながら、自分は何をしてるのかと思う。川はそこまで深くなかったのだが、足がもつれて転んでしまったのだ。

二人は市内の神経内科にいた。脳の異常を見て貰うためだ。病院は比較的すいていて、すぐに診てもらえた。健吾も診察室から出てきて、銀治郎の横に座った。銀治郎は小声で聞く。

「姫路くん。どうだった」

「なんか大丈夫っぽいです」

「そうか。よかっ・・・」

『よかった、僕もとくに問題はなかった』と言おうとして、銀治郎はいい淀んだ。問題はある。銀治郎は携帯を取り出した。すでに四時を回っていた。娘からのあたらしい通知は来ていなかった。

 銀治郎が階段から落ちた時、財布も一緒に落としていたらしい。スーパーで金を払おうとしたときに気がついた。銀治郎はすぐさま警察に問い合わせた。幸い、財布は近くの警察署に届いていた。そこで銀治郎は、息吹にそれを取りに行ってくれるよう頼んだ。しかし息吹は出先だったため、学校帰りの紘子にその役が回ってきたのだった。

 健吾は携帯を見ながら、無表情に呟いた。

「みやうちさん」

「あ、それはくない、と読むんだ。なんだい」

「いえ、アドレス帳読んだだけっす」

 健吾は携帯から目を離さずに言った。さっき交換した連絡先を見ているらしい。

「クナイさん。いや、銀さんだな」

 会話が破綻している、と銀治郎が思ったとき、病院のドアが勢いよく開いた。ベルがチリンチリンと鳴り、緊張した面持ちの紘子が入ってきた。銀治郎はほっとして紘子の方へ歩み寄る。

「紘子。悪いね。学校の帰りに」

 紘子は不機嫌そうな表情で振り向く。しかしそれは見る間に驚きの表情へと変わった。

「えーっと、あの・・・・・・?」

真っ赤になりながら、紘子の目線は助けを求めるように銀治郎の後ろを彷徨う。そんな紘子を見て、銀治郎ははたと気がいた。銀治郎の体に入った健吾が、銀治郎の脇からぬっと出てきた。

「どうもありがとう」

 紘子は父の姿をした健吾を認め、一瞬ほっとした顔をした。そして彼をじろりと睨み、財布を掌にばんと押し付けた。

 銀治郎と健吾が会計を終え、診察室の扉をくぐるなり、紘子が我慢できなくなったように言った。

「えーと、どうして二人が一緒にいるんですか」

 紘子はそう言いながら、銀治郎の方をチラリと見た。銀治郎は狼狽しながらしゃべりだす。

「ああこれは、ええと、紘子さんのお父さんが階段から落ちたところに、ちょうど姫城君…僕がいて一緒に落ちて」

急に話しはじめた銀治郎を、紘子はびっくりした顔で見ている。その顔を見て、一人称「僕」は、やっぱり違ったか、と銀治郎は思う。

「・・・・・・そうなんですか。うちの父が申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」

そう言って裕子は深々と頭を下げた。銀治郎は、紘子がこんな殊勝なことを言えるようになったのかと、娘の成長を感じてジーンとしてしまう。

 しかし、上半身を上げた紘子の目は、銀治郎の手元に釘付けになっていた。銀治郎もすぐにその目線の理由に気づき、慌てて紙袋を後ろに隠す。

「それ・・・・・・」

 紘子はそう言いながら、紙袋を凝視する。びしょ濡れで泥だらけだ。そして父の姿をした健吾を勢いよく振り替えり、すごい顔で睨んだ。銀治郎は慌てて言い訳をした。

「あーこれ、お父さんのお弁当袋に入ってて・・・・・・」

「中身見ましたか」

「ええと、いや、まだだけど」

「そうですか。じゃあ返してください。私のなんで」

「え」

 紘子は早口でそう言い、うつむきながら手を伸ばした。銀治郎は紘子の震える手を見ているうちに、思わず意図しないことを口走っていた。

「あの、でも。よかったらこれ、僕が貰ってもいいかな」

「え」

「さっき、手紙の宛名だけ見えちゃったんだ。僕」

 紘子は息をのみ、真っ赤になった顔を両手で隠した。頬はますます紅潮し、今にも泣き出しそうに見えた。

「 あ、えーと。勘違いだったらいいんだけど。でも貰えるんだったら貰うよ」

 銀治郎は助け舟のつもりで言ったのだが、紘子は赤い顔でまっすぐ銀治郎の方を見て譲らなかった。

「いいえ。なんか汚れちゃってるし。お腹壊しちゃったら大変だし」

「本当に大丈夫だから」

「だめです」

二人で紙袋を取り合っていると、姫路がやってきて二人の間に立った。そして紙袋をそっと取り上げた。きれいに梱包されたビニールの袋を取り出し、リボンを解く。唖然としている二人の前で、もぐもぐとチョコレートクッキーを頬張った。

「水に濡れてないから大丈夫っすよ」

 紘子は最初こそポカンとしていたが、怒りに顔を赤黒くした。 怒りをぶつけたいが、健吾のいる前でそんなことはできないという感じだ。銀治郎は慌てて言った。

「あの、ごめん。残りは僕がいただいておくから。ありがとう。それじゃちょっと僕、いや俺、お父さんと話があるから。紘子・・・さんは先に家に帰ってくれる?」

これ以上物事が混乱する前に、一刻も早くここから立ち去りたい。銀治郎は健吾をぐいぐいと押しながら、怒りと混乱で立ち尽くすひろこを置いて、逃げるようにその場を離れた。


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