第2話 働くのって大変ですよね【銀治郎サイド】

 100人近くを収容する広いフロア全体に、キーボードを叩くカシャカシャという音が響き渡っている。銀治郎は連なったデスクの一番端に、体を丸めて座っていた。太めの指先でマウスをクリックし、メールを3分に一回開けている。今日中に締め切りがある案件の返事が、まだ来ない。電話をかけようと決心し、立ち上がった瞬間、後ろから声をかけられた。

「宮内課長、これってどうやってやるんすか」

 銀治郎はげんなりとした。声のした方を振り向くと、後輩の細田が、書類を突き出しながら立っていた。165センチの銀治郎より3センチ背の高いこの後輩は、マッシュルームカットの前髪の間から、すでにふてくされているような目でこちらを見つめている。 この後輩はいつもそうである。

 銀治郎は心の中でため息をつきながら書類に目を通す。思った通り、すでに何回か説明をしたことのある作業だった。

「どこがわからないんだい」

「どこって・・・・・・全体的に、ですかね」

「前回手順を説明したよね。これは、N株式会社さんにお願いして、ここの部分はすこし情報が曖昧だから、サプライヤーさんに具体的な試験結果を送って、それをグラフにする。前回もそうじゃなかったかい」

「それはそうでしたけど。でも前回と違うところもあるかなって思って聞いたんです」

 細田は憮然とした顔で言葉を濁す。なぜ素直に覚えてないと言えないんだろうか。

「それと、D社の神田さんに連絡を取る件はどうなったんだい」

「あ。これからですね」

 細田は目にかかった長い前髪を指でつまんで目にかからないようにしながら言った。健吾はふつふつと腹が立ってきた。 細田は期限を守らない。自分の仕事が終わらないのは、仕事の量が多いから、というのが彼の態度だった。実際、残業することも多い。しかし銀治郎は、毎日彼の倍以上の仕事をこなしている上に定時退社している。銀治郎は目をつぶり、自分を落ち着けながら言った。

「じゃあまずその連絡を最初に頼むよ」

「え、でも他の仕事もあるんですけど」

「…じゃあ僕がやっておくよ」

「わかりました」

そこはありがとうじゃないのか、と思いつつ、銀治郎は細田の背中を見送った。上下に揺れるような歩き方にさえ腹が立つ。 半年前に研修を終え新卒で入ってきた部下だが、なかなか慣れない。前の部下が優秀だったのもあるのかも知れないが。

 銀治郎の会社は一部上場企業だが、扱っている製品は、もうすでに世代交代をした製品だ。これから伸びるような仕事ではなく、既存の顧客に同じようなものを提供するという類いの仕事だった。

今、就活は売り手市場で学生の立場が強いらしい。しかし、それを差し引いても、会社に入る新人の質は落ちていくばかりのような気がした。

「宮内くん、ちょっといいかな」

今度は上司の菱寺から呼ばれて、銀治郎は立ち上がった。菱寺はもう五十半ばだが、細長い目に、刈り込まれた髪がすっきりした印象を持たせる。菱寺は細田にも声をかけ、二人を人気のない会議室まで連れて行った。嫌な予感がした。こういう時はだいたい面倒な話になるということを、銀治郎は経験則として知っていた。

 菱寺は部下たちに仕事のことを軽く聞いた後、じつはね、と切り出した。

「日村さんのことなんだけど」

 銀治郎は、上司の話にピンと来るものがあった。日村は最近産休明けたばかりの女性だ。半年のブランクがあるため、教え直さないといけない内容も多く、急な休みも多い、正直、人数ギリギリでやっている銀治郎たちのチームでは、だいぶ持て余している。

「離婚しちゃったんだって。先月」

「へぇ。そうなんすか」

 細田が組んだ指をせわしなく動かしながら、めんどくさそうに言う。銀治郎は驚きながらも、どこか納得もしていた。ここ一か月間、日村は見ているのも心配なくらい憔悴していた。でも、詳しいことは何も聞いていない。

「名前も本当は旧姓に戻ってるんだけど、とりあえずそのままでって。なんだかね。そんな今別れる必要があるのかなって思ったんだけどね。まだ子供も小さいんだしって言いたかったんだけど・・・・・・。まぁ、もう別れちゃってるわけだし、外野が何言ってもね」

ということで、そこん所はあんまり触らないようによろしく、と言って菱寺は部屋を出て行った。残された細田がぼやいた。

「これから、大変ですね」

「そうだろうね」

 銀治郎には今、十八歳の娘がいる。遠い昔のことだが、確かに赤ん坊の頃はとても大変だった気がする。妻の息吹は、夜中にミルクをやったり、抱きかかえて寝かしつけたりしていた。銀治郎もたまには手伝ったが、仕事で疲れていて寝てしまうことの方が多かった。

 細田は部屋のドアを開けながら怪訝そうに言った。

「違いますよ。これから俺らがもっと大変になるって事ですよ。仕事が増えて」

「ああ・・・・・・まぁ、そういうこともあるかもしれないね」

 細田はもともと、日村の仕事の三分の二もしていないが。

「それにしても、なんで別れちゃったんですかね~」

「さあ」

「でもただでさえメンバー少ないですし、こういっちゃなんですけど、代わりの人入れたほうがいいと俺は思います」

 銀治郎は細田の言いように呆れて言った。

「できなくてもやるしかないだろう。使えなくても、辞めさせないのは会社の方針だよ」

 銀治郎は使えない、と言うところに力を込めた。それを言ったら細田だってそうだ、という皮肉を込めて。

「そうですけど・・・・・・」

ふらふらと銀治郎の横を歩いていた細田が、振り向くと同時にぎょっとしたように固まった。銀治郎が不思議に思い、目線を追って振り向くと、そこにはコピー紙の束を持った日村がいた。

日村は一瞬の間を置いて、一文字に引き結んでいた口を、笑顔に変える。しかし、眼鏡の奥の目は緊張したままだ。

「すみません。歩いてたら、ちょうど二人をお見かけして。これ、課長に急ぎで頼まれてた資料です」

「あ、うん。ありがとう」

 慌てて銀治郎が束になったコピー用紙を両手で受け取る。ずっしりとした重みの中で銀治郎は逡巡した。聞こえてなかったか? いや、どうだろう・・・・・・そう思った瞬間、笑っていた日村の目から、みるみる涙が溜まって溢れた。

「失礼します」

日村はそう言って走り去った。

 銀治郎は唖然として、自分の言ってしまったことを心の中で反芻していた。細田の苦笑いが視界に入り、口を開いた。

「あー。やっちゃいましたね、課長」


 銀治郎は、ため息をつきながらデスクに戻る。時計を見ると、もう昼休みが近かった。いまから仕事を進める元気がわかなかったので、さっさと昼飯にしてしまおうと思った荷物置き場から、弁当の入っているトートバッグを取り出す。毎朝、妻の息吹が用意してくれる、白米と昨日のおかずを詰め合わせた弁当が、そこにあるはずだった。

 しかし、今日はいつもとは様相が違った。バッグの中に、さらに小さな、白い紙のバッグが入っていたのだ。バッグの中を探ると、銀色のリボンがかかった小さな白い箱と封筒が入っていた。

 銀治郎は一瞬、それが自分のためのものなのかと思った。でもすぐにその考えを頭から振り払った。息吹がこんなやり方で手紙やものを渡す訳がない。そんなことは結婚して20年、無かったことだ。

それに最近の息吹は、銀治郎が家に帰ってきてもパソコンに釘付けで、挨拶の時さえ顔をこちらに向けることがない。まあ、おかえりと言ってもらえるだけ、食事が用意されているだけありがたいと思った方がいいのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、机の上に用意されている夕飯をレンジでチンして、暗い部屋で一人黙々と食べるのが、銀治郎の毎日のルーティンになっていた。

 じゃあ、と銀治郎は考えを巡らせた。もしかして娘が?

 ・・・・・・いやいや、その方があり得ない。

 娘は絶賛反抗期中で、無視してくるどころか、銀治郎が家に帰るとあからさまに嫌そうな顔をしてくる。銀治郎はそんな娘に対して、どうしていいかわからない、というのが正直なところだった。


 銀治郎はいったん紙袋をトートバッグに戻したが、すぐにまた取り出した。もしかしたら、という思いが拭えなかったのだ。銀治郎はバッグからそっと手紙を取り出した。裏を見ると、そこには娘の名前が手書きで書いてある。宛名はない。

 嫌な予感がした。してはいけないことをしていると自覚しつつも、恐る恐る封筒の中に入っているカードを覗く。銀治郎は最初の数行をちらりと見て、慌てて手紙をたたんだ。

 心臓が踊っている。そこには男の名前があった。姫城健吾。 読むつもりはなかったが、目に入ってしまった最初の数行には、一目惚れをした、みたいなことが書かれていた。

次郎は罪悪感と、心配と、嫉妬のような、わけのわからない感情で顔が熱くなるのを感じた。身体の温度調節機能が狂ってしまったかのように、脇や背中から変な汗が出てくる。

 姫城健吾。銀治郎は、その男を知っていた。近所の工事現場で働いている男だ。ある日、息吹と紘子を駅まで送りに、車を出していた。近所の工事現場の横を車で通った時、息吹がポロリと口走った。「あー、あの子ね」と。

「お母さん」と紘子は少し怒った声で言う。

 銀治郎が誰、と聞くと、息吹が答えた。

「同じ高校の卒業生の子なんだって」

息吹は言いながら、意味深に横目で紘子を見る。紘子が赤い顔で母を睨んでいるのがミラー越しに見えた。その瞬間、銀治郎はなぜかとっさに、言ってはいけないことを口走っていた。

「でも、こういう仕事をしている男は将来性がないよな」

一瞬で紘子は真顔になった。いつも機嫌が悪いが、その時の顔は本気だった。紘子が大きく息を吸う。

「お父さんよりましでしょ」

 地の底から這い上がるようなドスの利いた声だった。

その時の衝撃は、いかんとも言い難い。同じなわけがない。一生懸命、毎日汗水垂らしながら家に金を入れているのはどこの誰だと思っている――ー。

 しかし、銀治郎は言いかけた言葉を全て飲み込んだ。娘には何を言っても火に油なのだ。幼いから、わからないのだと、自分に対して必死に言い聞かせる。息吹は何も聞かなかったふりをして、窓から外を見ていた。

 車内に氷のような冷たい空気が流れた。銀治郎はただ、そうか、というのが精一杯だった。駅に着き、息吹と紘子が車を降りたときも、紘子はこちらの顔を見ようともしなかった。思い出しただけでも表情筋が下がる出来事だ。


 銀治郎は目の前の現実に頭を切り替えた。このプレゼントは見なかったことにして、あとで、息吹から紘子に渡して貰おう。

 銀治郎は袋に手紙を戻しながら逡巡した。プレゼントに手紙なんて、今時古風な・・・・・・。

その瞬間、銀治郎ははっとしてカレンダーに目をやった。今日は二月十四日。やっぱりそうだ。紘子はバレンタインデーの今日に、告白しようとしたに違いない。

 銀治郎のお弁当と紘子のお弁当は、同じ種類のトートバッグに入れてある。銀治郎はダイエットのため少なめの弁当、紘子は食べ盛りで食欲旺盛なので、二人の弁当の量はほとんど変わらない。だから同じトートバッグでも、今まで特に問題はなかったのだ。

 しかし今日は違った。今日次郎は朝早く家を出た。ミーティングの準備をする必要があったからだ。その際に、昨晩紘子がプレゼントを入れておいた方のトートバッグに弁当を入れて持ってきてしまったらしい。

 銀治郎は自分のミスを認めて青ざめた。しかしすぐに、これは不幸な事故である、と考え直した。事情を知った紘子が烈火のごとく怒ることは、ほぼ間違いがないが。

 銀治郎が気を取り直して弁当を取り出し、トートバッグを戻そうとした。しかしその時、ふっと、紘子が昨日、台所に立っている姿が頭に浮かんだ。今時は女の子でも、ほとんど台所に立つことはない。紘子ももっぱらコンビニに通っては、ポテトチップスやアイスを買ってきて、ソファーでテレビを見ながらいつまでも食べている。それで二の腕が太ったとか、ダイエットがどうとか言っているのは、銀治郎にとっては矛盾しているように思えるのたが。

とにかく、ズボラで全く料理をしない面倒くさがりの紘子が、夜遅くまで台所で甘い匂いを漂わせながらガチャガチャとやっていた。その努力の結晶が今、あってはいけない場所にあった。銀治郎は心の中で呻いた。

いやしかし、いくら自分が悪いとは言え、自分がこれを紘子に届ける義務はないだろう。もし届けたとしても、高校に自分のような冴えない父親が来たら、娘はありがたがるどころか嫌がるだろう。いや絶対に嫌がる。一ヶ月くらい口を利いてくれなくなるかもしれない。まぁ、そもそも最近は一週間に一言二言ぐらいしか会話がないのだが。そもそも、万が一だが、あんな男と紘子が付き合うことにでもなったらどうするのだ。

 銀治郎は必死に抵抗を試みたが、結局、台所に立つ紘子のイメージを追い払うことはできなかった。気がつくと菱寺に適当な理由を告げ、会社を抜け出していた。


 幸い銀治郎の会社と紘子の大学は近かった。電車に乗ればドアトゥドアで三十分だ。しかし今日は一時から、四半期に一度の顧客とのミーティングがある。銀治郎は焦った。信号機の故障で電車が遅れて、銀治郎は駅からの道を小走りで学校に向かった。普段走ることなんてめったにないので、体が思うように動かない。早歩きから毛が生えたような速度なのに、体が驚いているかのように、至る所にきしむような鈍い痛みを感じた。ひどく寒い日だった。白く分厚い雲で覆われた空から、白いものがちらちらと舞っている。しばらくして、それが雪だと銀治郎は気づいた。銀治郎はぱつぱつのコートの前ボタンを、かじかむ手で懸命に締めた。

 学校に着いた後も、銀治郎が思ったようには物事は進まなかった。息せき切らせて学校にたどり着居たにもかかわらず、入り口のゲートにいた警備員に門前払いされた。保護者だと必死にアピールしても、門番は面倒くさそうに名簿を見て、どこかに電話をしていた。担当者が来るまであと十分お待ちください、と言われた時、銀治郎はもういいですと言って踵を返した。

自動は時計を見た。こんなところまで来て、門前払いを食らうなんて、訳がわからなかった。時間を無駄にしてしまった自分を悔いたが、仕方がない。銀治郎十年前に買った銀のセイコーの腕時計を見た。あと三十分で会社に戻らなければならない。ギリギリだ。


 銀治郎は来た道を戻っていった。川沿いの道に戻ると、橋を渡る。ひゅんと冷たい風が吹きつける。身を縮めたとその時、大きなくしゃみが聞こえた。橋の手すりから下を眺めた銀治郎は、誰かが橋の下に座っているのが見えた。その人間は工事現場の服装のまま、ぼんやりとした顔で川に目を向けていた。何かを食べている。姫城健吾、その人だった。

 銀治郎の心の中に、押さえ切れない程の嫌な気持ちが広がった。急激に心が冷え、こんなところまでプレゼントを持ってきた自分を心底馬鹿らしく思った。

なぜ娘はこの男がいいのだろう。確かに顔は多少整っているかもしれない。でもなんでこんなところに一人でいる? どうせ仕事も失敗したに違いない。

 銀治郎は自分の持っている袋をちらりと見た。これをそのまま持って帰ったら、娘は日を改めて奴に接触するかも知れない。もしそうなったら、奴は娘と付き合うのか――そう思ったときに、ぞっとした。そしてすぐに、一つの結論に達する。

それなら――そうだ。こんなもの、なくしてしまえばいい。そう思って銀治郎は、橋の上から袋を持った腕を突き出した。

でも、なかなか手は離せない。

そのとき、子供が笑いながらどんとぶつかってきた。

「あ」銀治郎の意識が、一瞬手から離れた。その瞬間強い風が吹き、持っていた紙袋は宙に舞った。銀治郎は息を飲み、空を掻くように手を伸ばした。しかし白い袋は重力に逆らうこともなく、そのまま川に落ちてぱしゃん、という音を立てた。

 銀治郎は青ざめた。自分のしてしまったことの酷さに狼狽し、転びそうな勢いで階段を駆け下りようとする。しかし、階段を数段下りたところで銀治郎はぎょっとした。姫城が下から登ってきたのだ。次の瞬間、銀治郎は階段をひとつ踏み外した。姫城が目線を上げたが、もう遅かった。銀治郎はそのまま、姫城の上に落ちていった。

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