第4話 設定

「あー、ここですね。黒鉄屋」


 大きくはないけれど、風情ある宿に見える。植木の手入れが施されていて、季節の花がうつくしく咲いている。塀に破れもなく、塵芥も落ちていない。なにより、門の脇に大きな桜の木が植えてあったので、さくらは気に入った。


 藍地に白抜きで『くろがねや』、と染められた暖簾をくぐる。と、そこには見目麗しい女性が出迎えてくれた。


「ようこそ、おおきに。おふたりさまやろか」


 温泉宿の女中風情にしては身なりがよい。さっぱりと垢抜けているし、着物もわりと上等だった。


「今晩、泊まれますか。ここの湯は、とてもいいって聞いたので」


『お湯を褒めろ』と山崎から指示されたので、総司はその通りにした。


「おおきに。ご案内いたしましょう」


 男女ふたりで温泉目当て、というのを先読みしたのか、女は親しげな笑みを浮かべた。


「当宿のお湯をご希望のお客はんは、多くいらっしゃいます。特に、ご夫婦はんには人気がございます」

「は? 夫婦に人気って……」


 思わず、さくらは口を挟みそうになったが、総司が遮った。


「それは楽しみです。よろしくお願いします。この通り、うちは姉さん女房なものでして、そろそろ。なあ、さくら?」


 空耳か? 今、とんでもないことを耳にしたような気がする。気のせいか? 呼び捨てにされなかったか。

 返事もできずに、さくらがうろたえていると、女中の高笑い声がした。


「ほっほほほ。さ、どうぞどうぞ。黒鉄屋の名物は、『子宝の湯』にございます」


***


「……なんなんだ、新しい設定になっているじゃないか!」


 通された『楓』の間で、さくらは畳をどんどん踏みつけながら叫んだ。目の前で、総司が苦笑している。手に持っている巾着も投げ捨ててぶつけてやろうかと思ったが、さすがにそれはやめた。が、くやしい。


「落ち着いてください。こっちの設定のほうが自然です」

「こっちって。自然って。私たちは、夫婦ってことか?」

「黒鉄屋は、子宝の湯で有名なんです。私もさっき、山崎さんに教えてもらったばかりですが」

「私は聞いていない」

「しまざ……さくらは、さっさと立ち上がって土産物店を出たからです」

「やめてくれ、その名を呼ぶな! せめて朔太郎にしろ」

「だめですよ。あなたは『私の妻』なんです。朔太郎じゃあんまりだ。そうですね、『おサク』にでもしましょうか」

「……勝手にしろ」


 あいつ、山崎。

 今度会ったら、しばく。土産物店の前で別れてしまった。頭は切れるが、剣術の腕ならばさくらのほうが上。こんな屈辱、そうそうない。衝撃が大きすぎる。この自分が、総司の妻? お役目だが、そんなことは考えたこともない。


「水原を捜そう。この宿のどこかにいるんだろう、この際さっさと終わらせよう」

「待ってください。昼間は目立ちます」


 問答無用で斬る、さくらの脳内は沸騰していた。けれど。


「水原にもきっと、事情があったんです。あいつは、ことば控えめなヤツでしたが、真面目だったし」

「情に流されるな」

「じゃあおサクは、温泉にまで来て、入らないで帰るんですか? 目の前にあるんですよ、温泉が」

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