第六幕


 第六幕



 翌日の夕刻、始末屋ら一行を乗せた漁船は、しとしとと小雨がそぼ降る常雨都市フォルモサの漁港へと辿り着いた。

「降りろ」

 漁船がもやい綱によって埠頭に係留されると、始末屋がそう言って下船を指示し、指示された黄俊明ホァン・ジュンミンは彼女の言葉に素直に従う。鋼鉄製の手錠によって始末屋と手首を繋がれたままの彼は未だにショック状態から立ち直ってはおらず、その顔面はまるで幽鬼の様に蒼白で、己の運命に抗おうとする気力すら見出せない。

「四日ぶり、いえ、五日ぶりのフォルモサかしら?」

 始末屋と黄俊明ホァン・ジュンミンに続いて、楽器ケースを背負ったボニー・パーカーがそう呟きながらクライドと共に下船し、沈痛な面持ちの郭文雄グォ・ウェンションもまた彼女らに従った。そして四人と一頭全員が、波間に揺れる甲板の上からコンクリートで造成された埠頭に降り立つと、漁船の船長らしき壮年の男が始末屋に歩み寄る。

「ご苦労だった。これは約束の報酬だ」

 そう言った始末屋はトレンチコートのポケットから丸めて輪ゴムで結わえた札束を四束ほど取り出し、船長に投げ渡すと、彼は慣れた手付きでもってそれらを受け取った。

「また来な」

 寡黙な性質たちらしい船長はそう言い終えるや否や、特に始末屋らと挨拶を交わすでもなく漁船の甲板へと引き返し、彼の本来の業務である海産物の荷揚げに取り掛かる。

「行くぞ」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、しとしととそぼ降る雨の中を傘も差さず、残る三人と一頭を背後に従えながらフォルモサの街の中心部の方角へと足を向けた。そして埠頭から続く街道沿いの遊歩道をぞろぞろと連れ立って歩き続ければ、互いの手首を鋼鉄製の手錠でもって繋ぎ合った黄俊明ホァン・ジュンミンが、始末屋に問い掛ける。

「……なあ始末屋、僕は一体、これからどうなっちゃうの?」

 おどおどと怯えながらそう言った黄俊明ホァン・ジュンミンの声は小鳥の様にか細く、その身体は微かに震え、恐怖と緊張でもって委縮し切ってしまっている事を如実に物語っていた。

「貴様はこれからホァン財閥本社ビルまで連行され、そこで黄金龍ホァン・ジンロン会長に引き渡される。その後の貴様の処遇は、あたしの知るところではない」

 ややもすれば冷酷かつ冷淡が過ぎるとも受け取られかねない口調でもってそう言った始末屋に、黄俊明ホァン・ジュンミンは重ねて問う。

「僕はお爺様の、いや、黄金龍ホァン・ジンロン会長のクローンなんだよね? そして会長に移植する内臓を育てるために、僕は生かされて来たんだよね? だとしたら、内臓を取り除かれた後の僕はどうなっちゃうのかな?」

「まあ、その時は確実に死ぬだろうな。内臓を失っても生きていた人間の話など、少なくともあたしは、古今東西聞いた事が無い」

 始末屋が彼とは眼も合わさずにそう言えば、がっくりと肩を落とした黄俊明ホァン・ジュンミンは項垂れ、そぼ降る雨に濡れながらめそめそと泣き始めた。

「……あの、えっと、始末屋さん? このままでは遠からず、俊明ジュンミン君は命を落とす事になるのですよ? ですからよろしければここで一旦立ち止まって、私の意見に耳を貸していただき、もう一度最初から考え直してはもらえないでしょうか……?」

 彼女の機嫌を窺うような口調でもって言葉を選びながらそう言ったのは、一行の最後尾を歩く郭文雄グォ・ウェンションであり、この二日間で彼がこうして始末屋の説得を試みるのはこれが初めての事ではない。

くどい。これ以上あたしの言動に口を挟む気なら、この手斧でもって貴様の素っ首をね落とすぞ」

 トレンチコートの懐から取り出した手斧の切っ先を突き付けながら、眼光鋭くそう言った始末屋。彼女に睨み据えられた郭文雄グォ・ウェンションはすごすごと引き下がり、口を噤んだ。

「それで始末屋、そのホァン財閥の本社ビルとやらは、ここから遠いのかしら?」

「さほど遠くはない。このまま徒歩で、一時間から二時間ほどだ」

「それは、充分遠いのではなくて?」

 徒歩での長距離移動を屁とも思わない始末屋の返答に呆れ返りながらも、彼女に問い掛けたボニー・パーカーは、暮れなずむ雨空の下を歩き続ける。彼女が連れた正体不明の獣であるクライドがぶるぶると身体を震わせ、全身を覆う毛皮にこびり付いた雨粒を弾き飛ばした。そして埠頭を出発してからおよそ一時間後、次第にフォルモサの街の中心部に近付きつつあるのか、当初は疎らだった通行人や背の高いビルディングの影が視界を覆い尽くし始める。彼女らが通過する夜の街は活気に満ち溢れ、雨に濡れた街路を行き交う人々の顔は日々の生活の充足感でもって生き生きと光り輝いていたが、彼らとは対照的に黄俊明ホァン・ジュンミンの顔色は屠殺場へと搬送される家畜のそれの様に生気を失っていた。

「腹が減った」

 すると不意にそう言った始末屋がぴたりと足を止め、ホァン財閥本社ビルが在る筈のビジネス街の方角ではなく、フォルモサ名物の屋台が立ち並ぶ夜市の方角へと踵を返す。

「ちょっと始末屋、どこに行くつもりですの?」

「依頼を完遂する前に、この先の店で飯を食う。貴様らも一緒に来い」

 ボニー・パーカーの問い掛けに対して振り返りもせずにそう言うと、始末屋は手錠で繋がれた黄俊明ホァン・ジュンミンを伴ったまま、すたすたと歩き始めてしまった。そこでボニーらもまた「まったくもう、本当に自分勝手なんだから」と不平不満の声を漏らしつつ、先行する彼女の後を追う。

「ここだ」

 やがて夜市の一角でそう言うと、始末屋は一軒の小さな食堂の前で足を止め、他の三人と一頭の了承を得る事無くその食堂の店内へと足を踏み入れた。

「おい店主、人数分の牛肉麺ニュウロウミェン魯肉飯ルーローファンを持って来い。急げ、大至急だ。ぐずぐずしていたら、その尻を蹴り上げるぞ」

 食堂内の手近なテーブル席に腰を下ろした始末屋はそう言って注文を終え、その注文内容を伝票に書き留めた店主を急かす。

「こんな大事な時に急に食事にしようだなんて、あなたと言う女は、なんて無軌道で自由奔放な人間なのかしら?」

 嫌味とも皮肉とも受け取れる愚痴を漏らしつつ、肩を竦めたボニー・パーカーは深く嘆息すると、始末屋と同じテーブル席に腰を下ろした。勿論鋼鉄製の手錠でもって始末屋と繋がれている黄俊明ホァン・ジュンミンも、雨に濡れた眼鏡のレンズをジャケットの裾で拭っている郭文雄グォ・ウェンションもまた腰を下ろし、注文した料理が配膳されるのをジッと待つ。

「お待ちどうさま」

 始末屋ら四人と一頭が無言のまま待ち続けること数分後、そう言った食堂の店主と店員の若い女性がお盆を手にしながら姿を現したかと思えば、そのお盆の上に乗せられていた人数分の丼をテーブルの上に並べた。

「いただきます」

 これで何度目になるのか、意外にも行儀良くそう言った始末屋は眼の前に並べられた丼に箸を付け始め、ボニー・パーカーと郭文雄グォ・ウェンションもまた彼女に続く。

「やはりフォルモサに来たら、これを食っておかないとな」

 独り言つようにそう言った始末屋は一心不乱に牛肉麺ニュウロウミェンを啜り、レンゲで掬った魯肉飯ルーローファンを胃袋の中へと掻き込んで、その食いっぷりには一点の迷いも無い。

「ごちそうさま」

 程無くして二つの丼を空にした始末屋は、行儀良くそう言って箸を置いた。しかしながら彼の隣に座る黄俊明ホァン・ジュンミン牛肉麺ニュウロウミェンにも魯肉飯ルーローファンにも手を付けず、只々項垂れたまま、めそめそと泣き続けるのみである。

「どうした貴様、食わないのか?」

「こんな時に、食欲なんて湧く訳が無いじゃないか! 僕はこれから、わざわざ殺されるためにお爺様の所まで連行されるんだぞ!」

 始末屋の問い掛けに対して、黄俊明ホァン・ジュンミンは半ば自暴自棄とも受け取れる口調でもってそう言った。

「そうか。だがしかし、あたしは貴様と違ってこれから一戦交えるつもりなのだから、戦の前の腹拵えはさせてもらった」

 そう言った始末屋は「貴様が食わないのなら、あたしが貰うぞ」と言って黄俊明ホァン・ジュンミンの前に並べられた丼を取り上げ、都合二人前になる牛肉麺ニュウロウミェン魯肉飯ルーローファンを平らげ始める。

「本当に、よく食べる女ですこと。……ところで始末屋、今あなたが仰った、その「一戦交えるつもり」と言うのはどう言う意味なのかしら?」

「それは、じきに分かる。今は只、その時に備えて英気を養え」

 牛肉麺ニュウロウミェンをずるずると啜りながらそう言ってボニー・パーカーの疑問に答えた始末屋は、箸とレンゲを動かす手を止めない。彼女が言うところの「その時」とは一体いつの事なのか、一体何をするつもりなのか、その真相を知り得るのは始末屋のみであった。

「ごちそうさま」

 そして数分後、合計四つの丼を空にした彼女はボニーと郭文雄グォ・ウェンションが食事を終えるタイミングを見計らって立ち上がり、店主を呼ぶ。

「おい店主、会計だ。早くしろ」

 そう言った始末屋はトレンチコートのポケットから取り出した現金での会計を終え、鋼鉄製の手錠でもって繋がれた黄俊明ホァン・ジュンミンとボニー・パーカーと郭文雄グォ・ウェンション、それに正体不明の獣であるクライドを背後に引き連れながら食堂を後にした。

「今度こそ、ホァン財閥の本社ビルに向かいますのね?」

「ああ、そうだ」

 相槌を打った始末屋は夕食を買い求める地元民や観光客でもってごった返す夜市から立ち去ると、再びビジネス街の方角へと足を向け、黒光りする革靴の踵を鳴らしながら歩き始める。漁港に辿り着いた際には夕暮れ時だった空もすっかり陽が落ち、常雨都市フォルモサの名に恥じないそぼ降る雨の中を歩き続ける彼女らの胸中は、死地に赴く戦士のそれに他ならない。

「着いたぞ」

 やがてフォルモサの街のビジネス街の中心部へと辿り着いた始末屋は、行き交う人も疎らな夜の街路に佇む一棟のビルディング、つまりホァン財閥本社ビルの前で足を止めた。末広がりで縁起の良い漢数字の『八』にちなみ、地上八十八階建ての高さに至るまで階層を積み重ねた、まるで黄金龍ホァン・ジンロン会長の自尊心と虚栄心を象徴するかのような高層ビルディングである。

「お待ちしておりました、始末屋様! 本日はご足労いただき、誠にありがとうございます!」

 すると、そのホァン財閥本社ビルの前で待ち構えていた一人の男が声高らかにそう言いながら深々と頭を下げ、始末屋らを出迎えた。それは黒光りするタキシードに身を包んだオールバックの髪の一人の男、つまり始末屋の様な裏稼業のならず者達を統率する非合法組織『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターの男である。

「この度は、保護対象である黄俊明ホァン・ジュンミン殿の確保と連行、誠に見事でございました! まさに、獲得報酬ランキング第四位の名に恥じない仕事ぶりでございます!」

「御託はいい。一刻も早く、黄金龍ホァン・ジンロン会長に会わせろ」

 その顔に作り笑いを浮かべ、胡麻を摺るような口調でもって始末屋を労う調整人コーディネーターの男に対してそう言うと、冷静沈着を旨とする彼女は黄金龍ホァン・ジンロン会長との面会を求めた。

「成程、成程。左様でございますか! でしたらどうぞ皆様、屋内へと足をお運びください!」

 調整人コーディネーターの男がテンション高くそう言えば、始末屋ら四人と一頭はガラス張りの自動ドアを潜り、ホァン財閥本社ビルの広壮なエントランスへと足を踏み入れる。

「ここから先は、エレベーターにて移動していただく事となります!」

 やはり妙にテンションの高い口調でもってそう言った調整人コーディネーターの男の言葉に従い、始末屋と黄俊明ホァン・ジュンミン、ボニー・パーカーと正体不明の獣であるクライド、それに郭文雄グォ・ウェンションの四人と一頭はエレベーターに乗り込んだ。フォルモサを代表する大財閥の本社ビルのエレベーターらしく、同時に二十人ばかりが搭乗出来そうな、豪奢で堅牢な造りの大型エレベーターである。そして始末屋ら一行と調整人コーディネーターの男を乗せたエレベーターは、壁面の電光パネルが五十階を指し示すまで上昇してから停止した。

黄金龍ホァン・ジンロンは、最上階に住んでいると聞いたが?」

 不審に思った始末屋が尋ねれば、調整人コーディネーターの男は答える。

「ええ、ええ、確かにその通りでございます! しかし残念ながら、黄金龍ホァン・ジンロン会長様は無菌室にて病に臥せっておられるため、皆様方と直接お会いする事は出来ません! ですから当ビルの五十階、ホァン財閥のレセプションホールにて、モニター越しにお会いしていただく運びとなりました! 不躾ではございますが、どうかご了承ください!」

「成程」

 得心した始末屋ら一行は先頭に立つ調整人コーディネーターの男に従い、ぞろぞろと連れ立ってエレベーターを降りると、ホァン財閥のレセプションホールだと言う広壮な空間に足を踏み入れた。無数のシャンデリアが吊り下げられた見上げるほどの高さの天井と、足元に広がる床一面に敷かれた如何にも高価そうなペルシャ絨毯とが、ある種の異邦人である五人と一頭を無言の重圧でもって出迎える。

「それで、モニターと言うのはあれの事かしら?」

 ボニー・パーカーがそう言いながら、レセプションホールのステージの中央上段に据え付けられた、およそ400インチから500インチばかりの大きさの大型LEDディスプレイを指差した。

「ええ、ええ、そうです、その通りでございます! どうぞ皆様、モニターの前にお集まりください!」

 へりくだるような口調でもってそう言った調整人コーディネーターの男の案内に従い、始末屋ら一行は大型LEDディスプレイの前に並んで立つと、その場でジッと待機する。すると程無くして、真っ暗だった大型LEDディスプレイに光が灯り、真っ白な頭髪と顎髭を生やした一人の老人が映し出された。酷く痩せ細ったその老人は口元に人工呼吸器を装着し、息も絶え絶えで、どうやらベッドに横たわったままカメラの前に居るらしい。

「始末屋様、こちらのお方がホァン財閥の現会長、黄金龍ホァン・ジンロン様でございます! そしてそして黄金龍ホァン・ジンロン様、こちらがお孫さんである黄俊明ホァン・ジュンミン君を誘拐犯の毒牙から見事に救出せしめた、始末屋様でございます!」

 黒光りするタキシードに身を包んだ調整人コーディネーターの男により、互いを紹介され合った始末屋と黄金龍ホァン・ジンロン。暫し二人は、大型LEDディスプレイの画面越しに睨み合う。

「……女か。しかし始末屋とは、また妙な名だな」

 最初に口を開いたのは、黄金龍ホァン・ジンロンであった。

「この度はわしの可愛い可愛い孫息子であり、ホァン財閥の次期会長として大事に大事に育てて来た俊明ジュンミンを救い出してくれた事を、心から感謝しているぞ。礼を言おう」

 ややもすれば声を出すのも苦しそうな口調でもってそう言った黄金龍ホァン・ジンロンに、始末屋の隣に立つ黄俊明ホァン・ジュンミンが噛み付く。

「お爺様は、僕をずっと騙していたんですね……」

「……何だと?」

「僕はお爺様の孫でも息子でもなく、ましてやホァン財閥の次期会長候補どころか、内臓移植のために育てられたお爺様のクローンだって言うじゃありませんか! 一体どう言う事なんですか、これは?」

 一歩前に進み出た黄俊明ホァン・ジュンミンが涙ながらにそう言って自らの胸の内を吐露すれば、大型LEDディスプレイの向こうの黄金龍ホァン・ジンロンははっと息を呑み、言葉を失った。そして暫しの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開く。

「そうか俊明ジュンミン、お前も遂に知ってしまったか」

「……否定しないんですね、お爺様は」

 黄俊明ホァン・ジュンミンは震える声でもってそう言うと、一縷の望みを絶たれた無実の被告人の様に、その場に泣き崩れた。

「その事実を、どうしてお前が知りおおせた?」

 人工呼吸器を装着した黄金龍ホァン・ジンロンが尋ねれば、今度は郭文雄グォ・ウェンションが一歩前に出て答える。

「全ての真相は、私が俊明ジュンミン君に伝えました」

「はて? 誰だ、お前は?」

 黄金龍ホァン・ジンロンはそう言いながら小首を傾げ、度の強い眼鏡を掛けた郭文雄グォ・ウェンションの顔をじろじろと睨め回した。

「私の顔をお忘れですか、会長? あなたの主治医である王聡明ワン・ツォンミン医師の助手を務める、グォですよ」

 郭文雄グォ・ウェンションがそう言えば、黄金龍ホァン・ジンロンはぽんと手を打つ。

「おお、そう言われてみれば、確かにその顔に見覚えがあるぞ。いつも回診の際にワン先生の後ろに並んでいる、十人近く居る助手の内の一人のグォじゃないか。それにしても、まさか身内から裏切り者を出す事になるとは、わしもよくよく舐められたものだな」

「ええ、その点に関しましては、申し開きのしようもありません。しかしながら私は一人の医師として、倫理的にも人道的にも、俊明ジュンミン君をみすみす見殺しにする事が出来なかったのです。どうか、お許しください」

 背筋を伸ばし、姿勢を正しながらそう言った郭文雄グォ・ウェンションは、眼の前の大型LEDディスプレイに向かって深々と頭を下げた。どうやらかつての雇い主を裏切った後も、彼の黄金龍ホァン・ジンロン会長やホァン財閥に対する忠誠心は、微塵も揺らいではいないらしい。

「それで、俊明ジュンミン。それに、グォ。このわしの秘密を知り得たお前ら二人は、これから何を望む?」

「僕は……」

 自らの意思を主張しようとした黄俊明ホァン・ジュンミンを、彼の主治医である郭文雄グォ・ウェンションが制し、その胸の内を代弁する。

黄金龍ホァン・ジンロン会長、どうか俊明ジュンミン君に、自由をお与えください! 病理に蝕まれた内臓取りのための都合の良いクローンとしてではなく、あなたの遺伝子を受け継ぐ一人の人間としての彼の人生を尊重し、どうかもう一度あなたの後継者としての道を歩ませてやってほしいのです!」

 郭文雄グォ・ウェンションは平身低頭し、深々と頭を下げながらへりくだった口調でもってそう言うが、大型LEDディスプレイの向こうの黄金龍ホァン・ジンロンはそれに応じない。

「ならぬ。そこに居る黄俊明ホァン・ジュンミンは、あくまでもわしを延命させるためのクローン、言うなれば生贄に過ぎぬのだ。だからこそそれ以上でもそれ以下でもなく、わしの偉大なる業績を後世に知らしめるための踏み台として、その命を有効利用させてもらおうではないか」

「そんな……」

 泣き崩れたままの黄俊明ホァン・ジュンミンに代わり、郭文雄グォ・ウェンションが唇を噛み締めながらそう言って、彼の無念さと落胆ぶりを世に知らしめた。

「そうと決まれば、そこの始末屋とやら、お前には俊明ジュンミンを引き渡してもらおうか」

 黄金龍ホァン・ジンロンがそう言えば、どこからともなく四人の男達がレセプションホールに姿を現し、物々しく軍靴の踵を踏み鳴らしながらこちらへと接近する。それら四人の男達は都市型迷彩服と防弾仕様のタクティカル装備に身を包み、ケブラー製のヘルメットとガスマスクによって頭部を隙間無く覆って自動小銃を携えた、ホァン財閥の私設軍隊の兵士達であった。そしてその兵士達が、始末屋ら五人と一頭を取り囲む。

「さあ、始末屋。わしの命綱である俊明ジュンミンを、こちらに引き渡すがいい」

 重ねてそう言った黄金龍ホァン・ジンロンの言葉に従い、始末屋はトレンチコートのポケットから小さな鍵を取り出すと、その鍵でもって彼女と黄俊明ホァン・ジュンミンとの手首を繋いでいる手錠を外した。そして泣き崩れたままの黄俊明ホァン・ジュンミンを強引に抱え起こし、そっと背中を押して突き出せば、四人の兵士達の内の二人が左右から挟み込むような格好でもって彼を拘束する。

「そうだ、それで良い」

 己のクローンである黄俊明ホァン・ジュンミンが拘束される様子を大型LEDディスプレイ越しに眺めていた黄金龍ホァン・ジンロンが、真っ白な頭髪と顎鬚に覆われたその顔を綻ばせ、自らの支配欲と万能感が満たされる快感に酔い痴れているかのような笑みと共にそう言った。するとその笑みが癪に障ったのか、楽器ケースを背負ったボニー・パーカーが始末屋を問い質す。

「始末屋、あなたは本当に、これで納得しているのかしら?」

 しかしながら問い質された始末屋はその場に立ち尽くしたまま、眉一つ動かさない。

「ああ、そうだ。何度でも繰り返すが、一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない」

「あなた、思っていた以上に頑固で意固地で冷酷な女ね。見損なってよ」

 ボニーがそう言ってかぶりを振れば、始末屋はジッと前を見据えたまま一言だけ付言する。

「あたしが助けるのは、自ら助かろうとする者だけだ」

 するとその言葉が彼の耳に届いたのか、それとも単に生存本能によって喚起された最後の悪足掻きなのか、項垂れたまま泣き崩れていた黄俊明ホァン・ジュンミンが顔を上げた。そしてこちらをジッと見据える始末屋と視線を絡め合いつつ、叫ぶ。

「始末屋、僕を助けろ! これは命令、いや、僕からお前への正式な依頼だ! お前が一度引き受けた依頼は何があろうと完遂すると言うのなら、例外はあり得ないと言うのなら、僕の依頼も完遂してみせろ! 」

 肺の中の空気を限界まで振り絞り、有らん限りの大声でもって黄俊明ホァン・ジュンミンは叫ぶが、彼に依頼された始末屋はトレンチコートのポケットに手を突っ込んだまま微動だにしない。

「ふん! わしの遺伝子から作られた紛いものの人間もどきが、無駄な悪足掻きをしおって。もういい、そいつは最上階の子供部屋に軟禁し、わしの許可無しには外出出来ないよう監視しておけ」

 そう言って不快感を露にした黄金龍ホァン・ジンロンが命じると、彼に雇われた私設軍隊の兵士達は黄俊明ホァン・ジュンミンを拘束したまま、その場でくるりと踵を返した。そしてレセプションホールの最奥の、ホァン財閥の幹部社員のみが足を踏み入れる事を許された高層階へと至るエレベーター目指し、やはり軍靴の踵を踏み鳴らしながら歩き始める。

「なあ始末屋、これからはお箸もちゃんと持つから、食事の際はいただきますもごちそうさまもちゃんと言うから、僕の依頼を引き受けてくれよ!」

 私設軍隊の兵士達によってエレベーターへと連行されながら、尚もそう言って、始末屋に助けを求める黄俊明ホァン・ジュンミン。そして彼が後一歩でエレベーターに乗せられると言うところで、始末屋のトレンチコートの内ポケットに納められていたスマートフォンが軽快なリズムでもって着信音を奏で始めた。

「誰だ」

 始末屋が内ポケットから取り出したスマートフォンを耳に当て、応答ボタンをタップしてみれば、聞き慣れた声が受話口越しに彼女を労う。

「おめでとうございます、始末屋様! 依頼達成でございます!」

「ああ、貴様か」

 スマートフォンの向こうの通話相手は、始末屋やボニー・パーカーの様な裏稼業のならず者達を統率する非合法組織『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターの男であった。つまり、始末屋ら一行が足を踏み入れたホァン財閥本社ビルの五十階のレセプションホールで彼女と行動を共にする、黒光りするタキシードに身を包んだ男と同一人物に他ならない。そのため始末屋がそちらに眼を向けると、彼女の斜め後ろに立つ調整人コーディネーターの男もまた彼自身のスマートフォンを手にしており、互いの声が届く範囲に居る人物とわざわざスマートフォンでもって通話すると言う、無意味で不毛な行為を繰り返していたのだ。しかしながら如何なる意図があってか、それでも彼は、スマートフォン越しに報告する。

「今回の依頼の報酬をあなた様の口座に振り込んでおきましたので、どうぞ、ご確認ください!」

 妙にテンションの高い声と口調でもってそう言った調整人コーディネーターの男の言葉に従い、始末屋が彼女の銀行口座の預金残高をオンラインで確認すると、確かに約束されていた額の報酬が振り込まれていた。

「確認した」

 素っ気無くそう言った始末屋は、やはりぶっきらぼうな口調でもって、今度は彼女から調整人コーディネーターの男の報告する。

「引き受けた依頼を完遂したため、これより、新規の依頼人である黄俊明ホァン・ジュンミンより受諾した依頼に取り掛かる。至急、そちらで調整コーディネートしてくれ」

「かしこまりました、始末屋様!」

 そう言って快諾した調整人コーディネーターの男は通話を終えると、スマートフォンをタキシードの内ポケットに仕舞うや否や、眼にも止まらぬ速度でもって足早に駆け出した。そして今まさにエレベーターに乗せられんとする黄俊明ホァン・ジュンミンに接近し、彼に尋ねる。

黄俊明ホァン・ジュンミン様、この度は『大隊ザ・バタリオン』の執行エグゼキュートプログラムをご利用いただき、誠にありがとうございます! 先程のあなた様のご発言によりますと、あなた様をホァン財閥の監視下から救出すると言う依頼内容で相違ありませんね?」

「おい、何だお前は! 退け! 近寄るな!」

 突然駆け寄って来るなり依頼内容を確認した調整人コーディネーターの男を、黄俊明ホァン・ジュンミンを連行していた私設軍隊の兵士の一人が、手にした自動小銃を構え直しながら怒鳴り付けた。しかしながら調整人コーディネーターの男は正真正銘の実銃の銃口を向けられてもまるで動じず、むしろ陽気な笑みをその顔に浮かべつつ、黄俊明ホァン・ジュンミンに尚も問い掛ける。

「それで、黄俊明ホァン・ジュンミン様? 依頼達成の際の報酬は如何ほどで?」

「……一万ドルだ……」

 私設軍隊の兵士達によって拘束された黄俊明ホァン・ジュンミンが、かすれた涙声でもってそう言った。

「僕の口座に、米ドルで一万ドル貯金してある! それを全部持って行っていいから、僕を助けてくれ!」

 黄俊明ホァン・ジュンミンが声を限りに叫んだその言葉が、彼の依頼が効力を発揮する合図となる。

「かしこまりました、黄俊明ホァン・ジュンミン様! さあさあ、始末屋様! 今この時点をもって、正式に依頼が発効されました! 我々『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーター一同、良き結果を期待しております!」

 調整人コーディネーターの男がそう言い終えるのとほぼ同時に、駱駝色のトレンチコートの懐から左右一振りずつの手斧を取り出した始末屋はペルシャ絨毯が敷かれた床を蹴り、黄俊明ホァン・ジュンミンを連行しようとする私設軍隊の兵士達四人に襲い掛かった。

「ひいっ!」

 まずは始末屋から見て最も近い位置に立っていた兵士に彼女は襲い掛かり、自動小銃を構え直す暇も与えず、カミソリ同然の切れ味を誇る手斧を常人離れした膂力でもって振り下ろす。するとケブラー製のヘルメットとガスマスクに覆われていた兵士の頭部が、それらの装備ごと真っ二つに叩き割られた。

「糞!」

 叩き割られた頭部の断面から真っ赤な鮮血と薄灰色の脳髄とが零れ落ちるのを眼にした二人目の兵士が、悪態を吐きながら自動小銃の銃口を始末屋に向けて引き金を引き絞ろうとするものの、一介の兵士に過ぎない彼よりも始末屋の方が反応が早い。剣術に於ける返す刀の要領でもって彼女が手斧を振るえば、兵士の左右の腕が日本刀を前にした大根さながらにすぱっと切断され、自動小銃を構えた格好のままの両腕がレセプションホールの床を転がる。

「ぎゃあああぁぁぁ!」

 両腕を切断された事による苦痛と恐怖、それに身体欠損がもたらす喪失感と絶望感が引き金となり、断末魔の悲鳴にも準じた絶叫が二人目の兵士の喉から漏れ聞こえた。しかしながらその絶叫も、そう長くは続かない。間髪を容れずに再び襲い掛かった始末屋の手斧の切っ先が、彼の首をあっさりと切断してしまったからだ。切断された二人目の兵士の首から上が、まるで運動場に置き忘れられたサッカーボールの様にごろりと転がるが、ガスマスクに覆われたその表情を窺い知る事は出来ない。

「さて」

 これで残る私設軍隊の兵士は黄俊明ホァン・ジュンミンを左右から挟み込むような格好でもって拘束している二人のみとなり、始末屋は手斧を構え直しながら、その二人に眼を向ける。

「!」

 ところが次の瞬間、動物的な直感でもって迫り来る危機を察知した始末屋は素早く身を翻し、トレンチコートの裾を靡かせながらその場から飛び退った。するとたった今しがたまで彼女が立っていた地点目掛けて缶コーヒーくらいの大きさの物体が飛び来たり、その物体が床に接すると同時に爆発したかと思えば、耳をつんざく轟音と共に身を焦がす熱風と四肢が千切れんばかりの強烈な衝撃が始末屋を襲う。

「始末屋、無事でして?」

 ボニー・パーカーがそう言って気を揉めば、爆風の煽りを喰らった始末屋は、まるで何事も無かったかのような素振りでもって素早く起き上がった。そしていつでも飛び掛かれるように腰を落として警戒態勢を維持しつつ、左右一振りずつの手斧を改めて構え直すと、先程の缶コーヒー大の物体の発射地点の方角を睨み据える。

「誰だ?」

 始末屋が問い質せば、ホァン財閥本社ビル五十階のレセプションホールのステージ裏の暗闇から、やや大柄な人影が姿を現した。その男の正体に、始末屋はより一層警戒する。

「よう始末屋、五日ぶりの再会だが、元気してっか?」

 馴れ馴れしくも砕けた口調でもってそう言いながら姿を現したのは、肌と言う肌に真っ黒な刺青タトゥーを彫り込んだ上に蓄光塗料でもって全身骨格を描き上げた長身の男、つまり『爆殺髑髏スカルボマー』を自称するグレイブキーパーであった。

「……グレイブキーパーか。どうして貴様がここに? まさか、あたしの獲物を横取りする気か?」

 警戒態勢の始末屋が重ねて問えば、グレイブキーパーはへらへらと薄ら笑いを浮かべながら答える。

「なあに、今回の合同コンペティションがあんたの勝利で終わったと聞いて、俺様は鞍替えさせてもらったのさ。だから今ではこうして、黄金龍ホァン・ジンロン会長に雇われた用心棒の一人って訳よ」

「成程、つまり貴様は黄金龍ホァン・ジンロン会長に魂を売り払い、執行人エグゼキューターとしての矜持も失ったと言う訳だな?」

「言ってくれるね」

 やはりへらへらと薄ら笑いを浮かべながらそう言ったグレイブキーパーの手には、南アフリカのアームスコー社が製造する六連装のグレネードランチャー、ダネルMGL-140が握られている。

「それで、貴様はこれからどうするつもりだ? たとえ旧知の仲であろうと、貴様があたしの邪魔をすると言うのなら、その時はこの手斧でもってその素っ首をね落としてくれる」

「面白い。やれるもんならやってみせろよ、始末屋」

 そう言ったグレイブキーパーは肩に担いでいたダネルMGL-140を両手で構え直し、その銃口を始末屋に向ける。そして続けざまに五回、素早く引き金を引き絞れば、ぽんぽんぽんと言う軽快な銃声と共に直径40㎜の五発の弾頭が始末屋目掛けて射出された。

「!」

 すると始末屋は左右一振りずつの手斧の斧腹でもって自らの急所を覆い隠し、射出された榴弾グレネードの爆発による衝撃から身を守ろうとするが、彼女の意に反して着弾した弾頭は爆発しない。その代わりにそれらの弾頭はレセプションホールの床を転がると同時に、その側面に開けられた無数の穴から、化学薬品じみた匂いを発する濃厚な煙を噴き出し始める。

「スモークか!」

 咄嗟にそう言った始末屋の言葉通り、グレイブキーパーがダネルMGL-140から射出したそれら五発の弾頭は、煙幕を張って敵を牽制するためのスモークグレネードであった。そのため始末屋個人の視界は言うに及ばず、レセプションホール全体が見る間に真っ白な煙に覆われてしまい、彼女がその素っ首をね飛ばすべきグレイブキーパーや黄金龍ホァン・ジンロンの魔の手から救出すべき黄俊明ホァン・ジュンミンの姿もまた見失ってしまう。

「これであんたは手も足も出ない筈さ、始末屋!」

 そう言ったグレイブキーパーはダネルMGL-140のシリンダー内の空薬莢を排出し、新たな榴弾グレネード六発を装填し直すと、その双眸に熱源を感知する暗視サーマルゴーグルを装着した。これさえあれば、たとえ濃厚な煙幕の中であろうと、その体温の高低を感知して敵の居所を知り得るのである。

「さあ、踊れ踊れ! 踊り狂え! 俺様の掌の上で翻弄されながら、その身体を爆散させろ!」

 勝利を確信したグレイブキーパーがダネルMGL-140の引き金を引き絞れば、その銃口から次々と射出された榴弾が始末屋の足元で爆発し、視界を奪われた彼女は咄嗟に身を守る事も出来ない。

「くっ!」

 始末屋は舌打ちを漏らしながらも、それでも前後左右に素早く移動しながら的を絞らせない事によって、グレイブキーパーの榴弾による一撃を回避し続けた。

「どうしたどうした! そのままじゃジリ貧だぞ!」

 尚もそう言って、煙幕の中を逃げ続けるばかりの始末屋を煽るグレイブキーパー。だがしかし、そんな彼の耳に予想外の声が届く。

「あら、そうかしら? あなたも身を隠した方がいいのではなくて?」

 そう言ったのは、『猛獣使いとその下僕』と呼ばれるボニー&クライドの主犯格とも言うべきボニー・パーカーその人であった。そして次の瞬間、彼女が連れている正体不明の獣であるクライドが象か恐竜かそれに類する何かかと見紛うほどの筋骨隆々とした巨体へとその肢体を変貌させたかと思うと、『爆殺髑髏スカルボマー』を自称するグレイブキーパーに襲い掛かる。

「ファック! この糞ガキと薄汚い野良犬め!」

 グレイブキーパーは舌打ち交じりに悪態を吐き、ごうごうと言う雄叫びと共にこちらへと迫り来るクライドにダネルMGL-140の銃口を向けると、引き金を続けざまに引き絞った。次々と射出された榴弾グレネードが空を切り、クライド目掛けて宙を舞う。しかしながらクライドは、その巨体に似合わぬ身の軽さでもってそれらの弾頭を回避すると獲物に最接近し、ダネルMGL-140を構えるグレイブキーパーの右腕にその牙を突き立てた。

「ぎゃあああぁぁぁっ!」

 身の丈四mにも達する猛獣による原始的な攻撃に、悲鳴を上げるグレイブキーパー。彼の右腕はクライドの牙によって見る間に噛み千切られ、刺青タトゥーが彫られた皮膚に続いて肉と骨とが切断されたかと思えば、自重に耐え切れなくなったその右腕がダネルMGL-140と共にぼとりと床に転がり落ちる。

「如何かしら、グレイブキーパー? あたくしの相棒パートナーたるクライドは、たとえ視界を奪われたとしても全身に生えた体毛が熱源を感知し、鋭い嗅覚でもって敵と味方を嗅ぎ分ける事が出来ましてよ?」

 もうもうと立ち込める煙幕の中から姿を現したボニー・パーカーは、失った右腕の腋の下を押さえて止血しながら跪いたグレイブキーパーの眼前に立ちはだかり、既に勝利を確信したかのような口調でもってそう言い放った。

「……この糞ガキと薄汚い野良犬め……絶対に……絶対に許さねえぞ……そのちんちくりんな身体を、俺様の手で爆散させてやるからな……」

 跪いたグレイブキーパーは呼吸を荒げながらそう言って虚勢を張るが、利き腕である右腕を失った時点で彼の敗北はほぼ確定しており、幾ら強がってみせたところで形勢逆転は見込めない。

「あらあら、野良犬以下の負け犬のくせに、随分と吠えてくれますのね? だとしたらこのまま見逃してあげるのは、後顧の憂いを無くすためにも得策とは言えないのかしら?」

 ボニー・パーカーはそう言うと、彼女の次の命令を待っていたクライドに命じる。

「クライド、やっておしまいなさい!」

 猛獣使いたるボニー・パーカーに命じられた下僕であるクライドは、獣臭い吐息と涎にまみれたその口からごうごうと言う雄叫びを上げながら、再びグレイブキーパーに襲い掛かった。

「ぎゃああぁぁぁっ!」

 容赦無く襲い掛かったクライドは、再びの悲鳴を上げるグレイブキーパーの残された左腕と両脚をあっと言う間に噛み千切り、四肢を失った彼は達磨か芋虫さながらの姿でもってペルシャ絨毯の上をばたばたとのたうち回る。

「糞! 糞! 畜生! 畜生! 殺してやる! 絶対に殺してやる!」

「あら? そんな姿になっても未だ未だ生きて減らず口が叩けるだなんて、あなた、随分としぶといんですのね? それとも只単に、往生際が悪いだけかしら?」

「……殺してやる……絶対に殺してやるからな……」

 尚も虚勢を張るグレイブキーパーの醜態を嘲笑ってやろうと、ボニー・パーカーがホオジロザメを髣髴とさせる真っ白なギザ歯を剥きながら一歩接近した、まさにその時。

「死ね」

 最後にそう言ったグレイブキーパーが、奥歯に仕込んだ自爆装置の起爆スイッチを舌で押し込むと同時に、蓄光塗料でもって人間の頭蓋骨が描かれたその顔に末期の薄ら笑いを浮かべた。すると彼の体内に埋め込まれたプラスチック爆弾が起爆したかと思えば、凄まじい轟音と爆炎と爆風を伴いながらその肉体が爆散し、迂闊に接近したボニー・パーカーがその爆発に巻き込まれる。

「!」

 グレイブキーパーの自爆攻撃によって発生した猛烈な爆風と衝撃波、それにプラスチック爆弾に事前に練り込まれていた金属球がレセプションホールの全ての窓ガラスを叩き割り、鼓膜に突き刺さるかのような破砕音と共に飛び散ったガラス片がホァン財閥本社ビルの周囲の公道や駐車場に雨霰の如く降り注いだ。そしてガラスを失った窓から新鮮な外気が流入すると、時間の経過と共に次第に換気が進み、ホール内をけぶらせていた煙幕が晴れて視界が確保され始める。

「ひいっ!」

 煙幕が晴れると同時に最初に声を上げたのは、始末屋やボニー&クライドの背後で頭を抱えながら床に伏せ、自らの身を守る事に全力を費やしていた郭文雄グォ・ウェンションであった。何故なら彼の頭からほんの5㎝程度しか離れていない眼の前の絨毯と床板に、爆風によって飛んで来た拳大の金属片が深々と突き刺さっていたのだから、思わず頓狂な声を上げてしまったとしても無理は無い。

「無事か、ボニー?」

 左右の手斧の斧腹でもって急所を保護し、どうやらグレイブキーパーによる自爆攻撃を無傷のままやり過ごしたらしい始末屋が、爆心地に歩み寄りながらボニー・パーカーの身を案じる。

「ええ、無事でしてよ。ですが、あたくしの身代わりとなったクライドが……」

 不安げな口調でもってそう言ったボニーの傍らで、彼女の下僕であるクライドが分厚い毛皮で覆われた背中を真っ赤な鮮血で濡らしつつ、くうんくうんと苦悶の鳴き声を上げていた。

「迂闊に獲物に近付いた、あたくしの責任ですの。あの『爆殺髑髏スカルボマー』を自称するグレイブキーパーが自爆用の爆薬を体内に隠し持っている事くらい、ちょっと考えれば予測出来た事ですのに……」

 唇を噛みながらそう言って、自責の念に駆られるボニー・パーカー。彼女の頬を伝い落ちる熱い涙を、顔を上げたクライドが濡れた舌でもってぺろぺろと舐め取り、主人であるボニーを慰めるべく尽力する。どうやらグレイブキーパーの体内の自爆装置が爆発する直前、クライドが身を挺して彼女を守ったおかげでボニーは無事だったらしいが、その代償は決して看過出来る規模ではない。

「クライド、立てて? 無理しなくてもよろしくってよ?」

 だがしかし、その身を案じるボニー・パーカーに見守られつつ、それでもクライドは四本の脚で大地を踏み締めながら立ち上がった。身を挺して彼女を守る際に盾にした背中には、無数の金属球やグレイブキーパーの骨片などが深々と突き刺さり、真っ赤な鮮血がその毛皮を伝い落ちる。

「えっと、それで、俊明ホァン・ジュンミン君は?」

 やがてレセプションホールに充満していた煙幕が完全に消え失せた頃、ようやく立ち上がった郭文雄グォ・ウェンションがそう言って始末屋に尋ねた。すると彼女は、首を横に振りながら答える。

「逃げられた。どうやら煙幕でもって文字通りけむに巻かれている内に、エレベーターで最上階へと連れ去られてしまったらしい」

「でしたらもう一回、黄金龍ホァン・ジンロン会長と交渉すれば……」

「この状態で、どうやって?」

 始末屋はそう言って、ペルシャ絨毯が敷かれた床を転がる大型LEDディスプレイの残骸を、黒光りする革靴の爪先でもって蹴り飛ばした。つまりグレイブキーパーの自爆攻撃に巻き込まれた結果として、現状、黄金龍ホァン・ジンロンと交渉するための通信手段は失われてしまっている。

「それで始末屋、これからあなたはどうするつもりなのかしら?」

「決まっている。このまま最上階を目指し、黄金龍ホァン・ジンロンの魔の手から俊明ジュンミンを取り戻すまでだ」

 そう言ってボニー・パーカーの問い掛けに返答した始末屋は、トレンチコートの裾を靡かせながら踵を返し、ホァン財閥本社ビルの高層階へと至るエレベーターに足を向けた。そして扉の脇に設置された操作パネルの上昇ボタンを押すと、この階に籠が到着するまでの暇を持て余しつつ、暫しその場で待機する。

「あら? そう言えば、さっきまでここに居られた調整人コーディネーターの方はどこに行かれたのかしら?」

 きょろきょろと周囲を見渡しながら、ボニー・パーカーが調整人コーディネーターの男の所在を尋ねた。

「ああ、あの男なら、いつの間にか姿をくらました。そもそも『大隊ザ・バタリオン』の調整人コーディネーターなどと言うのはどこにでも姿を現し、気付けば姿を消してしまっている、そう言った神出鬼没な輩だからな。そんな輩の所在など、気に掛ける必要もあるまい」

 ボニーの疑問に答えた始末屋は、彼女らに問う。

「それで、貴様らはこれからどうする? 俊明ジュンミンを救出すると言う彼の依頼を引き受けたのは、あくまでもあたし個人の我儘だ。それに、この先もグレイブキーパーの様な輩が襲って来ないとは限らない。自分の身の安全を第一に考えるなら、貴様らはここで手を引け」

 始末屋はそう言って、手負いの身であるボニー&クライド、それに一介の医者に過ぎない郭文雄グォ・ウェンションの二人と一頭に、ここで退場するよう暗に促した。しかしながら楽器ケースを背負ったボニー・パーカーも正体不明の獣であるクライドも、戦力としては全く役に立たない郭文雄グォ・ウェンションも、その場から立ち去ろうとはしない。

「……本当にいいのか?」

 駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋が重ねて問えば、二人と一頭は答える。

「ええ、始末屋。覚悟ならとっくに出来ていましてよ? 以前お伝えした通り、あたくしとここに居るクライドの二人は、ホァン財閥会長の黄金龍ホァン・ジンロンとはちょっとした因縁がありますの。ですからどうしても、彼ともう一度対面しなければならないのではないかしら?」

「私も、最後までご一緒させてください! 勿論、こんな私ごときがお二方のお役に立てるとは思えませんが、俊明ジュンミン君の主治医として、彼の新たなる人生の第一歩を見届けてやりたいのです!」

 迷い無くそう言って、決意の程を示してみせたボニー・パーカーと郭文雄グォ・ウェンション。そんな彼女ら二人に呼応してか、正体不明の獣であるクライドもまた背中の傷を押して、ごうごうと言う力強い雄叫びを上げてみせた。

「そうか。ならば行くぞ、貴様ら」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋を先頭に、ホァン財閥本社ビルのレセプションホールに到着したエレベーターに彼女ら三人と一頭が乗り込むと、その扉がゆっくりと閉まる。

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