第五幕


 第五幕



 千切った油條ヨウティヤオを放り込んだ皮蛋痩肉粥ピーダンショウロウジョウ、つまりピータン入りのお粥を食べ終えた始末屋ら一行は腹を満たし、レンゲを置いた。

「ごちそうさま」

 今朝は昨夜とは違って、黄俊明ホァン・ジュンミンもまた始末屋と一緒に自発的にそう言うと、彼女ら三人と一頭は会計を終えてから食堂を後にする。

「朝からお粥と言うのも、なかなか悪くないんじゃないかしら?」

 もうもうと湯気が立ち上る店内は活気に溢れ、これから職場に向かう労働者達でもって賑わう食堂を出てからハオジアンの街の裏通りに一歩踏み出したところで、膨らんだ腹を擦りながらボニー・パーカーがそう言った。

「病人食同然の日本の粥とは違って、フォルモサやハオジアンの粥は美味いからな」

 そう言ってボニーに同意した始末屋は人差し指の爪でもって歯と歯の間をせせり、そこに詰まった油條ヨウティヤオの欠片を丹念にこそげ落とす。彼女らが退店したばかりのこの食堂は、昨夜泊まった安ホテルから徒歩一分ほどの裏通りに店舗を構える、地元民御用達の小さな大衆食堂だ。

「ところで始末屋、あなたも気付いてまして?」

「当然だ」

 ボニーと始末屋はそう言って目配せし合うと、食堂から五十mばかり離れた古びたビルディングの外壁の陰へと意識を集中させる。

「あたくし達、昨夜から尾行されてましてよ?」

「ああ」

 素っ気無くそう言ったそう言った始末屋の言葉通り、彼女ら三人と一頭は、昨夜から何者かによって尾行されていた。そしてその何者かが、彼女らが意識を集中させたビルディングの陰に身を潜めながら、こちらの様子を窺っているのである。

「しかし、プロの手口ではない。尾行している事が、こちらに筒抜けだ」

「ええ、そうね。経験が浅い素人の犯行か、もしくは敢えて尾行している事を知らしめて、こちらを警戒させるつもりなのかしら?」

 そう言った始末屋とボニーは示し合わせ、黄俊明ホァン・ジュンミンと正体不明の獣を背後に従えながら交差点を左折し、何者かが身を潜めているビルディングとは逆方向の建物の陰へと身を隠した。するとその何者かは尾行すべき対象を見逃すまいと気が焦り、迂闊にもビルディングの陰から飛び出すと、始末屋らの後を追ってハオジアンの街の裏通りを駆け抜ける。そして三人と一頭が左折した交差点に足を踏み入れてみれば、そこには始末屋が手斧を構え、ボニー・パーカーがホオジロザメを髣髴とさせるギザ歯を剥きながら待ち構えていた。

「貴様、誰だ?」

「初めまして、追跡者さん。あたくし達に何かご用なのかしら?」

 待ち構えていた始末屋とボニーがそう言って問い質そうとすると、彼女らの眼の前に姿を現してしまった何者か、つまり度の強い眼鏡を掛けた細身の若い男はぎょっと驚く。どうやら彼は、自分の所在がとっくの昔に悟られてしまっているとは思ってもみなかったらしい。

「あ……」

 すると尾行していた眼鏡の男は素早く踵を返すと、始末屋ら一行から距離を取るべく全速力でもって駆け出し、逃走を開始した。

「そう易々と逃がしません事よ! 行きなさいクライド! 行って生け捕りにしておやりなさい!」

 ボニー・パーカーが命じれば、彼女が言うところのクライド、つまり犬とも狼とも虎とも熊とも違う正体不明の獣が眼鏡の男の後を追って駆け出す。しかもその獣の全身の骨と筋肉とが見る間に膨張し、最初は大型犬くらいの大きさだった肢体が象か恐竜かそれに類する何かかと見紛うほどの筋骨隆々とした巨体へと変貌すると、前を走る眼鏡の男にあっと言う間に追い付いた。そしてその口蓋に生えた鋭い牙でもって男が着ているワイシャツの襟首に噛み付いたかと思えば、そのままアスファルトで舗装された裏通りの路面に引き倒して自由を奪う。自由を奪われた眼鏡の男は観念したのか、路面にぐったりと横たわったまま抵抗しない。

「クライド、そこまで! それ以上傷付ける必要は無くってよ!」

 再びボニーが命じると、正体不明の獣ことクライドはその動きを止め、眼鏡の男の自由を奪ったままその場で待機する。そして主人であるボニーも含めた三人がクライドに追い付き、彼が捉えた眼鏡の男の身柄を始末屋に引き渡せば、身の丈四mにも達しようかと言うクライドの巨体は再び大型犬サイズにまで収縮した。

「お手柄でしてよ、クライド」

 ボニーがそう言いながらクライドの頭を撫でてやれば、撫でられたクライドは身を捩りながら歓喜の想いを全身で表現し、くうんくうんと嬉しそうな鳴き声を上げる。

「それで、その男の正体は何者でして?」

「それはこれから聞き出す。さあ貴様、貴様が一体どこの何者で、何の目的でもってあたし達を尾行していたのか白状しろ。白状しなければ、その身体を耳や鼻から始まって性器や手足に至るまで、少しずつ削ぎ落とす」

 そう言った始末屋は、手にした手斧の鋭利な刃を眼鏡の男の右耳の根元にあてがい、その刃を柔らかな皮膚にじりじりと食い込ませた。食い込んだ手斧の刃が眼鏡の男の右耳をゆっくりと削ぎ落とし始め、その傷口から真っ赤な鮮血が滴り落ちる。

「ままま待ってください! 私はキミ達の敵ではないし、害を為す者でもありません!」

 眼鏡の男は全身をがたがたと震わせ、恐怖と緊張により額をびっしょりと脂汗で濡らしつつそう言った。そこで始末屋は、左手でもって彼の襟首を鷲掴み、右手でもって彼の右耳を削ぎ落とそうとしながら重ねて問う。

「ならば、貴様の所属と姓名を今すぐ白状しろ。虚偽の答弁を行えば、この場で耳を削ぎ落とし、その次は鼻を削ぎ落とす」

「分かった、分かりました! ですからその斧をどけてください!」

「この手斧をどけてほしければ、貴様の素性を一刻も早く明かす事だな」

「私の名前はグォ! 郭文雄グォ・ウェンションです! ホァン財閥の黄金龍ホァン・ジンロン会長に雇われている医者の一人で、そこに居る俊明ジュンミン君の主治医も務めています! ほら俊明ジュンミン君、私だよ、キミの主治医のグォだよ!」

 郭文雄グォ・ウェンションと名乗った眼鏡の男はそう言いながら、始末屋の背後に立つ黄俊明ホァン・ジュンミンに自らの素性を担保してくれるよう求めた。

「ああ、確かによく見れば、僕の主治医のグォじゃないか。いつもの回診の時みたいに白衣を着てないから、気付かなかったよ」

「おいおい、それはないよ、俊明ジュンミン君」

 そう言って溜息交じりに冷や汗を掻きながら、呆れ顔の郭文雄グォ・ウェンション黄俊明ホァン・ジュンミンの発言によってその素性が担保されたので、始末屋は彼を解放する。

「とにかく、誤解が解けてくれて何よりだ。繰り返し説明させてもらいますが、私の名前は郭文雄グォ・ウェンションホァン財閥専属の内科医兼外科医であり、それに遺伝子工学の研究者であると同時に、黄俊明ホァン・ジュンミン君の主治医を務めています」

 解放された郭文雄グォ・ウェンションは襟を正し、眼鏡を掛け直しながらそう言うが、始末屋の尋問は終わらない。

「だとすれば尚更、その主治医の先生とやらがこんなハオジアンくんだりまで一体何の用だ。それも一人きりで、物陰からこそこそとこちらの様子を窺っているなど、怪しいにも程がある」

 そう言った始末屋は再び手斧の切っ先を郭文雄グォ・ウェンションに向け、彼女の隣に立つボニー・パーカーもまた、命令一つで身の丈四mにも達する巨獣と化すクライドをけしかけようと身構える。

「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってください! 確かにこそこそと身を隠しながらキミ達の動向を窺っていた件については謝りますが、それは私自身の身の安全が担保されていないから仕方が無かったんです! それと何度も言うように、私は決して、キミ達に害を為す者ではありません! 只ちょっと、キミ達に伝えたい事があってここまで来たんです! 頼むから信じてください!」

 身振り手振りを交えながら必死で弁明する郭文雄グォ・ウェンションの姿は滑稽で、傍目には嘘を吐いているようには見えない。

「成程、ではその『伝えたい事』とやらを白状してもらおうか」

 始末屋がそう言って更に問い質せば、郭文雄グォ・ウェンションはもごもごと口籠りつつ、ちらりと黄俊明ホァン・ジュンミンに眼を向けた。

「それは……その……出来れば彼が居ない場所で、ゆっくりと話したいのですが……」

 郭文雄グォ・ウェンションが意味深な口調でもってそう言うと、始末屋はトレンチコートの懐に手斧を収め直し、クライドに引き倒されたまま路面に尻餅を突いていた彼を立ち上がらせる。

「それなら、この近くの茶館に行こう。ちょうどあたしも、食後の茶が飲みたかったところだ。ついて来い」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋に先導されながら、黄俊明ホァン・ジュンミン郭文雄グォ・ウェンション、それにボニーとクライドの四人と一頭はハオジアンの街の裏通りを再び歩き始めた。そして歩き続ける事数分後、彼女ら一行は一軒の茶館の前へと辿り着く。

「ここだ。入るぞ」

 そう言った始末屋らが揃って足を踏み入れたのは、地元ハオジアン産のアンティークな椅子やテーブルが快適さを損なわない程度の間隔で並べられた、落ち着いた雰囲気の伝統的な茶館であった。

「店主、人数分の茶と茶菓子を持って来い。早くしろ。もたもたするな」

 テーブル席に腰を下ろした始末屋の注文を伝票に書きつけた店主が厨房の奥に姿を消すと、彼女はさっそく詰問する。

「さあ、グォ。貴様の『伝えたい事』とやらを白状しろ」

「ああ……ええ……その……」

 始末屋に詰問された郭文雄グォ・ウェンションは眼鏡の奥の眼を泳がせながら、もごもごと口籠った。そして始末屋の隣に座る黄俊明ホァン・ジュンミンに眼を向けつつ、何かを言いたげな素振りを見せる。

「ああ、そうだったな。それじゃあ俊明ジュンミン、済まないが、ちょっとの間だけ席を外していてくれ」

「クライド、そこの坊やと一緒に店の外で遊んで来てくれるかしら?」

 そう言った始末屋とボニー・パーカーの命令に従い、首を縦に振った黄俊明ホァン・ジュンミンと正体不明の獣のクライドは連れ立って腰を上げ、芳醇なる茶の香りが漂う茶館から一時退店した。そして彼らが茶館の前の通りで追い掛けっこをしながら遊び始めるのを確認した郭文雄グォ・ウェンションは意を決し、ようやく口を開く。

「まず最初に、結論から言わせていただきます。俊明ジュンミン君を、黄金龍ホァン・ジンロン会長に引き渡してはいけません」

 意を決した郭文雄グォ・ウェンションは開口一番、真剣かつ沈痛な面持ちでもってそう言った。

「ほう、それは何故だ?」

「もし仮にあなた方が俊明ジュンミン君を引き渡せば、彼は遠からず、黄金龍ホァン・ジンロン会長に殺されます」

 郭文雄グォ・ウェンションのこの言葉に、始末屋は眉根を寄せる。

「それは、妙な話だ。黄金龍ホァン・ジンロン会長は俊明ジュンミンの事を「可愛い可愛い孫息子」と評していたし、また同時に「ホァン財閥の次期会長として大事に大事に育てて来た」とも言っている。そんな俊明ジュンミンを何の理由も無く殺すとは、到底思えない」

「確かにその通りですし、それは黄金龍ホァン・ジンロン会長の真意でしょう。ですがその会長の言葉には、裏があります」

「と、言うと?」

「その理由を説明する前にお聞きしますが、あなた方は、俊明ジュンミン君の素性について、どの程度までご存じですか?」

 茶館のテーブルを挟んで座る郭文雄グォ・ウェンションはそう言って、始末屋を問い質した。そこで始末屋は暫し逡巡し、この二日間で彼女が見聞きした黄俊明ホァン・ジュンミンに関する情報を口にする。

俊明ジュンミン黄金龍ホァン・ジンロン会長の妾の子で、表向きは孫息子を名乗っているが、実際には実の息子だと聞いた。だとすれば尚更、黄金龍ホァン・ジンロン会長は彼を溺愛しているであろうし、俊明ジュンミンを誘拐した黄美玲ホァン・メイリン黄冠宇ホァン・グァンユーの二人が彼を逆恨みしていた事にも納得が行く」

「成程、あなた方もそこまでご存じでしたか。しかしながら、先程私が会長の言葉には裏があると言った通り、それは表向きの話に過ぎません」

「勿体ぶるな。さっさと本題に入れ」

 郭文雄グォ・ウェンションの回りくどい口ぶりに、始末屋はそう言って彼を急かした。

「ええ、それでは説明させていただきます。端的に言ってしまえば、俊明ジュンミン君は黄金龍ホァン・ジンロン会長の息子などではありません。いえ、そもそも彼の母親である筈の、会長の妾だと言う女性自体が存在しないのです」

「それは、どう言う事だ?」

 始末屋が追求すれば、郭文雄グォ・ウェンションは一旦咳払いをして居住まいを正し、最初から説明し始める。

「事の発端は、黄金龍ホァン・ジンロン会長の健康問題です。常雨都市フォルモサの貧民街で売春婦の私生児として生まれ、ゴミさらいから身を起こし、たった一代でホァン財閥を築き上げた会長は豪胆無比な方でした。若い頃から一年を通して一日も休まずに毎日十五時間以上働き続け、ある程度財を成してからは贅の限りを尽くした暴飲暴食を繰り返し、また同時に一日五十本余りの煙草を消費する重度のヘビースモーカーでもあります。そんな会長ですから、四十歳を過ぎて中年期に差し掛かると同時に成人病、今で言うところの生活習慣病の数々に罹患してしまった事は、当然の帰結と言う他ありません」

「まあ、そうだろうな。酒も煙草もやらないあたしとは正反対だ」

 茶館の椅子に腰を下ろし、脚を組み直しながら始末屋はそう言った。

「糖尿病に通風、高血圧に高尿酸血症に肝硬変、それに心疾患に腎臓病に慢性的な肺炎と、枚挙に暇が無いほどの病に犯されたその身体は既にぼろぼろで、日々の投薬と人工透析と人工呼吸器によってかろうじて生き永らえているのが現状です」

 そこまで言い終えたところで一旦言葉を切った郭文雄グォ・ウェンションは、少しばかり逡巡してから、改めて口を開く。

「ですから黄金龍ホァン・ジンロン会長は、今から十数年前に一計を案じました。ホァン財閥の一部局であった生化学研究所に内密に厳命し、彼自身の遺伝情報から病に犯された内臓の移植用として、新品同様の健康な内臓を人工的に複製しようと試みたのです」

「成程」

「ところが当時の技術では、特定の内臓だけをピンポイントに狙い撃ちで複製する事は不可能でした。ヒトの遺伝子のゲノム解析の分野が、未だその段階まで発達してはいなかったのです。そこで仕方無く、生化学研究所の当時の技術者達は、内臓毎に複製するのではなく人間を丸々一体複製する事にしました。要するに、いささかSF小説やSF映画の様な現実離れした話ではありますが、黄金龍ホァン・ジンロン会長のクローンを作り上げたのです」

「会長のクローンねえ……それはまた、確かに現実離れした話じゃないかしら?」

 始末屋と一緒に話を聞いていたボニー・パーカーもまたそう言って、彼女の左隣に腰を下ろした郭文雄グォ・ウェンションの発言に若干ながらの疑義を呈した。

「ええ、確かにそう評されてしまっても仕方がありません。しかしながら、これは紛れもない事実です。そして会長のクローンは複製失敗や不慮の事故の可能性も考慮し、予備も含めて計五体が作られ、赤ん坊の状態で生まれた彼らはそれぞれ別の場所でもってその成長が見守られました」

「つまり、その内の一人が……」

「そうです、俊明ジュンミン君です」

 郭文雄グォ・ウェンションはそう言うと、再び真剣かつ沈痛な面持ちでもって始末屋を見つめ、見つめられた始末屋は眉一つ動かさずに尋ねる。

「計五体のクローンが作られたと言う事は、俊明ジュンミン以外の四人は、その後どうなった?」

「四人全員、死にました。遺伝子の複製と培養技術が未熟だったせいで、満足に成長する事無く細胞が壊死し、どろどろに溶けた肉と血のジュースと成り果てたのです。ですから唯一生き延びた俊明ジュンミン君こそ、死に瀕した黄金龍ホァン・ジンロン会長にとっての希望の星に他なりません」

「成程、あのじじいが言っていた「可愛い可愛い孫息子」や「大事に大事に育てて来た俊明ジュンミン」と言う言葉は、そう言った裏の意味があったのか」

 始末屋はそう言って、天を仰いだ。

「そうです。ですから俊明ジュンミン君は、彼が黄金龍ホァン・ジンロン会長の妾の子であると言う生化学研究所の技術者に植え付けられた偽の記憶を信じ込んでいますが、実際にはそんな女性は存在しません。全ては彼を騙すための、虚偽の情報に過ぎないのです」

 そう言った郭文雄グォ・ウェンションに、ボニーが彼の真意を問い質す。

「それで、グォ。あなたはどうして、そんな守秘義務にも関わる内密な話をあたくし達に伝えに来たのかしら?」

 楽器ケースを背負ったボニーがそう問えば、郭文雄グォ・ウェンションは彼女の問いに答えざるを得ない。

「そうですね、一言で言ってしまえば、良心の呵責でしょうか。私は俊明ジュンミン君の主治医として彼の健康状態を見守っていましたが、彼の命が行く行くは黄金龍ホァン・ジンロン会長の病理に蝕まれた内臓のパーツ取りとして消費されてしまう事に、言い知れない罪悪感を抱いていました。ですからこうして、何とかして俊明ジュンミン君を一人の人間として救出する方法は無いものかと思い悩み、今回の誘拐事件こそがそれらの理想を達成すべき絶好の機会と捉えたのです」

「成程、概ね状況は理解した。それで、貴様はこれからどうしたい? これからどう言った結果を望む?」

 始末屋がそう言って、彼女の向かいの席に腰を下ろした郭文雄グォ・ウェンションを問い質した。

「私は私の患者であり、たとえクローンとは言え一人の生きた人間である俊明ジュンミン君をみすみす見殺しにする事が、倫理的にも人道的にも看過出来ませんでした。ですから今回の黄美玲ホァン・メイリン黄冠宇ホァン・グァンユーによる次期会長候補誘拐事件の結果、二人が雇った用心棒とあなた方の戦闘に巻き込まれ、俊明ジュンミン君は非業の死を遂げたと言う事に出来ないでしょうか? その上で私が彼をかくまい、偽造した戸籍によって新たな身分と姓名を与え、第二の人生を歩ませようと考えています」

「そんな事をなされば、ホァン財閥におけるあなたの立場が危うくなるのではなくて?」

 今度はボニー・パーカーがそう問うと、郭文雄グォ・ウェンションは達観したような笑みを口端に浮かべながら答える。

「ええ、確かにそうですね。俊明ジュンミン君をかくまった事がバレるかバレないかにかかわらず、彼の主治医である私は職を失う事になるでしょう。場合によっては、もっと危険なペナルティを負うかもしれません。しかしたとえそうなっても、それが一人の人間の命を救うためだとすれば、それは安い代償なのではないでしょうか。ですからどうか、あなた方お二人にお願いいたします! 俊明ジュンミン君を、私に引き渡してください! 本来あなた方が受け取る筈だった報酬をお支払いする事は出来ませんが、どうか、人助けだと思って!」

 そう言った郭文雄グォ・ウェンションは始末屋とボニー・パーカーに向けて深々と頭を下げ、黄俊明ホァン・ジュンミンの身柄を彼に引き渡すよう懇願した。するとほんの僅かな間を置いた後に、始末屋は断言する。

「断る」

 その無慈悲な一言に、期待を裏切られる格好となった郭文雄グォ・ウェンションは顔を上げた。

「断るとは……それはつまり、俊明ジュンミン君を引き渡してはもらえないと言う事でしょうか?」

「ああ、そう言う事だ。あいつはあたしの獲物であり、貴様には悪いが、一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない。だからあたしはあいつをフォルモサまで連れて行き、依頼主である黄金龍ホァン・ジンロンに引き渡す。もしそれを邪魔すると言うのなら、その時は貴様自身があたしの手斧の錆となる事を覚悟しろ」

 始末屋はトレンチコートの懐から手斧を取り出し、その鋭利な切っ先を郭文雄グォ・ウェンションに向けながらそう言って、何よりも率先して依頼を完遂すべきだと言う己の意思を固持する。彼女の頑なかつ高潔なプロ意識、それに一人の裏稼業の女としての生き様を前にして、手斧を突き付けられた郭文雄グォ・ウェンションは言葉も無い。するとその時、茶館の入り口から程近い柱の陰から、傷付いた獣がくうんくうんと痛みを訴えるような哀しげな唸り声が耳に届いた。そこで始末屋にボニー・パーカー、それに郭文雄グォ・ウェンションの三人がはっと振り返ってみれば、彼女らが気付かない内にそこに立っていた黄俊明ホァン・ジュンミンと眼が合う。

「……俊明ジュンミン、貴様、いつからそこに居た?」

 ゆっくりと振り返った始末屋が、やはり眉一つ動かさずにぶっきらぼうな口調でもってそう問うた。すると、たった今しがたくうんくうんと悲しげな唸り声を上げた正体不明の獣のクライドと共に柱の陰に立つ黄俊明ホァン・ジュンミンが、しどろもどろになりながら答える。

「えっと、その、僕がお爺様のクローンだって言うあたりから……」

「ああ、そうか。つまりそれは、ほぼ全ての会話の内容を聞いてしまったと言う事に相違無いな?」

 そう言って問い質した始末屋は茶館の椅子からおもむろに腰を上げ、柱の陰に身を隠していた黄俊明ホァン・ジュンミンの元へと歩み寄ると手を伸ばし、彼の右手首を強引に掴み上げた。右手首を掴み上げられた黄俊明ホァン・ジュンミンの顔面は血の気が引いて蒼白で、彼自身が実の父親だと信じていた黄金龍ホァン・ジンロンのクローンであったと言う事実を知らされたショックからか、全身の力が抜けてしまって抵抗する事も出来ない。

「悪いが、今ここで貴様を逃がす訳には行かない」

 無慈悲にも始末屋はそう言うと、黄俊明ホァン・ジュンミンの右手首を掴み上げているのとは逆の手を、彼女が着ている駱駝色のトレンチコートのポケットに突っ込む。そして間を置かずにポケットから引き抜かれたその手には、決して玩具などではない鋼鉄製の手錠が握られていた。光沢のある金属の質感が窓から差し込む陽光を反射し、ぎらりと輝く。

「恨むなよ」

 再びの無慈悲な一言と共に、始末屋は彼女の左手首と黄俊明ホァン・ジュンミンの右手首とを、鋼鉄製の手錠でもってがちゃりと繋いでしまった。これでもう、彼は始末屋から逃れる事が出来ない。

「一体何をなさるおつもりなのかしら、始末屋? あなた、この男の話は聞いておりまして? でしたらそこの坊やを依頼主に引き渡したら彼がどうなるか、そのくらいの事は理解しておいででしょう?」

 ここで意外にも、ショックで声を上げる事も出来ない黄俊明ホァン・ジュンミンに代わってボニー・パーカーが腰を上げ、始末屋に抗議した。

「見ての通りだ、ボニー。たとえ俊明ジュンミン黄金龍ホァン・ジンロン会長に内臓を提供するためのクローンであったとしても、たとえ彼が死ぬ運命だったとしても、あたしが一度引き受けた依頼を完遂する事に変わりはない」

「待ってください! そんな事をしたら、一人の人間として立派に生きている俊明ジュンミン君を、みすみす見殺しにするようなものなんですよ? あなたには人の心が無いのですか?」

 郭文雄グォ・ウェンションもまた腰を上げ、ボニー・パーカーと共に始末屋に抗議するが、彼女は彼らの言葉を聞き入れない。

「何度でも言うが、一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない。だから俊明ジュンミンは、あたしの名誉にかけてフォルモサに連れて行く。もし仮に、貴様らがあたしの行く手を阻むと言うのなら、その時は貴様ら全員の首がこの手斧によってねられるものと思え」

 そう言った始末屋はトレンチコートの懐から一振りの手斧を取り出し、その鋭利な切っ先を、彼女に抗議するボニー・パーカーと郭文雄グォ・ウェンションに交互に突き付ける。

「……それがあなたのプロとしての矜持ですのね、始末屋?」

「そうだ」

 始末屋がボニー・パーカーの問い掛けに即答すれば、ボニーは天を仰いで嘆息し、再び茶館の椅子に腰を下ろした。

「でしたら、もうこれ以上あたくしが言うべき事は無くってよ。何故ならこのあたくしも『大隊ザ・バタリオン』に所属するプロの執行人エグゼキューターですし、始末屋、あなたの矜持には敬意を払わなくてはならないのですからね」

 ボニー・パーカーがそう言って矛を収めたので、必然的に、始末屋の手斧の切っ先は郭文雄グォ・ウェンションに向けられる。

「貴様はどうだ、グォ? 未だあたしのやり方に口を挟む気か?」

「私は……」

 手斧の切っ先を突き付けられながら始末屋に睨み据えられた郭文雄グォ・ウェンションは、そう言って口篭もらざるを得ない。所詮は一介の医者に過ぎない彼が、獲得報酬ランキング第四位の始末屋に歯向かって、無事で済む確率は万に一つも無かろう。そして郭文雄グォ・ウェンションは失意と慙愧の念にその身を燃やし、決して本意ではないとは言え、始末屋に迎合する形でもって無言のまま腰を下ろした。

「良し、これでもう、あたしのやり方に口を挟む者は居ないな? だとしたら、そろそろ出発の時刻だ。もうすぐ、漁港から船が出る」

 そう言った始末屋はトレンチコートの懐に手斧を納め、鋼鉄製の手錠でもって互いの手首同士を繋いだ黄俊明ホァン・ジュンミンとボニー・パーカーと郭文雄グォ・ウェンション、それに正体不明の獣であるクライドと共に茶館を後にする。

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