第四幕


 第四幕



 ホテル媽閣マーコウの最上階の廊下を渡り切り、警備員達と鉢合わせしないように非常階段を駆け下りると、やがて始末屋を先頭にした三人と一頭は地下駐車場へと辿り着いた。

「はぁ……はぁ……ちょっと待てよ……待ってくれってば……」

 最後尾を歩いていた黄俊明ホァン・ジュンミンは這う這うの体でもって階段を駆け下り終えたが、玉の様な汗に濡れた喉から漏れる呼吸はぜえぜえと荒く、その膝は疲労でもってがくがくと震えている。

「僕は……お前らみたいな人殺し連中なんかと違って……野蛮な生き方はしていないんだからな……だからもっと……僕に配慮しろってば……」

 そう言って呼吸を荒げる黄俊明ホァン・ジュンミンとは対照的に、真っ先に非常階段を駆け下り終えた始末屋は息一つ乱れてはおらず、彼女に続くボニー・パーカーと彼女の獣もまた平然としていた。

「運動不足だな。若い内からそれでは先が思いやられる、もっと身体を鍛えろ」

 地下駐車場の薄暗い照明の下、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋は素っ気無くそう言って、特に黄俊明ホァン・ジュンミンを労ったりはしない。

「糞、この大女め!」

 そう言って悪態を吐く汗だくの黄俊明ホァン・ジュンミンに、始末屋は警告する。

「いいか俊明ジュンミン、あたしを大女と呼ぶな。始末屋と呼べ。あたしはそれ以上でも、それ以下でもない」

 始末屋はそう言いながらこうべを巡らせ、ホテル媽閣マーコウの地下駐車場の様子を確認した。どうやら彼女が推測するに、未だ警備員達は彼女らがここに居る事に気付いてはいないらしく、整然と並んだ車輛以外に人の姿は無い。

「よし、行くぞ。ついて来い」

 しかしながら始末屋はそう言うと、ボニー・パーカーと正体不明の獣を引き連れつつハオジアンの街の繁華街の方角へと歩き始め、黄俊明ホァン・ジュンミンは膝をがたがたと震わせながら彼女の後を追う。

「ここまで来れば、取り敢えず追手は撒けたな」

 やがてホテル媽閣マーコウの地下駐車場を抜け、ハオジアンの街の繁華街を行き交う人混みの中へと身を隠した三人と一頭は足を止めると、追手の有無を確認しながら始末屋がそう言った。この段になると、ようやく黄俊明ホァン・ジュンミンも平静を取り戻したらしく、その呼吸も整いつつある。しかし快楽と悦楽の街であるこの地に順応した人々は見知らぬ他人になど興味は無く、特に始末屋やボニー・パーカーの様な無法者アウトローならば尚更関わろうとはせずに、彼女らとは眼も合わさずに素通りして行くばかりだ。

「それで、これから一体どうするつもりなのかしら、始末屋?」

 極彩色のネオンサインが煌めく夜の繁華街で、街路を埋め尽くす人混みの中で足を止めたボニー・パーカーが振り向きざまに尋ねると、始末屋は答える。

「そうだな、船でもってフォルモサへと向かう前に、とりあえずどこかで飯にしよう。こうも腹が減ってしまっていては、足腰に力が入らなくて仕方が無い」

 そう言った始末屋は再び歩き始め、やがてハオジアンの街の中心部から距離を置いた寂れた裏通りの、一軒の食堂の前で足を止めた。

「ここにするぞ」

 有無を言わせぬ口調でもってそう言った始末屋に従い、彼女の後に続く二人と一頭もまた、屋号が染め抜かれた暖簾を潜って入店する。

「あら、随分と安っぽい店ね?」

 入店したボニーがそう言うと、黄俊明ホァン・ジュンミンもまた「僕、こんな店に入るのは初めてだ」と言って同意するが、そんな二人の様子を気にも留めずに始末屋は手近なテーブル席に腰を下ろした。しかしボニーと黄俊明ホァン・ジュンミンの二人が訝しんだのも当然で、入店した食堂は如何にも地元の労働者が利用するような大衆食堂であり、仮にもホァン財閥の次期会長候補が食事を摂るに相応しい場所ではない。

「おい、店主」

 さほど広くもない店内の壁と言う壁に貼られたメニューの一覧をざっと見渡すと、始末屋は店主を呼びつけ、料理を注文する。

「いいか店主、焗鴨飯ダックライス咖哩蟹ガーリーシー、それに非洲雞フェイジューチーだ。それと免治豬肉ミンチ馬介休餅マージシオービンも持って来い。人数分の香濃奶茶ミルクティーも忘れるな。急げ。ぐずぐずしているとその尻を引っ叩くぞ」

 始末屋は何を注文すべきか悩む事無く、流暢な広東語でもってそう言って、伝票に注文を書き取った食堂の店主を急かした。するとそんな始末屋に、彼女の向かいの席に腰を下ろしたボニーが尋ねる。

「それで始末屋、重ねてお聞きしますけど、これからの予定は一体どうなっているのかしら?」

「明日の昼過ぎ、漁港からフォルモサへと向かう漁船に乗って密航する手筈を整えてある。だからそれまではここハオジアンのダウンタウンに潜伏し、追手から身を隠すぞ。その間何をするかは、貴様の自由だ」

「なるほどね、理解しましてよ」

 始末屋のぶっきらぼうな返答を耳にしたボニーはそう言って、首を縦に振りながら得心した。すると今度は黄俊明ホァン・ジュンミンが、隣の席の始末屋に尋ねる。

「おい、大女」

「あたしを大女と呼ぶな。始末屋と呼べ」

「分かった。それで始末屋、お前はお爺様に雇われて僕を助けに来たんだろう? だったらお爺様は、僕の事を何と言っていた?」

「依頼人である黄金龍ホァン・ジンロンなら、貴様の事を「可愛い可愛い孫息子」と評していた。そしてまた同時に、臆面も無く「ホァン財閥の次期会長として大事に大事に育てて来た」とも評していたぞ」

「そうか。そうだよな、僕はお爺様にとっても、そしてホァン財閥にとっても決して失う訳には行かない、唯一無二の次期会長候補だもんな」

 黄俊明ホァン・ジュンミンがそう言ってふふんと鼻を鳴らしながら胸を張り、自らの立場を自画自賛して悦に入った。するとそうこうしている内に、やがて食堂の店主が調理し終えた料理の皿の数々をテーブルの上に並べ始めたので、始末屋ら三人と一頭は箸を取る。

「いただきます」

 やはり意外にも行儀良くそう言うと、始末屋は眼の前に並べられた料理の数々に箸を付け始めた。勿論ボニー・パーカーと黄俊明ホァン・ジュンミンの二人もまた小さな声でもって「いただきます」と言うと、彼女に続いて料理に箸を付ける。

「あら、なかなか美味しいじゃないの」

 炊き立ての焗鴨飯ダックライスをレンゲで掬って口に運んだボニーが、意外そうな表情と口調でもってそう言った。焗鴨飯ダックライスはその名の通り、ダック、つまり家鴨アヒルの肉と白米をその出汁で炊いた米料理で、かつてこの街を支配していた宗主国の料理の影響を色濃く受け継いでいる。

「当たり前だ。ここはあたしが選んだ店だからな」

 始末屋はそう言いながら咖哩蟹ガーリーシー非洲雞フェイジューチーの皿を手に取り、まるで仕留めた草食動物を貪り食う肉食獣の様な豪快さでもって、それらの料理に齧り付いた。ちなみに咖哩蟹ガーリーシーはカレー味のソースで蟹を殻ごと煮込んだ料理であり、俗に『アフリカンチキン』とも呼ばれる非洲雞フェイジューチーもまたスパイスを練り込んだ鶏肉を炭火で焼いた料理で、どちらも外国からの影響を受けつつこの地で生み出されたハオジアンの名物料理の一つである。

「!」

 その時不意に、始末屋の手が止まった。そして彼女は、隣の席で馬介休餅マージシオービンを食べる黄俊明ホァン・ジュンミンの手元を、鋭い視線でもってジッと見つめる。

「おい、俊明ジュンミン

「ん? 何だ?」

「さっきから見ていれば、貴様、行儀が悪いにも程があるぞ。フォークじゃないんだから、馬介休餅マージシオービンを箸で突き刺すな。いや、そもそも箸の持ち方がおかしい。もっとこう、二本の箸の間に中指を挟むんだ。ああ、違う違う、貴様の持ち方では箸が交差しているじゃないか。そんな持ち方で、どうやって飯が食える」

 始末屋はそう言って、隣に座る黄俊明ホァン・ジュンミンの箸の持ち方に口を挟むものの、肝心の黄俊明ホァン・ジュンミンにとってはそんな彼女が鬱陶しくて仕方が無い。

「何だよ、いいじゃないか! 僕は僕のやり方でもって、ちゃんとご飯が食べられているんだからな!」

「ふざけるな。食事の作法と言うものは、人間としての最低限の礼儀でもあるし、命を繋ぐために犠牲となった食材への敬意を忘れないために必要不可欠なものだ。それを疎かにしていては、貴様が生きるべき価値そのものを問われかねない」

 淡々とした口調でもってそう言いながら、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋は背後から腕を回して黄俊明ホァン・ジュンミンの手を取ると、その有り余る膂力でもって正しい箸の持ち方を強制した。勿論彼自身もまたそんな始末屋に抵抗するが、彼我の力の差は歴然であり、結局は力尽くでもって箸を持ち直させられてしまう。

「痛い痛い! ああ、もう、分かったってば、この黒んぼの大女め! ちゃんとお前の言う通りに箸を持つから、その手を離せ!」

 苦痛に喘ぐ黄俊明ホァン・ジュンミンがそう言って観念すると、ようやく始末屋も納得し、力任せに握っていた彼の手を解放した。すると黄俊明ホァン・ジュンミンは渋々ながら、どうにかこうにか正しい箸の持ち方でもって、一口サイズの馬介休餅マージシオービンを摘み取ろうと奮闘する。ちなみにここで言う馬介休餅マージシオービンとは馬介休マージシオー、つまり『バカリャウ』とも呼ばれる塩漬けにした鱈の切り身を混ぜ込んだジャガイモのコロッケの事であり、これもまたハオジアンの名物料理の一つに他ならない。

「糞、この黒んぼの大女め……」

 ややもすれば人種差別的な悪態を吐きつつ、慣れない手つきながらも馬介休餅マージシオービンを箸で摘まみ取った黄俊明ホァン・ジュンミンは、どうにかこうにか口へと運んだそれをむしゃむしゃと咀嚼した。そしてしっかりと噛み砕かれたジャガイモとバカリャウとをごくりと嚥下してみれば、その一部始終を見守っていた始末屋が彼に忠告する。

「よし、そうだ、それでいい。その調子で毎日毎食、少しずつでいいから必ず練習し続けろ。そうすればその内自然と、正しい箸の持ち方が身につく筈だからな」

「はいはい、分かったよ。毎日練習すりゃいいんだろ、ったく」

 他でもない始末屋に忠告されてしまった黄俊明ホァン・ジュンミンは、すっかり諦め切った表情と口調でもってそう言いながら、腹の底から絞り出すような深い深い溜息を吐いた。そしてそんな彼の隣に座る始末屋は咖哩蟹ガーリーシーの蟹をぼりぼりと殻ごと咀嚼し、ごくりと嚥下し終えると、手にしたレンゲを免治豬肉ミンチの皿に伸ばす。

「あら、これもなかなか美味しいじゃないの。ねえ、これは何と言う料理でしたっけ、始末屋?」

 始末屋とほぼ同時に皿に手を伸ばしたボニーが、レンゲで掬った免治豬肉ミンチを一口食べてからそう言った。

免治豬肉ミンチだ。豚挽き肉と賽の目に切ったジャガイモを醤油やオイスターソース、場合によってはカレー粉と一緒に炒めた、ここハオジアンの庶民の味だな。まあ、日本で言うところの肉じゃがみたいなものだ。米と一緒に食うと美味いぞ」

 そう言った彼女の言葉通り、始末屋は炊き立ての焗鴨飯ダックライスの上に免治豬肉ミンチをぶっかけてはレンゲで掬って口へと運び、その手は休む暇も無い。身長が優に2mを超えるその体格に相応しい豪快無比な食べっぷりは見る者を唸らせ、感嘆せしめる、まさに常人離れした見事な健啖家ぶりと言えよう。

「ごちそうさま」

 やがてテーブルの上に並べられていた全ての皿が空になり、安っぽいプラスチック製のコップに注がれた香濃奶茶ミルクティーをごくごくと一息に飲み干すと、深々と一礼しながら始末屋がそう言った。そして彼女は姿勢を正し、隣の席に座る黄俊明ホァン・ジュンミンの横顔を、まるで睨み付けるような視線でもってジッと見据える。

「おい俊明ジュンミン、貴様もちゃんと「ごちそうさま」と言え。食材と料理人に対する敬意を忘れるな」

「……ごちそうさま」

 渋々ながらそう言った黄俊明ホァン・ジュンミンの様子に満足した始末屋は、食堂のテーブル席から腰を上げた。

「おい店主、会計だ。現金で頼む。それと、バカリャウを一枚分けてくれ。勿論、その分の料金も払うから安心しろ」

 そう言った始末屋は現地通貨での会計を終え、注文した通りにバカリャウ、つまり塩漬けにした鱈の開き一匹分を受け取ると、残る二人と一頭を背後に従えながら食堂を後にする。

「それで始末屋、あなたはこれからダウンタウンに潜伏すると仰ってましたけど、今夜の宿は確保してあるのかしら?」

 食堂を後にし、ハオジアンの街の裏通りへと一歩を踏み出したところで、ボニー・パーカーが始末屋に尋ねた。そこで始末屋は、食堂での会計時に受け取ったバカリャウを生のままむしゃむしゃと齧りながら答える。

「宿は確保してある。しかし、予約したのは二人部屋一つだけだ。だからボニー、貴様は貴様で宿を確保しろ」

「成程ね、でしたらあなた方と同じ宿で部屋を探すか、仮に満室でしたら、近くで別の宿を探しましてよ? まあ何にせよ、その確保してある宿とやらに急ぎましょうか。さあ始末屋、案内してちょうだいな」

「勝手にしろ」

 そう言った始末屋は黄俊明ホァン・ジュンミンとボニー・パーカー、それに彼女が引き連れている正体不明の獣を背後に従えながら、当面の目的地である今夜の宿を目指して裏通りを歩き始めた。現在の時刻は既に深夜近く、寂れた夜の街には酔い潰れた労働者や行き場の無い貧民達がたむろしており、お世辞にも治安が良いとは言えない。そしてそんな裏通りをぞろぞろと連れ立って歩き続ければ、やがて新たな地区に足を踏み入れたのか街の雰囲気が様変わりし、人通りが増えると同時に妙にけばけばしい色のネオンサインを掲げる店が眼に付き始める。

「なあ始末屋、何かここら辺、ちょっと変じゃないか?」

 見慣れぬ街の雰囲気に、黄俊明ホァン・ジュンミンが違和感を訴えた。

「気にするな、只の色街だ。未だ子供の貴様には馴染みが無いだろうが、すぐ慣れる」

 やはりぶっきらぼうな口調でもって始末屋がそう言えば、どうやらそれが黄俊明ホァン・ジュンミンの気に障ったらしい。

「おい始末屋、僕を子供扱いするな! まあ確かに、僕はお前と違って未だ未だ背は低くて身体は小さいが、中身はもう立派な大人だ……」

 そこまで言い掛けたところで、不意に黄俊明ホァン・ジュンミンは言葉を失い、その眼は点になる。何故なら彼の視線の先、裏通り沿いの街灯の陰で豊満な乳房を惜しげも無く露出した半裸の女と、如何にも遊び人風のヤサ男とが濃厚なディープキスを繰り広げながらペッティングに励んでいたからだ。しかもよくよく周囲を見渡してみれば、ピンクや紫のネオンサインの光に照らし出された色街のそこここに半裸の女性が立ち並び、黄色い歓声を上げつつ道行く男性への客引き行為に余念が無い。

「な……」

 言葉を失った黄俊明ホァン・ジュンミンは口をぱくぱくさせ、客引きの女性達が惜しげも無く露出している豊満な乳房を凝視しつつ、その顔を羞恥と興奮でもって紅潮させる。

「どうした俊明ジュンミン、女の裸がそんなに珍しいか?」

 特にからかったり小馬鹿にしたりと言った風でもなく、純粋に素朴な疑問と言った塩梅でもって、塩漬けの鱈の切り身であるバカリャウをむしゃむしゃと齧りながら始末屋が尋ねた。

「そ、そんな事あるもんか! おおお女の裸ぐらい見慣れているに決まってんだろ!」

 尋ねられた黄俊明ホァン・ジュンミンはそう言って強がってみせるが、幼さを残すその顔は真っ赤に紅潮して眼は泳ぎ、もはや平静さを保ってはいられない。

「ねえねえ、そこの可愛い小さなお客さん、あたし達と遊んで行かない?」

「今ならたっぷりサービスしてあげちゃうんだから!」

 すると不意に、けばけばしいネオンサインを掲げた売春宿のショーウインドウの向こうから半裸の売春婦達が黄俊明ホァン・ジュンミンに声を掛け、一介の少年に過ぎない彼を大人の遊びに誘う。

「……」

 この誘いに対して頬を赤らめた彼が沈黙しながら眼を逸らすと、声を掛けた売春婦達はきゃあきゃあと黄色い歓声を上げながら愉快そうに笑い合い、初心うぶで純真な黄俊明ホァン・ジュンミンをガラス越しにからかった。

「おい貴様、どうした? 顔が真っ赤だぞ?」

「うるさい、うるさいうるさいうるさい! 僕を子供扱いするなってば!」

 隣を歩く始末屋の執拗な問い掛けに対して、まるで完熟トマトの様に真っ赤な顔の黄俊明ホァン・ジュンミンは尚も強がってみせるものの、その言葉にはまるで説得力が無い。すると始末屋は、決定的な一言を彼に尋ねる。

「なんだ貴様、もしかして、未だ童貞か?」

 この一言に、黄俊明ホァン・ジュンミンは完全にテンパってしまった。

「ぼ、ぼぼぼぼ僕が童貞だと? そそそそそんな訳無いだろ! ぼぼぼ僕は女に不自由しない、りりり立派な一人前の大人の男だ! 童貞なんかであるもんか!」

 黄俊明ホァン・ジュンミンはそう言って虚勢を張るが、その言葉が真実ではない事くらい、始末屋にはお見通しである。

「そうか、やっぱり貴様、童貞か。だったら良い機会だ、この際だから今夜これからこの街で、女を知って行け。そうすれば人としても男としても一皮剥けるし、何であれば、ちんこの皮も剥いてもらえるぞ」

「ち……」

 始末屋の口から発された下品な冗談ジョークに、思わず絶句した黄俊明ホァン・ジュンミンはその場で立ち竦んだ。しかしながら始末屋はそんな彼の意向を無視し、絶句したままの黄俊明ホァン・ジュンミンの襟首を強引に掴み上げると、半ば引き摺るような格好でもって彼をいざないながら色街の中心部へと足を向ける。

「何をするんだ始末屋! 放せよ、この手を放せってば!」

「いいから黙ってついて来い。これからいい所へ連れて行ってやろう」

 黄俊明ホァン・ジュンミンは必死で身を捩りながら抵抗するが、圧倒的な膂力の差の前ではそんな抵抗は何の意味も為さないし、また彼の言葉を始末屋は意に介さない。

「良し、この店でいいだろう」

 そうこうしている内に、やがてハオジアンの色街の中でもとりわけ華やかで賑やかな大通り沿いの一角で、そう言った始末屋は足を止めた。けばけばしいネオンサインの光に照らし出された大通りにも客引きの売春婦や酔客がどっと溢れ、行き交う人々のがやがやと言う喧騒と人いきれが街中の至る所を隙間無く埋め尽くし、まさに快楽と悦楽の街ハオジアンの面目躍如と言ったところである。そして彼女に襟首を掴まれたまま、力尽くでもって無理矢理連れ回された黄俊明ホァン・ジュンミンもまた足を止めると、その顔を上げた。するとそこには一際豪奢な造りの、伝統的なハオジアン様式の屋敷が聳え立つ。

「ここは……?」

 足を止めた始末屋と黄俊明ホァン・ジュンミンの眼前に聳え立つその屋敷は、やはりピンク色のネオンサインによって『黒猫館ヘイマオグン』との屋号が掲げられた一軒の高級娼館、つまり富裕層御用達の売春宿であった。

「おい俊明ジュンミン、貴様、今からここで童貞を捨てて来い」

「ええぇぇ?」

 俊明ホァン・ジュンミンが頓狂な声を上げながら、眼をぱちくりさせて困惑し、狼狽する。しかしながらそんな彼の意向など意に介さず、始末屋は高級娼館である『黒猫館ヘイマオグン』の扉を力任せに蹴り開けて、ずかずかと店内へと足を踏み入れた。勿論彼女に襟首を掴まれたままの黄俊明ホァン・ジュンミンもまた、強制的に入店せざるを得ない。

「うわああああぁぁぁぁ……」

 始末屋に襟首を掴まれたまま高級娼館の店内へと足を踏み入れてみれば、そこは淫猥な雰囲気を醸し出すピンク色の照明に照らし出されたランジェリー姿の娼婦達でごった返しており、半ばパニック状態に陥った黄俊明ホァン・ジュンミンはぐるぐると眼を回しながら声にならない悲鳴を上げた。彼が足を踏み入れたロビーには、煙草のヤニと甘ったるい香水の香り、そして熟れた女の体臭がもうもうと充満している。

「おい、そこの貴様。ここの店主を呼んで来い」

「は、はい!」

 始末屋が高級娼館のロビーで客待ちをしていた適当な娼婦の一人を指差し、高圧的かつ威圧的な口調でもって店主を呼んで来るように命じると、その娼婦は店の奥へと姿を消した。すると暫しの間を置いてから、高級娼館『黒猫館ヘイマオグン』の女店主が姿を現す。

「あたしを呼んだのは、あんたかい?」

 そう言いながら店の奥から姿を現したのは、やはり煽情的なランジェリー姿の、乳も尻も豊満でありながら腰の括れはしっかりと維持した見事なプロポーションの妙齢の女性であった。そしてその妙齢の女性は古めかしい煙管キセルでもって煙草を吸いつつ、まるで怖気付いた様子も見せないまま、彼女よりも頭二つ分は長身の始末屋に詰め寄る。

「それであんた、ここら辺では見ない顔だけれども、あたしに何の用だい? 先に言っておくが、面倒事は御免だよ?」

 妙齢の女性はそう言うと、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋の顔に向かってふうっと煙草の煙を吹き掛けた。

「別に、面倒事に巻き込むつもりは無い。これからこいつが、ここで童貞を捨てる。だから、この店で一番若くて気立ての良い娘をあてがってやってくれ。勿論、充分な報酬は払うつもりだ」

 煙草の煙を吹き掛けられた始末屋は動じる事無くそう言うと、彼女が着ているトレンチコートのポケットから丸めて輪ゴムで結わえられた札束を数束ばかり取り出し、それを妙齢の女性に手渡してから胸を張る。

「……は、あは、あはははは!」

 するとこの高級娼館の店主であるランジェリー姿の妙齢の女性は、この上無いほど愉快そうな表情をその顔に浮かべつつ、華奢でありながら引き締まった喉から高らかな笑い声を漏らし始めた。

「ああ、こいつは傑作だよ! こんなに堂々とした態度でもって童貞を捨てに来た奴なんて、あたしは生まれてこの方聞いた事が無いね! ああ、本当に傑作だ、気に入ったよ! だからあたしに任せておきな、背の高いお嬢さん! あんたの連れのその坊やに、この店でもとびきり最高の娘をあてがってあげるからさ!」

 愉快そうにそう言った店主の妙齢の女性は、この高級娼館の番頭らしき男性店員を呼び付けると、高圧的な命令口調でもって命じる。

「おいお前、まことを呼びな! 何? 別の客の相手をしている最中だって? ああ、もう、構わないからさっさと呼び戻すんだよ! 極上で最上級のお客さんが、手ぐすねを引いてお待ちだってな!」

 妙齢の女性がそう言って命じると、番頭の男性は店の奥へと姿を消し、後には始末屋と黄俊明ホァン・ジュンミンと店主の妙齢の女性、それに事の成り行きを見守っていた娼婦達だけが取り残された。そして妙齢の女性は再び煙管キセルの煙をふうっと吹き出しつつ、始末屋に語り掛ける。

「あんた、面白い女だね。これから童貞を捨てるその坊やは、あんたの弟か何かかい?」

「いや、違う。ちょっとばかり縁があっただけの、赤の他人だ」

「そんな赤の他人の世話を焼くだなんて、やっぱりあんたは面白い女だ。ああ、申し遅れたけど、あたしはマダム黒猫ヘイマオ。この辺りで何か困った事があったら、あたしを頼るといいよ。これでもあたしは、この街の顔役の一人だからね」

「それは助かる」

 そう言った始末屋は不愛想を絵に描いたようなその表情を崩さなかったが、マダム黒猫ヘイマオと名乗った妙齢の女性は煙管キセルをぷかぷかと吹かしながら、愉快そうにかんらかんらと笑った。

「おい、ちょっと待て始末屋! 僕はこんな事をしてくれだなんて頼んでないぞ!」

 始末屋に襟首を掴まれたまま、無駄だと分かっていても、じたばたと手足をばたつかせて必死の抵抗を試みる黄俊明ホァン・ジュンミン。すると煙管キセルを咥えたマダム黒猫ヘイマオが彼に顔を寄せ、真っ赤なルージュが引かれた唇を彼の頬に寄せつつ、にやにやとほくそ笑みながら意味深な口調でもって忠告する。

「いいかい坊や、あんたは本当に幸運な男なんだから、そんな事言わずに楽しんでお行きなさいな? これからあんたの相手をするまことはね、うちの店でも最高に若くて可愛い上に、テクニックの方も抜群の百年に一人の逸材なんだからね? こんないい娘と寝られる機会なんてそうそう無いし、ましてや童貞を捨てさせてもらえるだなんて、光栄に思わなくっちゃ損だよ?」

「な……」

 マダム黒猫ヘイマオの言葉を耳にした黄俊明ホァン・ジュンミンはその顔を更に紅潮させ、充血し切った鼻腔粘膜からは羞恥と興奮によって今にも鼻血を噴き出しそうだ。きっと彼の頭の中では、その想像力が及ぶ限りの淫猥で妖艶な空想が繰り広げられているのだろう。そして黄俊明ホァン・ジュンミンとマダム黒猫ヘイマオとが顔を突き合わせていると、やがて売春婦でごった返す黒猫館ヘイマオグンのロビーに、一人の少女が姿を現した。

「マダム、お呼びですか?」

 そう言いながら姿を現した少女は布面積の少ない黒いレースのランジェリーだけを身に纏い、短く切り揃えた艶やかな黒髪と真っ赤なセルフレームの眼鏡が特徴的な一人の娼婦であり、レンズの奥のその眼は生きている事が嬉しくて仕方が無いとでも言いたげな生の喜びに満ち溢れている。

「ああ、まこと、待ってたよ。あんたに新しいお客さんだ。久々の上客だから、たっぷりサービスしてやんな」

 マダム黒猫ヘイマオが顔を上げ、彼女がまことと呼んだランジェリー姿の娼婦に向かってそう命じた。すると娼婦のまことはその可愛らしいお尻を振りながら彼女の元へと歩み寄り、始末屋を見上げる。

「どうも、まことちゃんです! それでこちらの大きなお姉さんが、あたしの新しいお客さんですか?」

「いや、違う。貴様が相手にするのは、あたしじゃない。こっちのこの男の童貞を、貴様のまんこでもって捨てさせてやってくれ」

 客と勘違いされた始末屋がそう言えば、彼女が襟首を掴んでいる黄俊明ホァン・ジュンミンへと、まことは視線を移した。

「へえ、こっちの可愛らしい坊やが、今夜のあたしのお客さんなんだ?」

 そう言ったまことは膝を曲げて身を屈め、始末屋に襟首を掴まれたままの黄俊明ホァン・ジュンミンの真っ赤に紅潮した幼さを残す顔を、至近距離からまじまじと見つめる。

「うふふ、照れちゃって可愛い! それでキミ、今は未だ童貞なんでしょ?」

「そうだよ、童貞だよ! 童貞で何が悪い!」

 開き直った黄俊明ホァン・ジュンミンはそう言って強がってみせるが、強がれば強がるほど彼の周囲を取り巻く娼婦達はきゃあきゃあと黄色い歓声を上げながら調子に乗るばかりで、むしろ彼の可愛らしさを強調するに過ぎない。

「うふふ、本当にキミ、可愛いね! それじゃあこれからあたしがキミをたっぷり愛してあげちゃうから、出すものたっぷり出して、腰が抜けるまで楽しんで行ってくれると嬉しいな!」

 娼婦のまことはそう言うと、彼女の柔らかくも可愛らしい唇を、黄俊明ホァン・ジュンミンの唇に重ねた。そしてそのまま、ねっとりと湿った舌を彼の口蓋内へとおもむろに滑り込ませる。生まれて初めてのディープキスの感触に、幼い黄俊明ホァン・ジュンミンは抗えない。

「ああ……」

 ねっとりとした舌と舌が絡み合うディープキスの感触によって黄俊明ホァン・ジュンミンの脳が蕩けた瞬間を見計らい、始末屋は彼の襟首を掴み上げていた手を放した。ここまで来れば、たとえどれほど強靭な肉体や精神力を誇る屈強な男であろうとも、性の快楽の虜である事を彼女は熟知している。

「さあ俊明ジュンミン、存分に楽しんで来い」

「う、うん……」

 そう言った黄俊明ホァン・ジュンミンは娼婦のまことに促されるまま、高級娼館である黒猫館ヘイマオグンの店の奥のプレイルームへと姿を消した。これから一時も経たない内に、彼はまことの手によって童貞を喪失するに違いない。

「本当にこれで良かったのかい、背の高いお嬢ちゃん?」

 黄俊明ホァン・ジュンミンとまことが店の奥へと姿を消したのを確認したマダム黒猫ヘイマオが始末屋に尋ねると、始末屋は淡々とした口調でもって、事も無げに答える。

「ああ、そうだ。男の童貞なんてものは、若い内にさっさと捨ててしまうに限る。男と言うものは、女の性器に対する幻想を捨て去ってからが本当の人生だ」

「辛辣だねえ。しかし、それもまた道理だ」

 煙管キセルを咥えたマダム黒猫ヘイマオはそう言って、トレンチコートに身を包んだ始末屋と肩を並べた。すると始末屋は不意に姿勢を正し、黒い革靴を履いた足の踵を合わせると、黒猫館ヘイマオグンのロビーの外へと足を向ける。

「ここは煙草の匂いが充満していて、正直言って不愉快だ。あたしは外で待たせてもらおう」

「ああ、好きにしな」

 そう言ったマダム黒猫ヘイマオに見送られつつ、始末屋はロビーの扉を蹴り開けると、多くの売春婦や酔客でもってごった返す黒猫館ヘイマオグンを後にした。するとそんな始末屋の前に、今度は店の外で待ち抱えていたボニー・パーカーが、正体不明の獣を従えながら立ちはだかる。

「どう言うつもりですこと、始末屋?」

「どう言うつもりとは、どう言う意味だ?」

 問い質すボニーに、始末屋は事も無げに問い返した。

「保護対象でしかない少年の下の世話にまで気を回すだなんて、執行人エグゼキューターの職務の範疇を逸脱していましてよ?」

 ボニーはそう言うが、始末屋は意に介さない。

「保護対象の処遇は、保護した者に決定権が移譲される。箸の持ち方がおかしければこれを矯正するし、童貞を捨てる必要があると判断すれば、女を世話してやるまでだ。何かおかしな点があるか?」

「ええ、そうね。確かにあなたの言う通り、取り立てておかしな点は無くってよ? だけど女のあなたが男のために娼婦を世話してやるだなんて、始末屋、あなたも相当変な女でしてよ?」

「そうか。まあ、そうかもな」

 ボニーの問い掛けに返答した始末屋はそう言うと、裏通りの食堂で分けてもらったバカリャウの残りをむしゃむしゃと齧って腹を満たす。彼女ら二人の連れである黄俊明ホァン・ジュンミンが童貞を喪失するまで待ちぼうけを食わされると言うのも、何とも不思議な気分だ。

「……ねえ、始末屋」

「何だ?」

「あなたがさっきから召し上がっていらっしゃるその魚、それ、美味しいのかしら?」

 ボニーがそう言うと、始末屋は彼女に向かってバカリャウを差し出し、喫食を促す。

「食うか?」

 そう言って喫食を促す始末屋に、ボニーは差し出されたバカリャウを手に取ると、少しばかり躊躇してからおもむろに噛り付いた。そしてホオジロザメを髣髴とさせる真っ白なギザ歯でもって噛み切ったそれを二度三度と咀嚼したかと思うと、げえげえとえずきながら、地面に向かってぺっと吐き出す。

「何ですの、これ? 塩っ辛くて生臭くって、とてもじゃありませんけど、人間の食べ物とは思えません事よ?」

「まあ、普通は生のまま食うもんじゃないからな」

 やはり事も無げにそう言った始末屋は、口内のバカリャウの破片をぺっぺと地面に吐き出し続けるボニー・パーカーを他所に、残りのバカリャウをむしゃむしゃと食べ切ってしまった。塩漬けにした鱈の開きであるバカリャウは、流水で塩抜きした後に味付けや風味付けのために少量だけ料理に加える物であって、そのままむしゃむしゃと食べる物ではない。

「あなた、やっぱり相当変な女ね」

「その評価は聞き飽きた。次はもっと、気の利いた事を言え」

 そんな益体も無い遣り取りを繰り返しながら、ここハオジアンの街きっての高級娼館である黒猫館ヘイマオグンの店先で待ち続ける事、実に一時間半余り。やがてその黒猫館ヘイマオグンのロビーへと続く正面玄関の扉が開いたかと思えば、虚ろな眼をした黄俊明ホァン・ジュンミンが姿を現し、よろよろと覚束無い足取りでもって店を後にする。

「あら俊明ジュンミン、早かったじゃないの。もう童貞は捨て終えたのかしら?」

 ボニーがそう言って問い質すが、心ここにあらずと言った様子の黄俊明ホァン・ジュンミンは彼女の声が聞こえていないらしく、その口からの返事は無い。

「その様子なら、どうやら順調に事を終えたようだな」

 そう言った始末屋は一歩前に進み出ると手を伸ばし、今にも昏倒してしまいそうな黄俊明ホァン・ジュンミンの身体を支え、その肩を抱いた。彼の肩を抱く始末屋は眉一つ動かさず、冷静沈着を旨とする彼女はその表情も姿勢も微動だにしない。すると始末屋に肩を抱かれたままの黄俊明ホァン・ジュンミンを背後から追って来たランジェリー姿のまことが、彼の耳元にその可愛らしい唇を寄せつつ、至極上機嫌な表情と口調でもって囁き掛ける。

「ねえ坊や、キミもあたしの身体と女の秘密の穴でもって、存分に楽しんで行ってくれたかしら? あたしはキミの童貞喪失の瞬間に立ち会えて、本当に心から嬉しかったんだからね? それじゃあまたこのお店を訪れる機会があったら、次も是非、あたしを指名してちょうだいよ? その時もまた、あたしのテクニックでもって、うんとサービスしてあげちゃうんだから!」

「……うん……」

 女体による童貞喪失がよほど衝撃的だったのか、やはり心ここにあらずと言った様子の黄俊明ホァン・ジュンミンはそう言って頷きながら、熱っぽい視線でもってまことの瞳を見つめ返すのがやっとだった。するとお別れの挨拶代わりに、一際朗らかな笑顔をその顔に浮かべたまことは黄俊明ホァン・ジュンミンの唇に自らの唇を重ね、熱い口付けを交わし合う。

「それじゃあまた来てね、坊や」

「また来ておくれよ、坊やも、背の高いお嬢ちゃんも」

 笑顔と共にそう言って手を振るまこととマダム黒猫ヘイマオに見送られながら、始末屋と彼女の肩を借りた黄俊明ホァン・ジュンミン、それに楽器ケースを背負って正体不明の獣を連れたボニー・パーカーの三人と一頭は黒猫館ヘイマオグンを後にした。そして数百mばかりも夜の裏通りを歩き続け、やがてハオジアンの街の色街からダウンタウンへと至る頃、ようやく黄俊明ホァン・ジュンミンが口を開く。

「……凄かった……」

 すっかり精気が抜け切った彼は下半身に力が入らず、ふわふわと雲の上を歩いているかのような足取りをなんとか維持しつつ、そう言うのがやっとの状態であった。黒猫館ヘイマオグンきってのテクニシャンだと言うまことが口にした、彼女なりの謳い文句であろう「出すものたっぷり出して、腰が抜けるまで楽しんで行ってくれると嬉しいな」と言う口上も、あながち比喩ではないらしい。

「そうか、そんなに凄かったか」

 始末屋がそう言うと、興奮冷めやらぬ様子の黄俊明ホァン・ジュンミンは、熱っぽく語り出す。

「……うん、凄かった。本当に、本当に凄かった。……なあ始末屋、世の中に存在する全ての女はあんなにも柔らかくていい匂いがして、あんなにも温かくて気持ちのいい穴を股に隠し持っているもんなのか?」

「いや、そうとも限らん。世の中にはあたしみたいに身体が固くて臭い女も居るし、まんこが気持ちいいと言う保証も無い。今夜、貴様の相手をしてくれたあのまこととか言う女は、特別だと思え」

「そうなのか……」

 ぽおっと熱に浮かされた表情の黄俊明ホァン・ジュンミンはそう言うが、ややもすれば舌がもつれて呂律が回らず、自分が何を言っているのかも理解し切れていないような有様であった。そしてすっかりのぼせ切ってしまった彼に肩を貸しながら、ボニー・パーカーと正体不明の獣を背後に従えつつ、始末屋はハオジアンの街の裏通りを黙々と歩き続ける。すると歩き始めてからおよそ二十分後、先程までの色街とは比較にならないほど寂れたダウンタウンの一角に建つ、お世辞にも立派とは言えない一棟のビルディングの前で彼女は足を止めた。

「ここが今夜の宿だ」

 足を止めた始末屋がそう言いながら見上げるビルディングは、客室のベランダの鉄柵がぼろぼろに錆び、雨水による染みだらけの外壁のコンクリートが何カ所も剥げ落ちているような年代物の安ホテルである。

「ここが今夜の宿ですって? こんなボロ屋に泊まるくらいなら、野宿した方がマシではないかしら?」

「だったら、好きにしろ。あたしは貴様らを引き止める気は無いし、この宿に泊まると言う事実を訂正する気も無い。貴様がここに泊まるか否かは、貴様自身が決める事だ」

「ぐぅ……」

 始末屋からの鰾膠にべも無い返答に、ボニー・パーカーは唇を噛みながら口篭もるばかりで、ぐうの音も出ない。

「ええ、ええ、それでは承知しましてよ! このボロ屋に、泊まってみせてやろうじゃありませんの!」

 半ばヤケクソ気味な口調でもってそう言ったボニーは、楽器ケースを背負って正体不明の獣を背後に引き連れながら、先陣切って安ホテルの店舗内へと足を踏み入れた。

「……いらっしゃい」

 今時自動ドアですらない扉を押し開けて安ホテルのエントランスに足を踏み入れてみれば、見るからにやる気の無さそうなフロント係の男がぼそぼそとくぐもった声でもってそう言って、始末屋ら一行を出迎える。

「今夜、ツインの部屋を予約した者だ。案内を頼もう」

 フロントに歩み寄った始末屋がそう言って、部屋への案内を要請した。すると彼女とフロント係の男との間にボニー・パーカーが割り込み、自らの要望を告げる。

「その前に、このあたくしを要望を聞き入れてくださるかしら?」

「……何だい?」

「このあたくしにも、ツインの部屋を一つ用意してちょうだいな。出来ましたらこの大女と同じ階の、隣の部屋を用意してくださるかしら? それと、この子と一緒に泊まる事を許可しなさい。文句は言わせなくてよ」

 フロント係の男に向かってそう言ったボニーは彼女が言うところの『この子』、つまり正体不明の獣の背中をぱんぱんと軽く叩いて、その存在を知らしめた。

「……別に、犬くらい連れ込んでも構わんさ。……さあ、こっちだ」

 やはりやる気の無さそうなフロント係の男はそう言うと、鍵を二つ手にしながら階段の方角へと足を向け、始末屋ら一行を上階へと案内する。

「……ほら、この部屋と、隣のその部屋だ。シャワーは深夜零時までに浴びてくれ。それ以降は、ボイラーの火を落とす」

 如何にも面倒臭そうにそう言ったフロント係の男は始末屋とボニーのそれぞれに部屋の鍵を手渡すと、ぼそぼそと消え入りそうな声でもって「ごゆっくり」とだけ言い残し、その場から立ち去った。後には只、始末屋を筆頭とした三人と一頭だけがぽつんと取り残される。

「一体何なのかしら、あの態度は? こちらはせっかく泊まりに来てさしあげたお客様だと言うのに、随分のやる気の無いスタッフじゃなくて?」

「そう言うな、ボニー。この辺りの貧民街に暮らしている人間の態度など、概ねあんなものだ」

 憤懣遣る方無いボニーとは対照的に、特に不平不満を漏らす事無くそう言った始末屋。彼女はフロント係の男から受け取った鍵でもって解錠した扉を蹴り開け、安ホテルの三階の廊下の突き当たりの部屋へと足を踏み入れると、室内の様子を確認する。

「ふむ」

 足を踏み入れた客室は寝室とバスルームのみの簡素な造りで、壁は雨漏りによる染みだらけで黴臭い匂いが充満し、悪い意味で期待を裏切らない安普請ぶりであった。

「なんて酷い部屋なのかしら! こんな部屋で夜を明かすだなんて、あたくしには耐えられなくてよ!」

 客室の様子を確認したボニーはそう言って憤るが、やはり始末屋は眉一つ動かさず、彼女を鰾膠にべも無くあしらう。

「貴様はついさっき、このボロ屋に泊まってやろうと言った筈だ。あれは虚言か?」

「ぐぅ……」

 痛い所を突かれたボニー・パーカーは再び口籠り、やがて深い溜息を吐きながら観念すると、廊下の突き当たりから二つ目の彼女の客室にすごすごと引き下がった。そして始末屋の客室には彼女と黄俊明ホァン・ジュンミンの二人だけが取り残され、今尚心ここにあらずと言った様子で呆けたままの黄俊明ホァン・ジュンミンに、始末屋は発破を掛ける。

「おい俊明ジュンミン、そろそろ自分の足でしっかり立って背筋を伸ばし、姿勢を正してしゃんとしろ。いくら童貞喪失が気持ち良過ぎたからと言って、いつまでも腑抜けたままでは男の面子が丸潰れだぞ」

「え? ああ、うん……」

 気の無い返事を口にした黄俊明ホァン・ジュンミンは自力でもって立ち上がろうとするが、その足取りはふらふらとして覚束無く、ベッドの上に敷かれたマットレス目掛けて尻餅を突いてしまった。

「その様子だと、正気を取り戻すまでは未だ未だ時間が掛かりそうだな。おい俊明《ジュンミン、貴様、先にシャワーを浴びて頭を冷やして来い。ほら、早くしろ」

 腑抜けた様子の黄俊明ホァン・ジュンミンに呆れ返った始末屋は、そう言ってバスタオルを投げ渡すと、バスルームを指差して彼に入浴を促す。

「うん……分かった……」

 始末屋に指示された通り、バスタオルを手にした黄俊明ホァン・ジュンミンはベッドから腰を上げ、安ホテルの客室のバスルームへと姿を消した。すると彼がシャワーを浴びる水音をBGMとして聴きながら、寝室に残された始末屋はトレンチコートの懐から数振りの手斧と携帯用のアーカンサス砥石を取り出し、それらの手斧を黙々と研ぎ始める。ここで言うアーカンサス砥石とは、米アーカンソー州の山岳地帯で採掘される、硬く上質な天然砥石の総称だ。大事な商売道具である手斧の刃が鈍っていては円滑な業務の遂行に支障を来すので、丹念かつ入念に、剃刀の様な鋭利さを保つよう研ぎ上げる。

「ふう」

 やがて始末屋が用意した全ての手斧が研ぎ上がる頃、寝室からバスルームへと続く扉が開け放たれ、下着姿の黄俊明ホァン・ジュンミンが濡れた頭髪をバスタオルでもってがしがしと拭きながら姿を現した。熱いシャワーを浴びた彼の全身からは、もうもうと湯気が湧き立っている。

「よし、次はあたしがシャワーを浴びて来る。何か身の危険を感じたなら、すぐに報告しろ」

 そう言った始末屋はおもむろにトレンチコートを脱ぎ、更に真っ赤なネクタイを解いて黒い三つ揃えのスーツとワイシャツも脱ぐと、すぐ隣に黄俊明ホァン・ジュンミンが立っていると言うのに黒いレースの下着までも脱ぎ始めた。当然の事ながら、あまり大きくはない彼女の乳房も茶褐色の乳頭も、ぷっくりと膨らんだ恥丘に生えた陰毛すらも露になる。

「おい始末屋、何やってんだ! こんな所で服を脱ぐな!」

 当然ながら初心うぶで純真な黄俊明ホァン・ジュンミンは困惑し、顔を背けて眼を逸らすが、彼の眼の前で全裸になっても始末屋は動じない。

「なんだ貴様、せっかく童貞を捨てさせてやったと言うのに、未だ女の裸を見慣れていないのか?」

 臆面も無く全裸になった始末屋はそう言いながら、脱ぎ終えた衣服と下着を寝室に残したまま扉を蹴り開け、バスルームの中へとその姿を消した。そして彼女がシャワーを浴びている間、寝室に取り残された黄俊明ホァン・ジュンミンは床に放置されたままの始末屋の下着にちらりと眼を遣り、頬を赤らめる。いくら童貞を捨てたとは言え、狭い室内で女性の脱ぎたての下着と二人きりにされる事は、思春期に足を踏み入れたばかりの少年には至極刺激的であった。

「待たせたな」

 始末屋がバスルームに姿を消してからおよそ十分後、シャワーを浴び終えた彼女は再び全裸のまま姿を現し、その常人離れして健勝なる肉体を惜しげも無く晒す。

「だから、服を着ろってば!」

「気にするな。あたしは気にしない」

 その言葉が嘘ではない事を証明する意図があってか否か、頬を赤らめながら抗議する黄俊明ホァン・ジュンミンの眼の前で堂々と身体を拭いた始末屋は、濡れたバスタオルを客室備え付けの椅子の背もたれに引っ掛けてから下着を手に取った。そして黒いレースのショーツだけを身に着けるとベッドに身を預け、薄っぺらい安物の毛布に包まり、就寝の準備を終える。

「いいか、あたしはもう寝る。貴様もやるべき事が無いのなら、電気を消してとっとと寝ろ」

 やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、安物の毛布に包まったまま壁の方を向き、そっと眼を閉じて就寝の体勢へと移行した。そこで黄俊明ホァン・ジュンミンもまた客室の照明を落とすと、彼のベッドの上に敷かれたマットレスに身を横たえて毛布に包まるが、眼を閉じて呼吸を整えてもなかなか寝付けない。意識を自分の内側に向ければ向けるほど童貞喪失の瞬間の女体の感触が脳裏に蘇り、今にも鼻血が噴き出さんばかりに興奮すると同時に、股間の男性器が痛いほど勃起してしまう。

「……なあ、始末屋?」

 やがて我慢が限界に達した頃、寝返りを打つ度にぎしぎしと音を立てて軋むベッドの上の黄俊明ホァン・ジュンミンは、そっと囁くような小さな声でもって始末屋の名を呼んだ。しかしながら始末屋からの返事は無く、照明が落とされた真っ暗な客室は静寂に包まれる。

「始末屋、もう寝てるのか?」

「……何だ、俊明ジュンミン?」

 再びの呼び掛けに、始末屋は眼を開けた。

「どうしよう、僕、眠れないんだ」

「……眼を閉じて呼吸を整え、何も考えるな。そうすれば、じきに眠れる」

「僕だってそうしたいんだけど、どうしても眼を閉じたら、あのまことって女の子の事ばかり思い出しちゃうんだよ!」

 股間の男性器をがちがちに勃起させた黄俊明ホァン・ジュンミンはそう言うと、もじもじと気恥ずかしそうに肩を竦めながら、始末屋に懇願する。

「なあ始末屋、僕もそっちのベッドでお前と一緒に寝てもいいか?」

「……好きにしろ」

 始末屋の了解を得た黄俊明ホァン・ジュンミンは彼のベッドから起き出し、始末屋のベッドの脇まで移動すると、少しばかり躊躇した後に彼女のベッドの空いているスペースにその身体を潜り込ませた。すると始末屋もまた寝返りを打ってこちらを向き、すぐ隣で眠る黄俊明ホァン・ジュンミンを抱き締めるような格好になる。

「どうした俊明ジュンミン、そんなに女の身体が恋しくなったのか?」

「ううん、その、自分でも良く分からないんだ。とにかく今は、誰かに抱き締めていてもらわないと耐えられないと言うか、下半身がじんじんじんじん疼いちゃって仕方が無いんだよ!」

「それはきっと、貴様が生身の人間の愛情、それも肉欲を伴った本能的な愛情に目覚めたと言う事だ。だがそれは、決して恥ずべき事ではない。偉そうな御託を並べるばかりの頭でっかちな知識人に惑わされる事無く、この世に生まれ落ちた一頭の獣としての本能的な欲望を尊重し、その衝動を決して忘れるな」

 そう言った始末屋は、一つのベッドの上で一枚の毛布を共有しながら同衾した少年の小さく痩せた身体を、ギュッと抱き締めた。すると彼女に抱かれた黄俊明ホァン・ジュンミンは、彼自身の身の上話を口にし始める。

「こんな風にして他人と一つのベッドで眠るのは、生まれて初めてだ」

「なんだ貴様、親と一緒に寝た事も無いのか?」

「ああ、そうとも。だって、僕が物心ついた時にはもう母親は死んでしまっていたんだから、仕方が無いじゃないか。僕の母親はお爺様の妾で、だから母親の死後に養子としてお爺様に引き取られた僕は、正確にはお爺様の孫じゃなくて息子なんだよ。だけどお爺様は高齢だったから、僕と一緒に寝てはくれなくて……」

 寂しげな口調でもってそう言った黄俊明ホァン・ジュンミンを、始末屋はより一層の力を込めてギュッと抱き締めながら、そっと囁くようにな声でもって「そうか、それは辛かったな」と呟いた。すると何を思ったのか、黄俊明ホァン・ジュンミンは一念発起し、ベッドの上に横たわったまま宣言する。

「よし、決めたぞ! 僕は今よりもっともっと大きくなってホァン財閥の次期会長に就任したら、あのまこととか言う女を嫁に貰うんだ! そして始末屋、お前も妾としてうちで養ってやるから、そうすればもうこんな危険な仕事はしなくて済むぞ!」

 一体何を担保にして二人の女を嫁と妾に貰うつもりなのかは分からないが、とにかくそう言って力強く宣言した黄俊明ホァン・ジュンミンは、幼さの残るつぶらな瞳をきらきらと輝かせた。だが始末屋は、そんな彼の夢語りに水を差す。

「そうか、それは良かったな。しかし残念ながら、あたしは今の生活を改めたり、今の仕事を辞めたりするつもりは無い。だから、貴様の妾にはなれん」

「どうして? どうしてそんな危険な仕事を続けたいの? いや、そもそもどうして人を殺すような仕事に就いたの?」

「あたしは、これ以外の仕事を、そして生き方を知らない。俊明ジュンミン、貴様と違って家も親も、学業も人脈も、何の資産も持たずに生まれて来たあたしが唯一才能を見出されたのが、破壊と殺害を生業とする今の生き方だからな」

「そうなのか……」

「そうだ」

 やはり冷静沈着を旨とする始末屋らしく、ぶっきらぼうな口調でもってそう言うと、彼女は同衾する黄俊明ホァン・ジュンミンの身体を優しく抱き締めた。そして始末屋の体温と体臭に安心した黄俊明ホァン・ジュンミンの勃起していた男性器はゆっくりと萎え始め、また同時に、急激な睡魔に襲われた彼は夢の世界へといざなわれる。

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