終章

さよならのかわりに

 宴のさんざめきでナディアは目を覚ました。


「起きたか」

「……ジャミール」


 薄暗い部屋。広い寝台の上で寝返りをうつ。片耳だけのイヤリングがカチャリと存在を主張する。

 見上げた天蓋からは幾重もの薄布が垂れ、冷たい夜風にはかなく揺れている。


「ここは……」


 寝具はふかふかで、焚き染められた香の良いかおりがした。短くも深い眠りだったようで、頭も体もすっきりとしている。


「北の宮の、あなたの寝室さ。起きられそうか? 皆が、首を長くしてあなたを待っている」


 ジャミールに手を引かれ身を起こす。何重にも重ねられた金の腕輪が、しゃりんと澄んだ音をたてた。

 どうやら寝ているあいだに身体は清められ、ぼろぼろにしてしまった女官服の代わりに、妃としての正装タウブに着替えさせられたようだ。


「みんな、って?」

「みんなさ。俺たちのために宴席を設けてくれるそうだよ」


 そう言うジャミールも、完璧な王子様の姿だった。

 艶めくハリールのブラウスの胸元をあけ、黒地に金と銀糸を織り交ぜた刺繍のベストを纏い、夜でも輝きを失わない金の髪をゆるくターバンでまとめ、宝石のブローチで留めている。男らしく、けれど上品な装い。


 ──似合っている。とても素敵だ。


 ぼうっと見惚れていると、「ナディア?」と彼が心配そうにのぞき込んでくる。


「だ、大丈夫、起きてるわ。宴って、なんの」

「行けばわかるさ」


 ジャミールは面白そうに笑って、ナディアを引っ張った。


「ちょ、ちょっと、ジャミール」


 階下から聴こえる、ウードとカーヌーンの陽気な旋律。女たちの歌声に誘われるように、二人は広間へと向かった。


「わぁ……」


 夜であることを忘れるほど光の満ちた部屋で、着飾った侍女や宦官らが演奏し、歌い、踊っている。甘い果実の香り、こうばしい料理のにおい。ナディアはあっけにとられて、部屋の入り口にぽかんと立ち尽くした。


「ナディア様! やっと目覚めましたの、最後までお寝坊さんねぇ」

「みなさん、主役の到着ですよ。さぁさ、召し上がって、王子、じゃなかった、ジャミール様こちらへ」


 広間の中央に引っ張り出されたジャミールとナディアの前に、あれよあれよと豪勢な食事が並ぶ。


「カ、カミリヤ、これは一体……?」

「いいからいいから」

「これはすごいな。ありがとう、いただこう」

「ええ、たくさん召し上がってください。さ、ナディア様も」


「ああ、ナディア様とジャミール様が一緒に並んでおられる! やっとこの目で見られましたわぁ」

「これが最初で最後なんて、まったく、つまらないわねぇ」

「今夜は最高にお美しいですわ、ナディア様。目の醒めるような赤色のドレスが良くお似合いで。ジャミール様のお隣にいらっしゃると、ますます素敵」


「ほら貴女たち、羽目を外しすぎないで。お食事を取り分ける手はどこへやってしまったの?」

「はぁい」

「あ、あの、カミリヤ。カーラとハーディンはどこ……? 大丈夫なの? どうなったの?」


 手際よく給仕をするカミリヤはほんの一瞬手を止めたが、にっこりと微笑むとまた手元に視線を戻した。


「ご心配なく。彼らは私の伝手で城下に逃がしました。男のほうは、まだしっかりとは動けないようでしたので、何日か療養が必要でしょう。かつての主人を頼って、城下町の商隊に身を隠すようですよ」


「商隊……もしかして、お父様の?」

「おそらく、そうだろう。旦那様は首都にも小さなお屋敷を持っておられる。義兄上とカーラだけであれば、うまく匿ってくれるだろう」

「ああ、お父様、ご無事なのね!」


 ナディアはほっと胸をなでおろした。ジンニーヤの水鏡で見た悪夢がただの虚像だとわかった今でも、やっぱり少し不安だったのだ。

 ひとつ、ふたつと憂いがなくなると、出された料理に手をつける気になる。厚手の陶器に入った煮込み料理を引き寄せると、たまらずくんくんと鼻を鳴らした。


「ああ、良い匂い。おいしそう! 私、お肉が好きになったわ。この煮込みは、柔らかくて」

「牛すじ肉の煮込みは、マジャラ宮の代表的な宮廷料理ですのよ」

「そうなのね、最近も似たようなものをどこかで食べたわ。……たしか……そう、ジャミールのお屋敷で、ファラーシャが作ってくれて……」


 ナディアは広間を見渡した。


「ファラーシャは……?」


 酒杯を傾けていたジャミールが「心配ないよ」と微笑んだ。


「神官長は、やることがたくさんあるそうだ」

「……そう。そう、よね。霊廟が、あんなことになっちゃったし……」


 とろみのある熱いスープをすすって、ほっと息をついた。揺れる湯気をみて、また思い出す。


「そうだ、ランプは?」


 横で聞いていたジャミールとカミリヤ、それに楽器を演奏していたバクルら宦官たちや、歌うザハルが一斉にぷっと噴き出した。


「もう、ナディア様ったら!」

「さっきから、尋ねてばっかり。ほんと、知りたがりのお嬢さんなのね、あなたったら」

「そ、そんなに……質問ばっかりだったかしら」


 とたんに恥ずかしくなって、ナディアは熱をもつ頬に手をやった。

 でも、こんなふうに笑われたって、嫌な感じはしない。彼らはもはや姉や兄のようなものだった。一人っ子のナディアには縁のなかった、明るい笑いで満ちた、賑やかな家族の食卓がここにある。

 ジャミールは機嫌よさげにナディアを引き寄せて膝に座らせた。


「可愛いだろう、俺の妻は」

「ええ、そうですねえ。わずか数日でしたけれど、我々も、楽しい時間でしたわ」


 ──けれど、ナディアはもうすぐ、それにお別れを言わないといけないのだ。


「……よく食べた。少し、外を散歩してこようかな。ナディア、ついてきてくれるか?」

「はい」

「ええ、いってらっしゃいませ。……お気をつけて」


 ジャミールに手を引かれて、ナディアは中庭に降り立った。背後では、ふたりのいない宴が続いている。


「行こう」


 どこへ、と言わなくてもわかる。ジャミールと手を繋いだまま、ナディアは何度か背後を振り返った。


「……さよならを、言ってはいけないときがあるのね」


 ささやきを拾ったジャミールが、うんと頷いた。


「彼らに責任を負わせないためにも。彼らが知らないうちに、俺たちが逃亡した、としなくてはいけない」

「うん……、……わかった」


 耳に残る、賑やかな笑い声。華やかな北の宮、美味しい料理。優しい人たち。それらをすべて夢と思うことにして、ナディアは芝を強く踏みしめながら歩いた。


(……私は、選んだから。だから、泣いちゃだめだ)


 夜明け前の空は、白みはじめている。

 もう、じきに東の空から太陽がのぼる。


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