最後の解放2
祭壇に置かれたランプの鎖を、ファラーシャの指がそっと撫でる。すると、まじないでできた鎖は光の粉になってパッと弾け飛んだ。
炎柱がランプの蓋を吹き飛ばし、建物全体を揺さぶる爆音とともに勢いよく立ち昇った。爆風に体ごと吹き飛ばされそうになるのを、ジャミールがマントで包んでかばってくれる。
「っ、ジンニーヤ!」
ナディアが叫んで、抱えていたランプの蓋をあける。こちらはしゅわしゅわと白く泡立ちながら、燃え盛るシムーンに巻きつきはじめた。ハーディンの姿は、まだ見えない。
(ハーディン、あの炎の中心にいるのだとしたら、大変だわ……!!)
白い泡は集まり、うねり、しだいに女性の人型に固まっていく。
『あなた』
「ぐ、おお、人間め……なんたる屈辱! 何度、幾たび、我を裏切れば気が済むのだ! 憎い、人間が、憎い!」
『あなた、シムーン、わたしが見えない? ほら、見て。わたし、自由よ。あなたに、やっと会えた』
炎の勢いが強すぎて、誰もシムーンに近づくことが出来ない。ナディアも、ジャミールも、ファラーシャでさえも。水の精霊がみるみる蒸発していくのを、見守っていることしかできない。
『ああ、シムーン、会いたかった……』
泡立ちながら白く発光するジンニーヤの腕が、激しい炎を抱きしめる。その瞬間にじゅうっと音をたてて、腕が蒸発してしまっても。彼女は何度も腕を再生して、そのたび彼を抱きしめ続けた。
「ちょっ、あれ、だ、大丈夫なのっ!?」
祭壇の裏に避難していたカーラが、心配して顔を覗かせる。
「あっつ! 天井も焦げついてる! このままじゃ崩れるんじゃ!? ハーディンはどこ……? 大丈夫なの……?」
『大丈夫だ、炎の中に、いる』
そう答えたファラーシャは、苦しそうに胸元を押さえて床に膝をついていた。
「ファラ!」
火の粉が、ファラーシャの神官服を焼いている。それすら振り払えないほど、彼は消耗している。ゼイゼイと肩を揺らして、返事もできないほどに。
(精霊の怒りに、命を吸い取られている……!?)
ジャミールのマントに包まれていてもここまで炎の熱が届く。光に目が焼かれるようで、暴れる精霊を直視できない。
(このままじゃファラが……ハーディンが……ジンニーヤが、消えてしまう……?)
燃えてしまう。ナディアの、目の前で。
あまりに膨大な力を前にして、頭は真っ白だった。
その間にも水の精霊はひとり奮闘している。名前を呼び続けている。自らの身体を炎に捧げながら。
『愛しいあなたに焼かれるくらい、私はかまわないのだけど。ただ、その人間は返してあげて……どうやら私たちの恩人の、大切な家族のようだから』
「にん、げん……!」
『っ、あ、ああ……!』
ジンニーヤは苦しみながら炎柱の中に腕を伸ばし、水の泡で包んだ人間を取り出した。
「ハーディン!!」
カーラが叫んで、祭壇へと駆け寄ろうとする。だが、それ以上は近づけない。炎は弱まることなく霊廟の空気をどんどん焼く。息をするのすら苦しい。みな、熱風に吹かれて顔を覆う。何もできない。
──何も。何も。
己の無力さに絶望しかけたとき。
ジャミールが強くナディアの手を握った。
「ナディア」
見つめられて、名を、呼ばれただけ。
それだけで、ナディアは呼吸を思い出すことができる。
「あ……なた、ど、どうしよう、どうしたら」
「大丈夫だ」
「だい、じょうぶ……」
「俺たちで、シムーンを救えるかもしれない」
「……本当、に?」
「ああ、きっとできる」
できる。彼が言うなら、きっと。
手に、脚に、力が戻ってくる。ジャミールの手を握り返す。
力がわきあがる。熱い血がかけめぐり、いのちが、満ちてくる。
ジャミールはナディアを炎から庇いながら、マントの下でささやいた。
「この炎はかつて、俺の内側にあったものだ。恐ろしくなどない。ナディア、あなたが望むなら、この業火の中からあなたの望むものを盗んでこよう」
「……どんな、ものでも?」
ナディアは炎をうつす紅い瞳を見つめ返した。ジャミールはしっかりと頷き返す。
「一度やったことだ。二度だってできる」
「そう、だわ。一度、やったこと」
「共に行こう。二人でなら、なんとかなる」
(そうだ……諦めてはだめ。私が望むものを、手に入れるまで)
「お嬢様!? ジャミール、何を……!!」
ジャミールに支えられ、ナディアは燃え盛る炎の前に立った。
ジャミールの呪詛を取り除いたときのように。カーラを取り戻したときのように。祈り、描き、また祈る。いま一度、あの力を。
愛の言葉をつむぐこの唇には、力がある。
愛しい人を救い、導く力が。
「ジンニーヤ!」
──私は、愛する人と幸せになる未来を、諦めない。
「今よ! く、口づけて! シムーンに!!」
透き通る女性のかたちをした精霊が、こちらに向かって微笑んだように思えた。
『口づけなら……躊躇う理由はないわね』
炎に触れるところから白く蒸発していく彼女は、それでも臆せず、夫を抱きしめる。
二人を見守り、見上げていたナディアたちを、突然暴れだした炎の尻尾が闇を焼きながら薙ぎ払った。
「きゃあ!?」
間一髪のところで避ける。みな床に這いつくばって、なんとか無事だった。それきり炎の尻尾は消えて、霊廟を焼き尽くさんばかりに高く燃え盛っていた炎柱も収束し始める。
(──やった! 火の勢いが弱まった……!? でも、)
炎の大蛇はいまだ宙に浮かんだまま、水の精霊にすがるようにして巻きついている。ジンニーヤの髪や、腕や、脚のあたりは、すでに炎にのみ込まれてしまっている。
「あ、あ……だめ、消えないで! ジンニーヤ!」
『乙女……シムーンの、ランプを……』
「ランプ!?」
腰を抜かしてしまったナディアの代わりにジャミールが、炎の出どころに向かって駆けた。
「はぁっ!」
勢いのまま、燃える炎の中心めがけて鋭く蹴りをいれる。
カランカランと甲高い音をたてて、蹴り飛ばされたランプが床を転がる。すかさずカミリヤが駆け寄って、ランプの蓋を無理やり押しこんで閉めた。
火を吹くランプはがたがたと震えながら床を転がり回る。壁にぶつかり、ようやく鎮まったようだった。
あたりは焦げつき、焼けた石壁はぶすぶすと煙をあげてくすぶっている。残ったのは、まばらな炎の残滓だけ。さっきまでの轟音と強烈な熱が夢だったみたいに、霊廟の中は静まり返った。
「あ……ハーディン……? ハーディン!」
透き通る水に包まれ宙に浮かんでいたハーディンが、ゆっくりと降りてくる。水泡はハーディンを仰向けに横たえさせたあと、ぱちんと音を立てて消えた。
「あなた……!」
カーラが脚をもつれさせながら、急いで祭壇に駆け寄る。
床にへたり込んでいたナディアも、なんとか彼らの元へと体を引きずった。
ハーディンの漆黒の長髪が、祭壇の上に扇状に広がっている。頬や服は煤に汚れているが、カーラはかまわず夫に抱きついた。
「ハーディンっ、返事をして」
どれだけ呼びかけても、彼の目は閉じられたまま。その人形のような寝顔に、ナディアは言葉を失った。
(う、うそでしょう……? まさか、間に合わなかったの……?)
「義兄上は」
まだ熱をもつシムーンのランプを慎重にマントに包んで、ジャミールがナディアの横に立った。
「じゃ、ジャミール……ハーディンが……う、うそでしょう、死んじゃった、の……?」
「ハーディン……目をさましてよ……」
カーラは泣きながら夫に唇を寄せた。頬に、額に、彼女の涙と唇が交互に落とされる。カミリヤが気遣わしげに、カーラの背を撫でている。
あんまりだ。ナディアは顔を覆った。こんなに、こんなにみんな、力を尽くしたのに。助けられなかっただなんて。
ぼろぼろと涙が手の中に落ちる。
「──待て」
ジャミールは頭上を見上げた。
つられて視線をやると、小さなともし火が、ちかちかと点滅して存在を主張している。
「……シムーン……?」
ナディアが涙にぬれた手のひらを差し出すと、揺れる炎が手のひらにおりてくる。ナディアは勢い込んで尋ねた。
「シムーン、ジンニーヤは? ハーディンは、目覚めないの?」
『乙女……案ずることはない』
頭の中に響く、男性の声。ナディアは小さな炎の揺らぎをのぞき込んだ。
『我が妻は無事だ。燃え尽きる前に、そこのランプに戻った』
ナディアのそばに転がるランプのことだ。急いで拾い上げて、汚れや煤を指でぬぐう。耳にあててみるけど、声は聴こえない。けど、たしかに気配がある。
「よかった……ジンニーヤは無事なのね」
『危うく、妻を焼いてしまうところだった。我はあとでひどく叱られるだろう。いや叱られるだけで済めば良いのだが……おお、我の暴走に立ち向かった人間の勇気に礼を言わねばなるまい』
「シムーン……あの、今のあなたは、その、本来のあなたなの? な、なんだか、印象が違うけど」
『ああ。契約は破棄され、重き鎖も消えた。長きにわたり歪められた我が炎も、元の清浄の火にもどった。そなたの幼い頃に出会った我も、すでに呪に侵されておった。ゆえにこの姿で話すのは今宵が初めてだ、博愛の乙女』
小さな炎はナディアの手を離れ、カーラとハーディンたちのいる祭壇に浮遊してゆく。
『泣いてはならぬ、愛深き乙女。悲しみの涙はそなたの心のともし火を消してしまう。我が依代になった人間は無事である。……人の手によって我が妻の水が浄化され、この地の怨念が流れたのならば、我は今いちど、人を許そう。──そして許せ、人間たち』
シムーンはハーディンの周りをくるくると回った。
『火をともそう。命の火を。風が吹こう。炎をあおる、砂漠の熱風が』
ひときわ強い輝きが、ハーディンを包む。ナディアたちはまぶしさに目をかばった。
夜を裂く閃光は、やがてハーディンの体へと溶けていく。
「あ……あなた!」
おそるおそる目を開く。カーラが、夫の手を握って震えている。
「よかった、生きてるのね……!」
ナディアも眠るハーディンの顔を覗き込む。ジャミールもファラーシャも次々に祭壇に駆け寄った。
「ああ……息をしている……火傷のあともない」
きゃあ、とカーラは明るい声を上げて、カミリヤとナディアに飛びついた。
「お嬢様、ほら見て、この眉間のしわ! 何も、何も変わらないわ、これはハーディンでしょう?……生きてる……よかった……!」
「あっ、私の傷つけた足首の傷も、治ってる……!」
ナディアとカーラはひとしきり感激に打ち震えたあと、お互いを抱きしめ合いながら、ほろほろと涙をこぼした。
「よかった、よかったね、カーラ」
「ええ、本当に……ああ、何だか、長い長い夢を見ていたような……そんな気分で……」
「そうね、この数日が、とても長く感じたわ……ああ、ありがとう、シムーン。ハーディンを戻してくれて」
ナディアは小さな炎を見上げた。熱い雫が頬を伝う。嬉し涙は乾くことを知らず、あとからあとから目からこぼれおちた。小さな炎はそれを見守るように周囲を浮いていたが、やがて小さく明滅を繰り返し始めた。
「シムーン?」
『……ランプを、王子』
「ジャミール、シムーンがランプに戻りたいって言ってる」
炎はふわふわとジャミールの方へと飛んで、力尽きるように落下した。すかさずジャミールが、火の粉を残さずランプで受け止める。
『しばし眠る』
カチンと音をたてて蓋が閉まる。
小さな炎がいなくなると、あたりに深夜の静寂が戻ってくる。霊廟を吹き抜ける冷たい夜風が、焦げたにおいをさらってゆく。
──ああ、なんて長い夜だったんだろう。
「ナディア!」
ジャミールが、倒れそうになるナディアを支える。
ありがとう、でももう、脚が痛くて、力が入らなくて、喉も渇いたし、涙の流しすぎで目も痛むし、頭も痛いし、ジャミールがそこにいるとわかったら、安心して、とにかく眠くて──。
「そうだな、眠るといい。大丈夫、ずっとそばにいるから」
耳元で優しい声がして、抱き上げられたのがわかった。
何か言おうとしたのに、ナディアは返事も、目を開けることもできない。
煤のにおいまじって、ジャミールの匂いがする。
ああ、はやく、彼にうんと甘えたいのに。
しっかりとした腕に抱かれ歩く揺れは、どんな揺りかごより心地よい。
ナディアは今度こそ、安心して意識を手放した。
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