力を求めて2

 ──読める。

 正確に言うと、読んでいた頃の自分の気持ちを思い出している。

 自分の部屋で、屋敷の庭の木の上で。幼いナディアは夢中でこの本を読んでいた。


(この調子なら読めるわ、きっと! 私、きっとジャミールの役に立てる!)


 けれど開いた頁について考えを巡らせる間もなく、人の気配を感じたナディアは慌てて本を閉じた。


「ナディアさまぁ、刺繍の続きをしませんかぁ」


 ザハルだ。ちょうど背中に隠したタイミングで、彼女は大量の糸と布を抱えて部屋に入ってきた。


「い、今から? そんなにいっぱい!?」


 色とりどりの布は寝不足の目にしみる。


「課題を放り出して先生に叱られるのと、今頑張ってしまうのと、どちらがよろしいかしらぁ。わたくしはどちらでも別に構いませんけどぉ」

「わ、わかった……すぐやるわ」


(はやく、一人の時間がほしい……!)


 糸通しに苦戦して手を震わせながら、切実にそう思った。



 §



 昼の鐘が鳴ると、短くも唯一の自由時間である。妃付きの侍女たちもそれぞれの仕事をしたり、順に休息をとるなどする。この隙しかない。覚悟を決めたナディアは、右耳のイヤリングを外して、ぎゅっと握りしめた。


「そこのあなた」


 周囲の人間が入れ替わる隙を狙って、目をつけていた若い女官に声をかける。振り返った少女は不思議そうに首を傾げた。服装を見るに、掃除などをする下位の女官である。


「ご用でしょうか。お妃様」

「静かに……これをあげるわ。だから、これから私の言う事をよく聞くのよ。ついてきて」


 少女は「えっ」と不信げにナディアを見た。高価な宝石の下賜におののき、不安げにこちらをうかがっている。


(自信たっぷりに……私についてくれば、間違いないと思わせるように)


 うまくいくだろうか。心臓がばくばくしてる。

 ルビーのイヤリングは、少女を誘惑するようにきらりと輝く。侍女は逡巡ののち、恭しく跪いて受け取った。


「ラーイと申します。お妃様、なんなりと」


 ナディアは頷いて、誰にも見咎められないうちに彼女を自室へと招き入れた。

 侍女は部屋の真ん中で所在なさげに身を縮めている。ナディアは安心させるよう、なるべく優しい声で言った。


「ラーイ、私のフリをして、午後はここに寝ていて。誰に声をかけられても、具合が悪いと言うのよ。夕刻までには戻ってくるから、それまでなんとかやってちょうだい。服を交換しましょう」

「そ、そんな、お妃様の身代わりを……? 無茶な」


 髪色や背格好が似ている者を選んだから、寝所に押し込んで掛け布を首もとまで引き上げれば、自分でもわからないほどに似ている。極めつけにイヤリングをつけてやれば完璧だ。

 ジャミールは気軽に「これを使え」だなんて言ったけど、ナディアにとっては大切な贈り物だ。せめてひとつは手元に持っていようと懐に忍ばせた。


 ナディアのほうも、ラーイに似せて髪を下ろした。まじないの本を懐に忍ばせるのも忘れない。女官服はゆったりと全身を覆っているし、面紗で顔も隠してしまうから個性がでない。変装にもってこいだ。


「ラーイ、あなたの仕事はなに?」

「回廊と、庭と、浴室の掃除です。……あの、ナディア様、私、見つかったら怒られてしまいます」

「私が無理矢理したと、そう言っていいから」


 こそこそと部屋を出る。左右を確認したら、そのまま足音を忍ばせて中庭まで駆ける。


(や、やった……! 抜け出せた! ど、どうしよう、まずはどこに行こう……!?)


 後宮は広い。ナディア以外の妃がいない今、東西南の宮は空っぽのはず。どこかの宮に入り込めばきっと、夕刻までゆっくり本を解読できるだろう。

 人を避けて走っていると、宮殿に一番近い南の宮まで来てしまった。


(っ、あれは、ファラーシャ!?)


 とっさに藪の中に隠れたはいいけれど、おそろしいほど距離が近い。ファラーシャに見つかれば、たぶん彼は見分けてしまう。ついでに心の中を読まれたら、逃亡計画だって筒抜けになってしまうだろう。


(に、逃げなきゃ……南の宮はだめだ)


「この壁画を変えましょう。モブタザル国の紋様を取り入れるように」


 モブタルザルは、山の向こうの大国である。この間まで、ドゥーヤ軍が遠征をしていた敵国だ。

 不審に思ったナディアは、盗み見ができる場所を探した。四つん這いになってなんとか視界を確保する。

 ファラーシャは書簡を手に、宦官らになにごとかを指示している。そばには通訳らしき神官もいるし、石工具を手にした奴隷たちも数多くいる。


「花を好む姫のようですから、その木は切り倒して花壇にしましょう。中央池までの小道も舗装し直すように」


(姫……? もしかして、正妃を迎える話がもう進んでいるの……!?)


 ファラーシャが言っていた正妃候補というのが、敵国の姫なのか。


「ほほう、我が国伝統の青タイルでつくる、モブタザルの紋様とは。名案ですなぁ!」


 アーチ状の天井を見上げながら現れたのは、白地の頭布クーフィーヤを黒の二重輪イカールでとめた、伝統的なドゥーヤの衣装をまとう壮年の男性だ。

 たっぷりの髭に覆われた大きな口元はにこやかで、張りのある声が石造りの建物に反響する。


「王子との婚姻がまさしく二国の架け橋となりましょうぞ。いつもは反目する我々ですがここに来ていよいよ意見が一致したようですな、ファラーシャ殿」


 カカカと大きな口で笑うと、周りの人間たちは耳を押さえた。


(もしかして、あれがヤフタ宰相……?)


 神職と対立しているという派閥の大ボスだ。まさかこんな所で会うなんて。

 ナディアはもっとよく観察しようと目をすがめた。善人か、悪人か。……一瞥しただけでも、自信と尊大さは有り余っているように見える。

 人の集まりは完全に二分されているようだった。工事を取り仕切る神職派、口出ししたくてたまらないという様子の宰相派。ここでも王宮の力関係が見えてくる。


「のう、ファラーシャ殿。神託はくだった。となれば我々は一刻も早く正妃をお迎えせねばなるまい」


 ヤフタ宰相に声をかけられたファラーシャは、不機嫌さを隠しもせずそっぽを向いた。ナディアやカーラに向けるのと段違いのそれは、周囲を萎縮させるのに充分な効果があるようだ。通訳は冷や汗をぬぐっている。


(ああ、ファラーシャったら。超絶美形が台無しね……)


 あんな機嫌の悪いファラーシャに見つかりたくない。腰を浮かしかけたとき、「妃といえば、北の宮の姫ですが」と宰相が髭を撫でつけながら語り始めた。


「あの娘……いや、お妃様は、本当にまだ王子の子を孕んではおらぬのでしょうな?」


 寵愛ぶりは耳にしていると宰相はにこやかに言った。それがどれほど表面上の笑みなのかは、目を見ればわかる。


「ぽっと出の王子とはいえ、殿下は直系であらせられる。世継ぎは争いの種ですからな。慎重に計画せねばなりません」


 今度こそファラーシャは隠れて舌打ちをした。

 通訳は青い顔で震えている。


「し、神官長は、その通りだと申しております」

「フゥム、ふむふむ。王子は昨晩、お忍びで北の宮に向かわれたようですが。寵姫がドゥーヤ人であることは幸いでしたな。これが黒の民や砂漠の遊牧民であれば、こうも簡単に許せる話ではございません」

『たしかにナディアはドゥーヤ人だが。王子は生まれや育ちで態度を変えたりはしない。──あなた方と違って』


 二人の間にあるピリッとした空気が、ここまで伝わってくる。ナディアは浮かしかけた腰を下ろしてじっと聞き耳をたてた。宰相はファラーシャの不機嫌など気にせず話し続ける。


「北の宮の姫は、王子のまことの寵愛を鼻にかけず、女官宦官に対しても謙虚でいらっしゃるそうではないですか。賢妃の才がおありかと。神官長のご慧眼には恐れ入る」

『それは、どうも』

「それにしても、ファラーシャ殿。果たして貴方には、どこまでの未来が視えているのでしょうな?」


 宰相は、ギラつく目でファラーシャをじっとりと見つめた。

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