蝶の忠告

 ナディアにあてがわれた部屋は、広大な中庭を臨む北宮殿にある。

 二人は応接室にあたる、中庭に面した大部屋で距離を開けて向かい合って座った。

 シャーベット水を用意した侍女はちらちらとファラーシャに視線を送っている。彼に『下がれ』と手で払われ残念そうにナディアを見ても、まだ侍女たちの名前さえ把握していないナディアには頷くことしかできない。


 完全に人の気配が去って、話を切り出したのはファラーシャのほうからだった。


『足りないものはないか。言えば、なんでも揃う』

「ないわ。快適よ、とても。……旅行と思えば、だけど」


 この部屋の絨毯は目が醒めるような瑠璃色で、濃紺の幾何学模様がびっしりと織り込まれている。涼しげで好きな色だが、ジャミールの屋敷に飾られていた絨毯の方がずっとずっと素敵だったなと思った。


「ここも、貴方が支度をしてくれたの?」


 ジャミールの屋敷はそうだった。嫁入り道具一つ持たずに嫁いだナディアのために、彼とジャミールで部屋を整えてくれたのだと聞いている。


『そうだ。ジャミール様とお前の趣味は、把握しているつもりだ。……この部屋も別に、罪滅ぼしでやったのではない』


 意外にも、ファラーシャは気まずそうに視線を逸らした。もっと、何も感じていないかのような顔をするかと思ったのに。こうなるとかえって責めにくいものである。

 溶けていくシャーベット水を喉に流し込んで、ナディアは空っぽになった杯をぐっと握った。


「ジャミールに会いたい」

『気持ちはわかるが、今は無理だ』

「なぜなの」


 さわさわと木の葉を揺らす風が、ファラーシャの赤銅色の髪をなびかせている。

 彼は煩わしそうに瞬きを繰り返した。


『王の具合がいよいよ良くない。いつその時が来るとも知れず、重臣らが代わる代わる王の寝室に詰めている。ジャミール様はなんと言っても唯一のお身内なのだから。それだけでなく、停戦後に帰国した兵士たちもいて、やれ報告だ伝令だと……おかげでジャミール様については、保留中なのだ』

「保留?」

『王宮の決め事には、つねに反対派がいるということだ』

「つまり、ジャミールやあなたを認めない人達がいるのね?」


 王宮というものの複雑さに興味を持って、ナディアは大人しくファラーシャの話を聞いた。


『目下、敵は宰相ワズィール派だ。ヤフタ宰相は、四代前の王の傍流だとかいう、彼の遠縁の赤ん坊を新王にと主張している。なんでも見事な金髪と紅瞳の赤ん坊だそうだ。官僚たちの多くは、どちらにつくか判断しかねている。話が進まん原因の一つだ』

「赤ん坊を王様にする気なの? いくら王家の血を継いでいてもそれは……務まらないのではないかしら」

『それが狙いだ。宰相一派は、新王にかわり王宮と政治を牛耳るつもりなのだから』

「ちょっと待って、それならもし向こうの王様が即位したらジャミールはどうなるの?」


 ナディアが身を乗り出すと、ファラーシャは冷たい瞳で彼女を睨んだ。


『次の王はジャミール様以外にありえない。現王の目覚めを待って、一言お言葉を頂戴すれば良いのだ。……だが俺のいない間に、我々神職にもいくつか分裂の兆しがあった。説得には時間を要する』


 淡々とした表情とは裏腹に、ファラーシャの心の声には力がこもっている。

 頭を襲う鈍い痛みにつられて、ナディアはこめかみに手をやった。


「あなたがジャミールに相当入れ込んでいる、っていうのはよくわかった」

『問題ごとはほかにもあるぞ。あの精霊たち』

「シムーンのこと?」

『それと水精霊ジンニーヤだ。隙あらば二人で契約を破棄して飛んでいこうとする。つなぎ止めようとすればするほど、ごっそり力を持っていかれる……早くなんとかしたいところなのだが、ジャミール様のことが進まねばそれも保留だ」 

「シストゥールの水精霊がシムーンの番だったのは、偶然なの? そんなことないわよね」


 ナディアが詰め寄ると、ファラーシャは目を細めて口の端をあげた。意地の悪い微笑みだ。


『鋭いな。あれらは、この王宮に封じられていた建国のジンの二柱。ときには王に代わり、力ある神官が契約を代々引き継いできた。俺は水と相性が良かった。炎のジンは、王のものだが』


 やっぱり。ナディアは唇を噛んだ。建国史の授業を受けたときから、そうではないかと考えていたのだ。


「じゃあ、ジンニーヤはあなたがシストゥールへと送ったの? わざとシムーンと引き離して怒らせたのね。ジャミールをここへ連れ帰るために」

『否定はしない。俺は、水精霊の幻惑の性質を使って、ドゥーランによる暴動を考えていたのだ』


 暴徒化した黒の民を鎮めるのが、隠れていた次期王だとしたら。たしかに、新たな治世者としてこの上ない評判になっただろう。


『だがシムーンの襲撃については予想外だった。俺が下手に画策しなくとも、ジャミール様は王宮に収まったということだ。星の運命さだめとはそういうもの』


 ──運命。

 神職のファラーシャはそういったものに敏感なのかもしれない。この先の道も、彼には見えているのだろうか。ジャミールの歩くべき、輝かしい未来が。


「……どうして私のところに来たの」


 長く沈黙したあと、ナディアは問うた。


『貴女は知りたがりだから。ここを脱走されるより俺から話すほうがマシ、というだけだ」


 ナディアの考えくらいお見通し、ということらしい。

 それならいっそ一番に望んでいることを叶えてくれたらいいのに。


「……ジャミールは、元気にしてる?」


 ファラーシャは黙ってうなずいた。


「そう。……なら良かった」


 ジャミールは優しいから、きっと、なんだかんだ言って困っている人を助けようとするだろう。新しい王の治世を心待ちにしている国民たちに比べて、ナディアひとりの願いはあまりに小さすぎる。


(とらないで。あの人を、私から奪っていかないで)


 夫婦として普通の幸せを願うことが、こんなにも難しいなんて。


(これが私たちの運命? ……本当に?)


 答えをくれる者は誰もいない。

 ファラーシャは立ち上がって、俯くナディアのそばにやって来ると膝をついた。


『どうかお心に留めておいてください、ナディア様』


 改まってそう言うと、ファラーシャはナディアの耳元に手で触れた。シャリンと蝶のイヤリングが軽い音をたてる。


『後宮に身を置くつもりであれば、誰にも心を許してはなりません。王宮とは、そのような場所です』


 ファラーシャの指はナディアの顎を捉える。

 自分の呆けた顔が、ファラーシャの瞳に映っている。熱した鉄のような熱い色。

 ぼんやり見惚れているうちに彼の瞳は閉じられ、長い睫毛がナディアの頬をかすめた。ハッとして身をよじる前に、ファラーシャの唇が頬に押しつけられる。


「ひえっ!? なっ、な、なんで!? なんでそうなるのっ!?」


 どんと押し返す腕を取られ、間近にみるファラーシャは照れも恥じらいもせずむっつりと黙り込んでいる。


『あそこを』


 そう短く言って、彼は視線だけを庭に向けた。庭の茂みががさがさと動いて静かになる。

 ファラーシャは、わざと見せつけた──?


『これであなたも神職派だ。……忠告したぞ、いいな』


 引き止めるまもなく、白く輝く神官服をひるがえして、華麗な蝶は後宮の庭へと消えてしまった。

 ぺたんと座り込んだナディアは、呆然と外を眺めた。

 我に返ると怒りがわいてくる。夫への罪悪感だって。


「信じられないっ……そうね、信用なんてしないわ。誰一人、もう信じないんだから……!」

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