第三章

水の王宮

王宮の日常

「ナディアさまぁー!? 出てきてくださぁぁーい!」


 午後の陽のさす後宮ハレムに、侍女たちの悲痛な叫び声が響く。


「いらっしゃった?」

「だめ、今日はこっちではないみたい」


 色違いのヴェールを纏った侍女たちが、せわしなく辺りを駆け回る。


「図書室にもいらっしゃらなかったわ。お部屋にも」

「いやだわ、あのおてんばさん。裁縫の授業はお嫌いなのかしら。これで何回目の脱走なの? あとでファラーシャ様に睨まれるのはわたくしたちなのに」

「まさか、あの方、王子殿下のところへ?」

「それはないわよ。今日も後宮の扉は閉じているのですから」

「どこかにいるはずよ、探しましょう」

「ナディアさまー!」


 新しい主人を迎えたばかりの後宮は浮き足立っている。天気の良い昼下がり、ひらひらと蝶のように舞う赤、青、黄色に薄紅色と緑のヴェールを、ナディアは生い茂る木の上からひっそりと見送った。


(……これでちょっとは時間稼ぎができるかしら)


 ──べつに、裁縫が嫌いなわけじゃない。

 けれどここでは、針をひと刺しするごとに「その図案は古くて田舎くさい」だの「都の流行りはこう」だの「これだから庶民はね」とお小言を言われ続けるのだから、誰だってイヤになるだろう。


 太い木の幹に背を預け深く息を吐いた。肌に感じる濃い緑と水の匂いだけが心のよりどころだ。


(……疲れた……)


 人に囲まれるのも、過剰に期待を寄せられるのも。

 見知らぬ人間の視線がまとわりついて、不快だ。



 普通に生きていたら縁がなかっただろう宮殿に、ファラーシャの手で連れて来られてから七日がたった。ジャミールとナディアは、神官らの手で秘匿されていた王子と、その妃候補・・とされているらしかった。痛みと薬で朦朧としていたせいか、ここまで運ばれてきた間の記憶はほとんどない。


 国王のおはすマジャラ宮のある首都アマルは、広大なアルサリア砂漠のど真ん中に位置する。

 街を囲む城壁を出ればそこは、生命を脅かすほどの灼熱の大地。

 にもかかわらず、この王宮の地下からはたえず水が湧き続けている。おかげで後宮のそこかしこに水の気配があって、城下の民もその恩恵で豊かな暮らしをしている。


 この湧き水は、初代ドゥーヤ国王ナハル・アル・アリーブが、水の女魔神ジンニーアの加護を受けたという伝承と一致する。

 ナハル王は水精霊だけでなく、砂漠を荒らす火の精霊をも従え宮殿に封じ、飢えと渇きに苦しむ人々に水と食料を分け与え、やがて彼を慕う人々とともにこの砂漠を拓いた。

 以来五百年と続くドゥーヤ国の建国物語の一端だ。さっきまで座学で詰め込まれていた。


(学ぶのは良いけど、教師も侍女たちも私のことなんて全っ然、妃候補として認めてないんだわ。目を見たらわかるもの。叱られてばっかりで気が滅入るし、昼間はずっと見張りがついてるし。私たちはこの王宮に、来たくて来たわけではないのに)


 ため息すらつくことの許されない後宮での生活にはまだ慣れない。


 広々とした部屋で美しい侍女や宦官にかしずかれ、たくさんの宝石で着飾られても、ナディアの気分が晴れることはなかった。


(いつになったらジャミールに会えるの……)


 元気だろうか、どうして会いに来てくれないのか。

 ぎゅっと膝をかかえて、顔を埋める。

 一人になって落ち着くと、頭や腹の中はぐるぐるとどす黒い感情でいっぱいになってくる。

 まるであの夜のようだ。太守サルタンに嫁いだ日。あの時は、ジャミールが助けてくれた。でも、今は──。

 もしこのまま、ジャミールが王としてこの王宮で暮らすことになったら。貴族でもないナディアが本当に王妃として認められるのか、それとも追い出されてしまうのか、まだわからない。

 泣いたって仕方ない。けど、とても心細かった。


(悪いのは、憎むべきは、だれだろう……シムーン? ファラーシャ? それとも、国王様?)


 ジャミールと結婚して、これから自分たちの暮らしを作り上げていくのだと、シストゥールでの未来を考え始めたところだったのに。

 あの街の人々だって混乱しているはずだ。ジンに身体を乗っ取られたハーディンとカーラについても解決していない。

 このまま王宮にいることが良い事のはずがない。日に日に焦りを募らせるけれど、後宮の監視は厳しい。


(どうにかしてジャミールに会わないと。この状況をどう思ってるのか……私たち、どうすればいいのか。相談したい)


 なんとかして抜け出そう。ジャミールに会うのだ。

 ──そう思っていたのだけど。


『おい』


 ハッと顔を上げたナディアの耳元で、精巧な金細工でできた蝶のイヤリングが、シャランと鳴る。


『大人しく降りて来い。今のお前に怪我でもあれば、ここにいる全員の首が飛ぶんだぞ』


 彼と再びまみえるとき、何から話せばいいのかをずっと考えていた。


「……案外、普通に会えてしまうのね」


 ファラーシャ、とナディアは木の上で呟いた。


 マジャラ宮の神官長ファラーシャは、神職たちが揃いで着る真っ白で隙のない神官服に身を包み、首周りを隠すように空色のスカーフを巻いている。

 もう女装は必要ないのか、シストゥールにいたときのような化粧はしていないし、立ち姿も凛としている。これが本来のファラーシャの姿なのだろう。

 強い日差しに照らされる赤銅色の髪が眩しくて、ナディアはふいと目を逸らした。


「貴方は後宮に入れるのね」

『左様。宰相や、俺の許可があれば、誰でも』


 声なき神官は頷くと、近くにある木陰に入って前を向いた。そうしていると誰かと喋っているようには見えない。あたりに侍女の気配もなく、ナディアは少し気を緩めて彼の心の声に耳を傾けた。


『この後宮では現在、宦官十名、女官十五名がナディア妃に仕えている。王宮と同様に、後宮も代替わりの途中で混乱している。あまり彼らを困らせないでやってほしい』

「……私、王妃になりたくてあの人と結婚したわけじゃないって、前に言ったわよね」

『覚えている。安心しろ。昨夜の占では、正妃にふさわしい者は他にいると出たらしい。あなたはジャミール様いちの寵姫として……側室としてここで暮らすことになるだろう。どうか王子のためにも、心穏やかに過ごしていただきたい』


 がんと頭を殴られたような気分だった。

 これから何人もの美しい女性たちが、この後宮に送り込まれてくるという。ジャミールの、次期王の妃として。

 予想はしていたけど、改まって告げられるとなけなしの矜恃もずたずただ。視界がゆらゆらする。ぎゅっと木の枝にしがみついたけど、視界は歪んだまま。


「それを言いに、わざわざこちらへ? どうもありがとう、おかげさまでとっても……傷ついたわ!」


 黙って耐えられるほど、今のナディアに余裕なんてない。何もかも手遅れなのかもしれないと思えた。未来は決まっていて、選択肢などないのかもしれないと。


『……貴女には、すまない、と思っている』


 ナディアはぐっと奥歯を噛んで嗚咽をこらえた。

 助けてくれる人はここにはいない。弱みをみせてはダメだ。一人でも考えて考えて、なんとかここからジャミールと逃げ出すのだ。


『降りてきてくれ。話がしたい』


 友人の顔をした裏切者が、そう言って手を差し出す。降りてくるまでそうしているつもりだろうか。午後の日差しが容赦なくファラーシャの白い頬を焼く。

 悔しくて悔しくて、それでもナディアは彼を無視できなかった。


「う、受け止めなさいよねっ」


 怪我しても構わないと木の上から飛び降りたナディアを、ファラーシャは難なく受け止める。男の力だった。

 ナディアは怒った猫のように、ギュッと爪を立ててその手を握りしめた。

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