裏切り

 ファラーシャがまるで神の使いのような姿でジャミールに手を差し出す。けれどジャミールは頑なにその場を動かない。

 ナディアはファラーシャにしがみつきながら息を潜めているしかなかった。少しでも動いて、彼の邪魔になりたくなかった。

 睨み合ったまま時間だけがすぎてゆく。そしてふと、気がついてしまった。

 なぜ、誰も様子を見にこないんだろう。

 神殿の崩壊に驚く住民はいないのか。ここにいるはずの族長たちの気配もない。いったいみんな、どこへいってしまったのか。


──もしかして。

 シストゥールに、もうまともな人間はいないのではないか。


 自分の思いつきにぞっとしたナディアは、昼間に見たあの白い靄と、ぼんやりと宙を見つめる住民たちを思い出していた。

 あの白い靄をジンの仕業だと言ったのはファラーシャだ。


(まって、まってよ………、ファラーシャは……もしかして……)


 ハーディンはジンに意識を取られて帰ってきた。意識のない戦士たちもきっとジンの仕業で。

 忍び込んだ神殿の中でカーラが倒れていて、それがランプに吸い込まれていった。カーラはジンに取り込まれてしまったのだ。


 そして、シムーンが匂わせたとおり、この結果をファラーシャは予想していたとしたら──?


(これは、ファラーシャが仕組んだことかもしれないということ……?)


 すべては、ジャミールを王にするために。


 ぱらぱらと土くずが瓦礫の山を転がった音で、ナディアは呼吸を思い出した。


「やれやれ、面倒な問答だ」


 張り詰めた空気を壊したのは、大股でずかずかとやってきたシムーンだった。


「おい、小僧。言うことを聞かねば、こうだぞ」

「なっ!?」


 誰もが気を張りつめていたのに、一方で、彼に対して油断していた。

 シムーンは手をかざし、呼び出した大蛇の尾のようなもので、素早くあたりをなぎ払った。ごうんと風が唸る。

 それをもろに食らったジャミールの身体が、人形のように軽々とすっ飛んでいく。

 ドンっと大きな音がして、大広間の向こうの壁に叩きつけられたジャミールは、そのまま壁とともに崩れ落ちて動かなくなった。

 一瞬の出来事だった。


「なっ、な……なんてことを……!?」


 視界がくらりと揺れる。血の気を失ったナディアの背を、ファラーシャの手が支える。

 けれど、ふつふつと湧き上がる憎しみが、ナディアの手に、腹に、脚に、燃えるような力を湧き上がらせた。

 ──短剣! 短剣を!

 ナディアはファラーシャの腕を外そうとばたばたと暴れた。

 ──あいつを、切り刻んでやる……!!

 たとえハーディンの身体であっても。

 夫を傷つけた目の前の男が、許せなかった。


「シムーン……ッ、なんて、なんてやつ……!! ファラーシャ、離して! 離せッ……ぐっ」


 どん、と腹部を押し上げる激しい痛み。


「ファラ……シャ……」


 こみ上げる嘔吐感。深く押し込まれたファラーシャの拳に爪をたてて、ナディアは呻いた。

 ──どうして。……あなたは、友人ではなかったの。


「大人しく言う事を聞かねば、黙らせて連れてゆくしかあるまい? なぁ、神官殿?」


 シムーンはニタリと嗤い、ファラーシャの手錠を力づくで引きちぎった。その手にはカーラを吸い込んだ黄金のランプがある。


「取引成立だ、神官殿。あの若造が王として立つまでは、お前に使役されてやる。せいぜいうまく使うことだな」


 思考が無念で塗り潰されるまえに、ナディアは気を失った。

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