炎のジン1


 神殿の中は、まるで巨大な生き物が大暴れしたあとのようにあちこち崩れかかっている。


「何があったの……?」


 ハーディンも少し立ち止まって辺りを見渡すが、またすたすたと歩き出してしまう。ジャミールとファラーシャは無事だろうか。出かける前は、ここに危険などないと言っていたのに。

 通路の先から、甘い匂いを感じる。祈祷に使う白檀の煙が体を包む。視界が拓けると、ここが大広間だということに気づいた。

 奥の方に人影がある。倒れているのは、髪の長い女性だ。


「嘘、……カーラ!?」

「ナディア?」


 その近くに膝をつく男が二人。彼らはこちらを見て驚いた様子を見せるけれど、目の前の光景のほうがよほど異常だ。

 駆け寄ろうとしたナディアは思わず足を止めた。カーラの体が、透けはじめたのだ。目を瞬く間にそれは細い光の糸のようになって、くるくると渦を巻く。そしてファラーシャが掲げるランプの中へと吸い込まれていった。


「カーラ! やだ、どうしてっ……大丈夫なの!?」

「ああ。だが、思っていたより面倒なことになった」


「ふむ、十秒ほど遅かったようだ」

「……そこにいるのは、義兄上、か?」


 ジャミールの呼びかけを無視して、ハーディンは不満げに眉を寄せた。

 床に膝をついて息を乱しているファラーシャがふと顔をあげ、彼らの視線が交わった。


「これは、これは」


 ハーディンは薄ら笑いを浮かべて男たちを見下ろした。


「懐かしい気配があると思ったら、王宮から逃亡した神官殿ではないか。このような辺境の地で這いつくばっているとは、滑稽なことよの」

『……あなたは……』


 ほとんど音にならない声をあげて、ファラーシャは目を見開いている。

 ふと、違和感に襲われる。このハーディンは、本当にあのハーディンなのだろうかと。

 足元で何かがうごく。異様な形の影だ。まるで立ち上る湯気のようにゆらゆらとうごめいている。複数の、大蛇のように。


 (人じゃ、ない!?)


「ナディア、伏せろ!」


 咄嗟にうずくまった次の瞬間、いくつもの投げナイフが空を切って飛んでくる。

 ハーディンは軽くそれを避け、ナイフは背後の壁に突き刺さる。ナディアはなんとか這って歩き、争いの中心から距離を取ろうとした。


「安物のナイフなど貢物にもならんぞ、神官殿。別に今は宝を献上せよと言いにきたわけではない。そこに転がっている我が妻を返してもらいに来ただけだ」

「我が、妻……?」


 広間の中心に転がっているのは、赤や青の宝石で豪奢に装飾された黄金のランプだ。妖しく光るそれは、ハーディンに呼ばれるとまるで自らの意思を持っているみたいにカタカタ震え始めた。


(な、なに、あれ……!?)


 ジャミールはランプに向けて剣を抜いた。ハーディンの視線がそちらへと向かう。


「なんのつもりだ、小僧?」

「義兄上の姿を借りるとは。悪霊よ、ナディアから離れろ」

「こちらの台詞だ、若造め。ランプを渡さぬならば我にも考えがあるのだぞ」


 ハーディンがナディアに視線を定めた。とたんにぞわりと肌が粟立つ。

 男の手がこちらに伸びる。


「こ、来ないで!」


 すんでのところで、男の手はバチンと音をたてて弾かれる。ナディアは痺れる腕を抑えた。

 今、カーラの護符が、守ってくれた──?


「小癪な」


 ハーディンは顔を歪めてそう吐き捨てた。その口元から、チロチロと紅く小さな炎が吐き出される。ひっとナディアの喉が引きつった。


「ば、化け物……っ」

「ナディア! 走れ! 逃げろ!」


 ジャミールが剣を投げるより早く、ハーディンの手が再びナディアの腕をきつくにぎりつぶす。息が止まる。あまりの恐怖に叫ぶことすらできなかった。

 ハーディンの手から発した炎がナディアに巻きつき、変装を焼く。


「きゃあああ!」

「ナディア!」

「ははは、よいよい。良い声で鳴く」


 ナディアは焦げ落ちた服を押さえてうずくまった。一瞬で炭になってしまった黒の民の変装。懐に入れていた短剣が甲高い音をたてて落下する。これほどまで炎に包まれたのに、皮膚は火傷ひとつ負っていない。

──手加減をされた?

 体の震えが止まらない。布はもう意味をなさず、胸も、腹も、腿も、男たちの前に晒されている。

 そんなナディアの髪を無造作に掴んで顔をあげさせ、男は酷薄に笑った。


「この髪、この肌。やはり女は若ければ若いほど良いな。宮殿に連れ帰ってもかまわんが、お前は処女か?」

「その手を離せ……!」

「あの男のものか。ふん、手垢のついた女は好かんわ」


 泣き叫びたいのを堪えて、ナディアはぎゅっと歯を食いしばった。ひどい足手まといだ。逃げないと。そう思うのに、体は震えるばかりで言うことをきかない。

 男の手がナディアの首を捉えて締め上げるように持ち上げた。


「かっ、はっ」

「……ナディア……!」

 

 ジャミールは今にも走り出したいのを必死で堪えているようだった。お互いに睨み合って、じりじりと機会をうかがっている。

 たぶんこちらの切り札は、あのランプ。

 ──あのなかに、なんでカーラがいる? わからない! ただただ恐ろしい!

 もがく足が、短剣に当たった。


「弱き人の子よ、素直に渡さねばこの娘を目の前で焼いてやろう」

「我々こそ、このランプを今ここで破壊することが可能だ」

「あまり図にのるなよ、……小僧」


 ビリビリと激しく空気が震える。天井からパラパラと土屑が落ちてくる。怒髪天を衝くばかりの激しい形相は、目を焼くほどの熱い光源となって、ハーディンの殻を破り真の姿を現しつつあった。

 ──まずい。このままでは、全員が生き埋めだ。


 ナディアはこの化け物の力が緩んだ一瞬を逃さなかった。もがいて、地面に落下する。足元の短剣を掴むと、そのまま俊敏な動きで足首に斬りかかった。無我夢中だった。

 ハーディンの姿をした何かは、大きな目玉でぎょろりとナディアを見下ろした。


「女ァ……人の身で、建国のジンに逆らうなど──」

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