黒を纏う

 夜の帳はとうに下りて、部屋のランプさえも消えている。

 共に眠りについたはずの夫はいなくて、ナディアの体には彼の上着が掛けられていた。


「……あなた?」


 開け放たれた窓からさわさわと風の音がする。白い月明かりに導かれるようにして中庭へとおりると、すでに月が傾きかけていた。仮眠どころか、どうやら寝過ごしたらしい。


「ジャミール? ……ファラーシャ?」


 次々に部屋を覗き込んでみても、どれもが無人。厨房へと歩きながら、ナディアの眉間にだんだんと力が入ってくる。

 ──まさか、置いて行かれるなんて!


 厨房にはすっかり火の気はなく、一人分の食事が置かれている。暗闇の中、錫の食器に添えられた黒板に気づいて、苦労して読み解く。


「すぐ戻るよ」


 微笑むジャミールの声が聞こえた気がした。


(最初から、連れてく気なんてなかったのかしら。それともファラーシャが彼に何か入れ知恵を?)


 冷たいテーブルに突っ伏す。お腹は正直にぐうと鳴った。


(……、……食べ物に罪はないわ)


 冷えた皿を引き寄せ、食前の祈りを捧げる。

 ファラ特製の、緑のスープと串焼きのお肉。作法も気にせずそのまま串を頬張った。噛み締めなくてもほろほろと崩れる羊肉にはまだ炭火焼きの香ばしい香りが残っている。スパイスと塩加減が絶妙で、冷めきっていても美味しくいただけた。それでもやっぱり、1人きりの食事は味気ないものだ。


 ドゥーヤの女は安全と引き換えにほとんど自由がない。良家に生まれた者ほど特にそうで、生まれた時から死ぬまでをほとんど家の中で過ごし、日がな一日じゅう主人の帰りを待つばかりの生活を送る。

 それが女にとって当たり前の人生なのだ。


 けれど砂漠を越えこの街に来て、ジャミールと結ばれた夜、極悪な太守につけられた首輪を丁寧に外してくれた夫のおかげで、そんなものからは解放された気がしていた。この街は、彼は、違うのだと。そう思えたのに。



 食事を終えジャミールの部屋に戻ると、低い卓の上にはまだあの地図が広げてあった。ナディアは小さなランプを掲げて、未練がましくそれを眺めた。


(……この細道を抜ければ、すぐに神殿まで行けそう……)


 指でこの屋敷と神殿の間を何度も行ったり来たりなぞる。


(この距離なら、もし何かあってもここまで走って帰って来られそうじゃない……?)


 昼間歩いた道を地図に重ねて、頭の中で思い描いてみる。月明かりに照らされた砂道を音を立てずに歩き、建物の影に隠れながら神殿を目指す自分の姿は、そんなにも悪くない──。


 立ち上がったナディアはそのまま大股で寝室を目指した。

 見渡した部屋の中にジャミールの衣装籠を見つけると、注意深く開けて、黒っぽい布地のものをいくつか引っ張り出す。


 姿見の前で体にあててみる。大きい。けど、これぐらいなら工夫すれば着られるかもしれない。

 男物のズボンは足首とウエストをぎゅっと縛り、丈のありあまる黒の長衣も腰回りを紐で縛って折り返すことで調整した。袖は、ぐるぐると外巻きにまくり上げて留める。最後に漆黒のターバンをきつく巻いて髪と顔を隠し、余った布地を外套がわりに背に流せば──、


(あとは、あれがないかな……たしかこっちの部屋に片付けていたような……)


 寝室の隣は小さな収納部屋のようになっている。そこに無造作に置かれていた儀礼用の宝剣を──ジャミールが婚礼の儀式の時に身につけていたものだ──見つけると、ナディアは手にとってまじまじと眺めた。


(ちゃんと切れるものなのかしら)


 宝飾で煌めく鞘を抜き取ってみると、鏡のように磨かれたしろがねの刃があらわれる。そこに映るのは、今や小柄な黒の民の戦士となった自分の姿だ。柄を持つ手に力が入る。


(あの人はきっと、追いかけてきた私に呆れたりしない。遅かったなって言って笑いかけてくれる──)


 そう信じたくて。ナディアは屋敷を飛び出し、夜のシストゥールの街へと駆け出した。



 §



 心臓がどくどく打ちつける。息苦しくなったナディアは鼻と口を覆うマスクを下げ、建物に背を預けながらはぁはぁと息をついた。

 夜の街は静かだ。ときおり野犬の遠吠えのようなものは聴こえるけど、生き物の気配はそれぐらい。風は冷たく頬を撫で、月は雲に隠れたり出たりを繰り返して、行く道先はまばらに明るかったり暗かったりする。


(この階段を登ってしまえば、神殿前の大広場だわ……)


 見上げるほどの急階段だが、石造りの段差は頑丈そうに見える。たしかこのあたりはすでに、古代遺跡でできた領域だ。

 ごくんと唾を飲み込んで、階段に足をかけた。


 最後の段差を登りきったときは膝ががくがくして、足を踏み外すんじゃないかと恐ろしい思いをした。四つん這いになってなんとか登りきる。なんとも無様な格好だ。


(この状況をファラが見たら、それはそれはすごぉく嫌な顔をするでしょうね……)


 想像すると笑みが浮かんでくる。地面を這ったまま息を整え、しばらくしてようやくナディアは顔を上げた。


 神殿前の常夜燈が、広場全体をぼんやりと照らしている。篝火のそばに一つの人影を認めて、ナディアは目を凝らした。

 背の高い男性であるように見えた。ナディアは宝剣の柄をしっかりと握りしめ、背後から恐る恐る人影に近づいて行く。


 夫でも、ファラーシャでもない。

 ばちばちと燃える篝火に半身を照らされたその人物は、黒くて長い髪を無造作に背中に流し、腕を組んで無表情に神殿を見上げたままそこに立っている。

 ナディアは思わず男に駆け寄って叫んだ。


「ハーディン!? 無事だったのね!?」


 振り返りもしない男の横で、ナディアは立ち尽くした。なかなか息が整わなくて、胸が苦しい。

 なぜ、彼はこちらを見ないのだろう。ナディアは彼の闇色の長衣を引っ張った。


「ハーディン、いつ帰ってきたの? みんな心配したわ」


 そこまでしてようやく、闇色の瞳がナディアの方を向く。


「ん? なんだ、小僧」

「こ、小僧?」


 ぽかんとして、後ずさる。たしかに男装をしているけど、そんなにも別人のように変わっただろうか。ハーディンって、こんな冗談を言うような人だったっけ。


「……お前、ずいぶん良いものを持っているな」


 ハーディンはナディアの腹部を指差した。篝火にきらめく、ジャミールの宝飾刀。ナディアはとっさにそれを抱えこんで彼の目から隠した。なぜそうしたのか自分でもわからなかったけど。


「ふっ、そう怯えるな。まぁ、我を前にすれば皆そう・・ではあるが」


 そう呟いた彼は再び神殿を向き、ナディアを置いて大扉に向かって歩いて行ってしまう。


「ま、待ってよ、ハーディン!」

「去れ、人の子よ。その震える脚で果たして家までたどり着けるのならば今すぐにな」


 たしかに脚は震えているけど、神殿内の様子がわからない今、ハーディンと一緒の方が恐怖はいくぶんマシだ。

 意を決して彼のあとを追い、ナディアは煌々と松明の光が続く神殿の中へと進んだ。


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