蝶2

 カーラに話しかけられたファラーシャはピクリとも動かず、石のようにそこに控えている。カーラはふんと鼻を鳴らして、彼から目をそらした。


「お嬢様、くれぐれもお気をつけて。あの子ったらちょっとばかり普通じゃないんですからね」


 ナディアは訝しんで眉を寄せ、ファラーシャに聞こえないよう声を絞って囁く。


「それは、ファラーシャが宦官だから……?」

「あらご存知で? それもありますけど。違うんです。あの子、まじないを使うんですって。噂ですけど」

「まじない……」

「そういう一族の出なんですって」


 理由は何にせよ、この2人、どうも仲がよろしくないらしい。聞こえているだろうにファラーシャはだんまりだ。ナディアの後ろで存在すら消さんばかりの沈黙である。ジャミールは「姉上」と一言だけたしなめた。


「はいはい、これ以上の悪口はよします。それで、ハーディンのことなんだけど」


 カーラは声を落として、背後を気にしているようにも見えた。


「ハーディンと同じく行方のわからなかったトゥアーグ族の男たちを、東のオアシスで見つけることができたの。けれど様子がおかしくて。あの屈強な男たちがみな生気のない人形のようなのよ。意思の疎通ができないの」

「外傷は」

「ないわ。拷問のあともない。息はしている。目は開いてる。でも飲みも食べもしないで、まるで夢の中にいるようなのよ。このままでは命が危険だわ。お父様は、悪霊ジンの仕業だって。魂を抜かれたんだって言っている。だからもしかしたらハーディンも」


 ──悪霊ジン

 カーラがそう言ったとき、後ろのファラーシャの衣擦れの音がした。

 ファラーシャは膝立ちのままナディアの手を取った。


「な、なに?」


 そこに描かれている、ヘンナ染めの模様──婚儀の前に、カーラが描いてくれたものだ──を、じっと見つめている。


「何よ。それに何か文句でもあるの?」


 一触即発な彼らを仲裁するつもりで、ナディアは慌てて睨み合いの中に体をすべりこませた。


「ファラーシャ教えて、これに何かあるの?」


 ナディアが手の甲を差し出すと、ファラーシャは改めてそれをじっと見たあと、自分の黒板にさらさらと字を書きつけた。


『奥様はどうか、その紋を消さぬよう』

「これを? どうして?」

『それは優秀なジン避けです』

「近くにジンがいるの? 悪いやつ?」

『わかりかねます』


 言葉少なく、ファラーシャは筆記を終えた。優秀、と言われて多少溜飲を下げたカーラは、気まずさを誤魔化すようにぶつぶつ言い始める。


「その紋様は悪霊から花嫁を守るもので、ナディア様はもう立派に妻になられたんですから大丈夫でしょうに。っていうか悪さをする悪霊がいるなら、あんた退治してきなさいよ。この子ってそういうときのための護衛なんじゃないの、ジャミ?」

「いやいや。ファラはただの侍女役だぞ」

「侍女! 侍女ですって?」


 苛立ちの矛先を向けられたファラーシャは、再び影となってナディアの後ろに隠れてしまった。ナディアはなんとも言い難い気持ちになって、苛々している義姉を優しくたしなめることにした。 


「カーラ、私は、ファラーシャがいてくれたら助かると思う。私は自分やジャミールの身の回りのこと、一人じゃまだ上手くできないもの……作ってもらった食事、とっても美味しかったし……」

「まぁお嬢様、会ったばかりの人間に心許すのは早すぎませんか?」

「私は会ったばかりでも、ジャミールとは馴染みなのでしょう? それにね」


 ナディアはカーラにだけ聞こえるように声を落として耳打ちした。


「あのね、『本当の侍女』がいたとしたら、私、もしかしたら上手くやっていけないかもしれない……」

「どういうことです?」

「……嫉妬してしまいそうで」

「はい?」


 ナディアはごにょごにょと言い訳をした。

 ナディア付きの侍女だとしても、同じ屋敷内にいればジャミールとも顔を合わせるだろうし、このように食事を共にすることもあるかもしれない。そうすればその侍女も彼に憧れて、最悪好きになってしまうかもしれない。


嫉視しっしは家に悪いものを呼ぶわ。ね、その点ファラーシャならお互いに心配ないでしょう?」

「ええ? う、うーん、その可能性は、まぁ、なんとも言えないですけどぉ」

「ねぇ、黒の民ドゥーランの男性は、たくさん花嫁をもらうの? ほら、ドゥーヤの大王様には何人もご夫人がいらっしゃるでしょう?」

「昔はそうだったみたいですけど、今ではあまり。でもこの街にはたしかにそういう部族もおりますわね。ジャミールなら大丈夫ですよ。昔からお嬢様一筋で」

「大丈夫じゃないわ。だって、彼は」


 ドゥーヤの王子なんだもの、と言いかけて、ナディアは口を噤んだ。

 このことをカーラは、知っているのだっけ?

 

 ナディアの必死の言い訳が意外だったのか、いくぶん機嫌を良くしたカーラは「そうですか」と微笑んだ。


「思ったより弟を気に入ってくださったようで安心しました。大丈夫だと思っていたんですよ。あなたたち昔は仲良しでしたもの。あとは結婚するなら体の相性がどうかとか、ほほほ」


 一瞬の逡巡ののち、ナディアは頬と耳を真っ赤にして視線を彷徨わせた。

 視線のその先に、ジャミールがいる。彼はクッションを背もたれにして肘をつき、のんびりとこちらを眺めている。真っ赤なナディアと目が合うと眉を上げて「内緒話はおしまいか?」と悠々と身を伸ばした。


「仲がいいのは結構だが、本題はなんだったかな、姉上?」

「はぁ、そうねえ。新婚っていいわねえ。浄化される気持ち」

「そうだな、たしかに俺は幸せだが。しかしハーディン義兄上のことを忘れたつもりはないぞ。すまないがナディア、この後少し出かける。公衆浴場ハンマームへは一緒に行こう。その近くに集会所があるんだ。ちょっと顔を出してくる。場合によっちゃ、俺も街の外の探索に出る必要があるかもしれん」

「わかりました。ご一緒いたします」

「風呂屋まで、だぞ。さすがに街の外へ連れて行く準備はできてない」

「……はい。ここで、待っています」

「そうしてくれ。ファラがいれば大抵のことはなんとかなる」


 いつまでも屋敷に籠ってはいられない。ジャミールにも仕事があって街を出ることもあれば、ナディアだって新しい暮らしをはじめなければいけないのだ。


「街を、見て回りたいな」


 ナディアが意を決してそう言うと、カーラがすばやくその手をとって頷いた。


「私が案内しますわ。さすがにファラも浴場の中までは入れないでしょ? っていうかあなた、いつもどっちに入るの? ま、どうでもいいけどね」


 立ち上がったカーラはファラーシャを見下ろすけれど、石のような彼は何も言わない。ジャミールはやれやれと肩をすくめ「姉上こそ嫉妬深い」とナディアに目配せした。


「罪深い女性だよ、貴女は」

「わ、私のせいですか?」

「そうとも。ああ、俺だって離れがたいのになぁ。しかし義兄上のことを放っておくわけにもいくまい」


 ジャミールはここに来て初めて憂鬱そうに、強い日差しが降り注ぐ晴天を見上げた。

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