蝶1


 


 緑ある中庭ホシュに沿った柱廊リワークを並んで歩く。


 もともとは隊商宿だったというだけあって、この屋敷は部屋数が多い。歩きながら見える中庭には家畜小屋もあって、駱駝がのんびりとこちらを見返している。


「飯については期待していいぞ。朝食はドゥーヤで生活していた者がつくるし、貴女の好みも伝えてあるから」


 故郷の味を口にできるのは素直に嬉しい。至れり尽くせりの身を恐縮しながらも、何事にもそつのない夫にナディアはひっそりと見惚れるのだった。



「ファラーシャ、朝飯できてるか?」


 2人が覗き込んだ厨房には、室内だというのに全身すっぽりアバヤに包んだ人影があった。二人の入室に気づいたその人がこちらを向く。

 目が合った。と思ったら、ファラーシャなる人物は、ナディアとジャミールに向けて、地べたに頭を擦り付けんばかりに平伏した。さながら王に使える臣下のように、べったりと。


「おいおい、よしてくれファラーシャ。ナディアが驚いている」

ファラーシャ、とおっしゃるの? 素敵なお名前……あの、はじまして……」


 主人に促されて立ち上がった侍女は、ナディアより少し背が高く、瞳は涼やかで、無言のまま再び頭を下げた。


「ナディアと言います。よろしくお願いします、ファラーシャさん」


しかしいくら待っても返答はない。


(聞こえた……わよね……?)


 切れ長の涼やかな目に見下ろされたナディアがそわそわと黒衣ヒジャブの裾を弄っていると、ジャミールが心得たように耳元で囁いた。


「ファラは声を失っているんだ」

「まぁ……、……それは、いたわしい……」

「そんなわけで、有能なのになかなか働き先が見つからず難儀していたのだ。王宮勤めだったのに、この街じゃそういう作法や技能も生かせず勿体なかった。貴女の世話役に適任だと思うぞ」

「王宮勤めですって?」

「ああ。あれは以前、王付きの宦官だったんだ」

「えっ!?」


 女性の格好をしているから、てっきり。


「あなた、『侍女』だって……!」

「ほかに上手い表現が見つからなくて。貴女にいきなり家のことを全部任せるのは難しいだろうし、まぁ家事手伝いみたいなものだと思ってくれ」


 ジャミールが指差す先、2人の会話を聞いていたファラーシャは手のひら程度の黒板を取り出して白亜チョークですらすらと共通語をかいた。


『奥様、お気に召さなければすぐにここを去ります』


 ナディアは再び「えっ!?」と飛び上がった。


「そんなつもりじゃなくてっ。誤解しないで、……あなたのような方に会うのが初めてだったので……とても、綺麗だからびっくりしただけ。声を荒げてごめんなさいね」


 ファラーシャはゆるく首を振って応えてくれた。ナディアはわずかにほっとして、ちらちらと新しい『侍女』を見る。

 『彼』の、伏せた目の色香と言ったらなかった。長い睫毛に、細い鼻梁。面紗プルコで覆われて、目元だけしか見えないところがまた、女であるナディアから見てもそそるのだった。年齢はわからないが、年上だと思いたい。色香という点では完全に負けている。

 ジャミールは親しげに「ファラ」と呼んだ。心得たようにジャミールに目配せして、彼はたった今できあがったばかりの皿を持ちあげた。


「冷めないうちに食べよう。ファラの焼いた麺麺エイシュは美味いぞ。外はサクッと、中はふわっとしていくらでも食べられるんだ」


 褒められたファラーシャは折り目正しく頭を下げ、食事部屋に向かう主人とその妻のあとを追って厨房の階段を降りた。

 


 絨毯の上に並べられた大皿には、ドゥーヤの朝食の定番、豆の煮込み料理と、焼きたてでぷっくり膨らんだ麵麭パン。目新しいものといえば小粒なベリーがのった具だくさんのオムレツククと、たっぷりの香草サラダ。

 二人のおなかがぐぅと主張する。見計らったかのような合唱に、お互いに顔を見合わせて噴き出してしまった。


「では。大地に感謝をいただきます


 ジャミールが食事を前に頭を垂れると、ナディアもそれにならって呟いた。挨拶一つをとってもドゥーヤとの違いを感じる。

 薔薇水に口をつけた時、ちょうど正午の鐘が鳴った。一時間ごとに鳴る鐘は、街の中心、小高い丘の上から響いている。かつてこの街に住んでいた異教徒たちの神殿で、そこに大鐘楼があるそうだ。


「昼餉になってしまったな。ファラーシャも一緒にどうだ?」


 向かいに座るジャミールは、皿を並べ終えて退出しようとするファラーシャを気さくに呼びとめた。


「構わないかな?」


 そうナディアに尋ね、彼女が頷くのを見てから、ジャミールは黒づくめのファラーシャににこやかに笑いかけた。


「我が妻の素晴らしさをお前に早く見せたかったんだ。可愛いだろ? 言った通りだろ?」


 下座にゆっくり腰を下ろしたファラーシャは、切れ長の瞳でナディアをまじまじと眺めるばかりである。


(え、ええっと……)


 2人の視線を受けて、ナディアはたじろいだ。夫が自分のことをそのように褒めてくれるのは、素直にうれしい。せめて少しでも、新しい女主人としてきちんとして見られたい。

 攫われた花嫁だとしても、不本意な結婚ではなかったとナディアは周囲に示さなくてはいけないのだ。ファラーシャの無感情な瞳を受けても、動揺したり、うろたえていたらだめなのだ。


 背を正したナディアは、「それは、取りませんの?」と、外出用のアバヤを身につけたままでいるファラーシャに目をやった。


「食べづらいのではなくて……?」

『わたしの姿を見れば、奥様がご不快になられるかと』

「どうして?」


 達筆な黒板の字を追っていると、「平気だろう」とジャミールが飲みかけのグラスを手にして言った。


「ファラ、我が妻ナディアはこう見えて懐が深い。なんせこの盗賊王に嫁ぐ度胸と、俺のすべてを許す慈愛があるからな」


 ジャミールはいつまでもナディアを褒めちぎってくれる。ファラーシャはそれをひたすら聞き流しているように見えた。


「あ、あなた、もうそのへんで……ファラーシャも、とめていいのよ」


 ジャミールは楽しげに笑い、ファラーシャはようやく外套アバヤに手をかけた。


 面紗プルコも取り去った彼は、やっぱり、間違いなく美しかった。

 無感情にも見える目元を縁取るたっぷりの睫毛と、女性たちと同じヘンナ染めの化粧。

 砂漠の光など浴びたことのないような白い肌にかかる髪は磨いた銅のような赤茶色。ジャミールと似たような長さで、首元を隠すように布を巻いている。

 一度目にしてしまえば、もう女性とは見間違えない。骨格は女性のそれとは違い固くしっかりしているし、胸だって平らだ。男くさくないが、少年という年齢ではない。しなやかで凛とした、姿勢のいい人。ジャミールを美丈夫というなら、雅な優男というのはきっと、ファラーシャみたいな人のことを言うのだ。


「なにも、不快じゃないわ」


 ナディアが心からそう言うと、ファラーシャは深く頭を垂れ床に額をついた。


 ジャミールとナディアは自分たちのたっぷり盛られた皿から半分ほどをファラーシャに取り分け、彼はそれを恭しく受け取った。


「さ、食べよう」


 ジャミールは麵麭パンにトマト煮をのせて、豪快に頬張った。見ているだけで唾が出てくる。つられてナディアも、よく焼けたパンに大きな口でがぶりと食らいついた。


「! 美味しい……! お母さまの味とは違うけど、甘い……! ここ、焦げたところも、香ばしくて好き」


 ジャミールを真似て、煮豆をサンドしてみたり、ときおり香草をつまんだりする。独特の苦味が口内をすっきりさせてくれて、いくらでも食べられそうだ。

 夢中で次々に皿を空にしていく2人を見て、ファラーシャが笑った。ほんの少し口角を上げただけの笑みだったが、それはナディアの目に焼きついた。


「お、カーラの足音だな」


 素早かったのはファラーシャで、再び外套と面紗をつけたかと思うと、影のようにナディアたちの背後に回った。どうしたの、と声をかける暇もない。

 そのあとすぐに、件の女性が柱廊からひょっこり顔を出した。


「こんにちは、ジャミール。ナディア様。この度はご結婚おめでとうございます」


 贈り物が入った籠をかかえたカーラは、にこやかな表情で床に膝をついた。


「昨日はお部屋から出てこられないようでしたので、族長らからの贈り物を私が預かっておりましたわ」


 にやにやとカーラが言うものだから、ナディアは頬を染めて絨毯に視線を落とした。ジャミールはと言うと全く動じず、むしろ姉を前にして機嫌良さげである。


「ありがとう、姉上。これで俺も一端の黒の民ドゥーランの戦士と言えるだろうか。ハーディン義兄上もさぞ喜んでくださっただろうに。まだ、消息は掴めないのか」

「実は、今日の訪問の半分はそのことで、ジャミール。お祝いの日に、あまりふさわしくない話なのだけど」

「ハーディンになにかあったの?」


 身を乗り出すナディアに頷いて、カーラが口を開こうとして──ナディアの後ろに控えるファラーシャに気づいて目を丸くした。


「あら、あなた。こんなところにいたの」

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