王子ジャミール
目を覚ました時には、あたたかな腕の中にいた。
触れ合う肌の色は違うけれど、体温は溶け合ったみたいに同じ。寸法を測ったみたいにすっぽりとジャミールの腕におさまって──ナディアは初めて、女に生まれたことに感謝した。もぞもぞと夫に身を寄せる。
(……まだ寝てる、の?)
息を詰めて男の胸板に触れれば、とくとく、静かな鼓動を感じる。
夫の腕の重みを感じながらうとうとまどろむことを繰り返していたけど、物音にはっと意識が浮上する。何者かが、扉の隙間から新しい水差しや果物とパンの入った皿を置いていったようだった。
昨日もそうだった。なるべく姿を見せないように、けれど細々と気を利かせてくれたおかげで、ナディアとジャミールはゆっくり2人だけの時間を過ごしたのだ。
(たしか、お手伝いさんを雇っているのだっけ……?)
しかしさすがに2日目にもなると、こうしてだらだらしてばかりもいられないという気持ちになってくる。
陽が昇って明るくなった部屋では、甘く秘密めいた空気もかき消えたように思える。天井窓が切り取った空は晴れ晴れと青く爽やかだ。
(さすがに寝すぎなんじゃ……新婚ってこういうものなのかな……)
ナディアはそろりと寝台を下りた。
そっと扉に近づいて気配を探るが、もうそこに人は居ないようだ。皿を手に取って、再び紗幕のかかった寝台へと踵を返す。
昨晩は気にならなかったけれど、寝台の周りは酷い有様だった。
踏まれた魔除けの花弁に、脱ぎ捨てた互いの衣服。夜の名残が散乱している。これはさすがに、侍女やカーラといえど見せられない。
「は、早く片付けないと……! 起きなきゃ! あなた、ジャミール」
骨ばった肩を、そして少年のような寝顔をペチペチとたたく。閉じられた唇に、ほんのりナディアの紅が移ってしまっているのを見つけてしまって、いたたまれない気持ちになった。掛布でぐいぐいと拭いてやる。
「起きて、ジャミール! もうお昼だわ」
さっきより強く、本当に起こすつもりで声に出してみる。
けれど彼は目をしっかり閉じたまま深い呼吸を繰り返すばかり。一向に起きる気配のない様子を見ていると、焦りがじわじわと胸の内を蝕んでくる。
(はやく起きて、ジャミール……)
何時ぞやのように、呼びかける。
(いつ? こんなことが、前にも……?)
己の手をじっと見て、ナディアは眉を顰めた。そこに描かれた花嫁のための魔除けの護符。このようなものを持って、眠るジャミールの元へ──自分は、以前にも?
考えると、どくどくと妙に胸が騒いだ。まるで思い出そうとする自分を、自分で拒絶しているみたいに。
(こういうことが昔にもあったんだろうか……どうして思い出せないのかしら)
夫の背中にある奴隷印は、今はもう上から焼かれて、引き攣った皮膚に変わっている。印を自ら消した時の壮絶な痛みを想像してナディアが泣くのをジャミールは笑って、かえって慰められてしまったのだった。
ナディアに記憶はなくとも、たしかに彼は我が家の奴隷だったのだ。
金色の髪を優しく撫でていると、ようやくジャミールが小さく身動いだ。
「ジャミール、起きてお水をいかがです? これ、そこの扉のところにどなたかがひっそりと差し入れてくださいました。カーラでしょうか?」
「あぁ……いや、カーラではなく……。あとで紹介しよう。もう昼か。おはよう、ナディア」
「おはようございます、あなた」
「身体は、辛くないか?」
「大丈夫です。いえ、節々痛いのですが、歩けないということはなく……っきゃあ!?」
喋っているうちに、大きな手が悪戯を始めるものだから、ナディアは必死に押しとどめた。
「ももももももうだめです! 明るいから! だめっ」
「ちぇ」
にやりと口の端をあげる笑い方は、彼の姉を彷彿とさせる。やっぱり姉弟だと思う反面、太陽のように輝く髪や真紅の瞳は似ても似つかない。
「ジャミールのお父様は、どこにいるの?」
「ん? どうした、突然」
寝台から抜け出したジャミールは、壁際の葛籠箱からぽいぽいと衣服を取り出しながら不思議そうに振り返った。
「父がどうかしたか?」
「あ、大したことではなく……やっぱりカーラによく似てるなと思ったんです。髪や、瞳以外は」
「そうか、そうだな。まだ言ってなかったか」
「綺麗な髪ですよね。ドゥーヤでもなかなか見ない色」
「これはなぁ。おかげで暗闇で目立って仕事がしにくいんだ。首都まで行けばこんな髪の人間もそれなりにいるぞ。お貴族様の仲間に変装する時とかは便利なんだ」
「貴族?」
彼はナディアに翡翠色の胴着を手渡し、さらに上から薄手の
「そうそう。金の髪は王家の色だから」
「お、王家……?」
ジャミールは白の
「俺の父は、現国王陛下だ。いわゆる落とし子……ご落胤というやつだな」
「落とし子って……ジャミール、お、王子様だったの?」
驚いて目を見張るナディアに、ジャミールはニヤリと笑いかけた。手をとり、
「それで貴女は、俺だけの姫君というわけだな」
「も、もう……そうやって誤魔化す……」
「生まれなどなんでもいいのさ。俺は俺だ。砂漠の盗賊王とは、自分で得た呼び名だから気に入っているが」
「王家の血を引く貴方が、どうして奴隷なんかに……?」
不思議がって首をひねるナディアに、ジャミールは彼女の手を握ったまま「うーん」と唸った。一体どんな秘密なのかと、ナディアはじっと彼を見つめた。
「俺は生まれながらに呪われていたんだ」
「呪われて……? だれに?」
「父王に」
ナディアは眉をひそめた。
「お父様に? なぜ」
「預言だと。『生まれてくる子どもが男児なら、それが王国の終わりだ』と、王宮の預言者が」
「無垢な赤ん坊に何ができるっていうの」
憤慨するナディアとは違って、ジャミールは変わらず穏やかな口調で話し続ける。
「俺が生まれたとき、国王にはすでに7人の王子と5人の王女がいた。ドゥーヤの国王は領土拡大のために外政に目を向け始めたときで、後継にはあまり関心がなかった。おまけに末の王子であるおれの母は、奴隷で──れっきとした黒の民の、頭領の娘だが──彼女は俺を生んだせいで、病んで亡くなったと聞いている。母の命を奪った災厄の末息子は、父王自らの手で奴隷の焼印を押され、わずか四歳で奴隷市に立った」
まるで吟遊詩人が物語を紡ぐように、ジャミールはすらすらと身の上を語る。他人事みたいだ。ナディアが沈んだ顔をしていると、彼は逆に眉を上げてぱっと表情を明るくした。
「ということで、残念ながら輝かしい王宮の暮らしなんぞ覚えてはおらんのだ」
「ご苦労を、されたのですね」
触れた手を大切に包み込んで、ナディアは呟いた。
両親から離され、幼くして奴隷市に立った少年を思うと胸が痛む。愛し愛される母も父もいない暮らしなど、自分には想像もできない。
それでもこの人は真っ直ぐに生きて、人を助ける義賊と呼ばれ、ここにいる。強い人だ。
「なに、そう悲観したものでもないよ。幸い、買われた先の御主人は稀に見る善人だったし、何より貴女に出会ってから、俺は変わったんだ」
「私?」
「そう。たとえ結ばれなくとも、貴女に一生、仕えるつもりだった」
「どうして、私はなにも覚えていないのかしら……」
「貴女のせいではない。これも、俺の因果だ」
彼の因果だと言うなら、妻である自分にも教えてくれればいいのに。そう思っても彼はそれきり口を閉ざしてしまった。
落とし子ジャミールにかけられた呪いはどうなったのだろう。今は呪いなんて無関係の溌溂とした健康体に見えるけれど。それから、繋がりそうで繋がらないナディアの記憶についても疑問だ。
「まぁ、難しい話は後にして、そろそろ飯にしようか。実は腹が減って、倒れそうなのだ」
家長にそう言われれば、頷くしかない。2人は揃って、寝室を出た。
実に丸一日以上ぶりの外だった。
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