遺跡の街シストゥール~ジン~

街と鐘と白い靄1

 風呂ハンマームで汗を流したジャミールとナディアは、ファラーシャをともなって駱駝に乗り、真昼のシストゥールを散策することにした。


「雲ひとつない。散歩日和だ」


 屋敷を出てからのジャミールは少年のような笑顔で、ナディアとの外出に嬉しさを隠しきれない様子だった。


「貴女と堂々と肩を並べて歩ける日が来るとは……夢のようだ。2人きりでないのはこの際、目をつぶるとして。ほら、ナディアあれをご覧」


 ジャミールが指差したのは、神殿のある丘の広場サーハの人だかりだ。

 手をかざして目を凝らしていると、カーラがすかさず飛んできて「蛇使いですね」と教えてくれた。


「ああやって旅の芸人たちが練習しているのですよ。あの一座は、これからドゥーヤの首都へ出稼ぎに行くのでしょう」

「……首都へ」


 煌びやかな一座は、山地を越えた別のバラドからやってきたそうだ。手品師に踊り子、猿の芸当、猛獣使いもいるらしく、集まった人々はその物珍しさに夢中になっている。


「シストゥールは、古くは隊商宿ハーンの街だった。砂漠越えの要所でもあり、様々な遊牧民たちの集う交易地でもあり。そういう由来で人種は様々なのさ」


 ナディアがいざ広場に踏み入ってみると、あたりに溢れる色の多さに驚いた。すれ違う人の髪の色、濃く鮮やかなテントの色。それから人々はそれぞれ、空や草木や花々を思わせる色鮮やかな布地を纏っている。


黒の民ドゥーラン、草原の民、騎馬のトゥアーグ族に、半農のドゥーマル族。みな好む色が違う。信仰の違いだな」


 男性のターバンだけでなく、女性の装いも様々だった。ナディアや女装したファラーシャのように、全身真っ黒の外套アバヤに身を包んだ者はほとんどおらず、女性のほとんどが涼しげな民族衣装を身に纏っている。

 ただ、多くの者たちの肌は白く、髪の色は明るい。ナディアのような濃い肌、黒い髪の者はいない。──この街に、ドゥーヤ人はいないのだ。


「これ、逆に目立つかしら……」


 肌の色を隠すために纏った黒い布が、色鮮やかなこの街ではかえって目を引くかもしれない。彼は「大丈夫」と辺りを見回しながら言った。


「もう市場スークは閉まった時間だし、人通りは少ない。念のため、ご婦人たちの多い給水泉サビールあたりは避けようと思うが」

「ドゥーヤ人がいるぞって、急に襲われたり、しない?」

「しない、しない。万が一何かあっても、俺やファラが気づく。そもそも貴女が身を隠す必要はないのだが……まぁ、互いに慣れるまでは仕方がないな」


 日よけにちょうどいい御柳タマリスクの日陰で立ち話をする人たちが、駱駝に乗ったこちらに気がついたようだった。片手をあげてジャミールがそれに応える。

 彼のそばにいると、周りの目を引くのだ。道端で遊んでいた子どもたちが好奇心に満ちた目で駱駝に駆け寄って来る。


「ジャミール、後ろに乗ってる人、だぁれ? その黒い布、とってもきれいな刺繍が入っているね。カーラが織ったの? ねぇ、その人どうして隠れているの? お姫様なの?」

「ああ、そうだよ。俺のお姫様だ」

「ジャミールの? ええっ? 今度はお姫様を攫ってきちゃったのぉ? ほんとにぃ?」


 ジャミールは慣れた様子で、目を輝かせながら必死に上を見上げている子どもたちに応えてやっている。ナディアは幼い子どもの勢いにひるんでしまって、さっと夫の背に顔を伏せた。それがますます子どもたちの興味を惹いたらしい。


「うそだろぉ? その人、ファラーシャとおんなじ格好してるじゃん。その人も『カンガン』なんじゃないのぉ?」


 少年はなんとか顔を見ようと飛び跳ね、少女たちはナディアの全身を上から下までじろじろ眺めている。


「日焼けじゃないわよね、その色。ジャミール、その人、もしかしてドゥーヤ人?」

「えっ、そうなのぉ? ドゥーヤのお姫様ってことぉ?」

「こんな人、お姫様なんかじゃないわよ!」


 少女の一人が、甲高く叫んだ。周囲がにわかにざわつく気配に、ナディアはますます身を縮こませた。


「彼女には、ナディアと言う名がある。そして、俺の花嫁さんだ。今日からこの街で暮らす。よろしく頼むぞ」

「エーッ!? ジャミールの、花嫁さん!? うっそぉ!? お母ちゃーん! ジャミール、結婚したんだってぇー!」

「嘘、ジャミール、結婚したの……!?」


 先ほどの少女が、悲痛な叫びで頬を押さえている。

 栗色の大きな瞳が、ナディアの手の甲の花嫁の護符を見つけると、みるみるうちに涙をためて、やがてぽろぽろと泣き始めてしまった。


「最悪。よりによってドゥーヤの女なんて!」

「タマーニャ。俺の花嫁は、最高の女だぞ。そのように泣く必要なんてない」

「うるっさいなぁ! ジャミールの、ばか!」


 少女はナディアの方をキッと睨み、涙をぬぐいながらテントの中に走って逃げ込んでしまった。周りを囲んでいた子どもたちも、チラチラと振り返りながら連れだって去って行く。

 広場の隅から、遠巻きにこちらを観察している大人たちを呆然と見やる。カーラが人混みをかき分けて、気まずげに近づいて来た。


「お嬢様、気に病むことはありませんからね、長らくドゥーヤで暮らしていた私も、戻って来た当初は似たようなものだったんです。私たちはとても、ドゥーヤ人との関係に敏感なのです。……仕方ないんです」

「うん、いいのよ。……わかってる、つもり」


 けど、子どもの泣き顔は胸に刺さる。

 ジャミールが手綱を引くと駱駝がのんびりと歩みを再開する。


「姉上の言う通り。あまり気にするな、ナディア」

「……、……あの子。きっと、貴方のことが好きだったのね……」


 ナディアがぽつりとこぼすと、ジャミールは振り返って、ナディアの腕を自分の腹に回させた。


「『盗賊王ジャミール』に憧れる子どもは多いんだろう」

「子どもたちの英雄ヒーローなのですね。わかります。私も昔から、そういうお話が好きだったもの」

「あの子の姉や兄は、行商の帰り道、攫われたんだ。ドゥーヤの人買いに。俺はそのとき、助けてやれなかった。よく覚えている」

「そうなの……」


 建物の陰で、大人たちがこそこそと噂している気配がする。耳の良いジャミールはいくつか会話を拾っているようだが、どんな内容なのか教えてはくれなかった。


(彼らの気持ちもわかる。でもどうすればいいのかしら。この街で暮らすなら、『悪人』として何を言われても我慢すべきだ、なんて風には思いたくない……)


 考え込んでしまったナディアに向かって、ジャミールが明るく言った。


「さて、シストゥール観光も大詰めかな? 集会場はすぐそこだ。俺はそこまで。あとはカーラとファラに任せるとしよう」

「まぁ、あっという間……崖から見下ろしたときは、とても広そうに見えたのだけど」

「近くに馬場がある。アリラトに顔を見せてくるといい」

「行っていいの?」

「ああ。だがもう少し、今は俺と景色を楽しんでくれよ」

「はい、あなた」


 シストゥールの街はなだらかな丘の上にあるせいか、日差しが強い気がする。

 砂漠特有の焼け付くような暑さとは少し違うけれど、ドゥーヤらしい全身を覆うタイプの外套は強い直射日光を避けるのにも人の視線を避けるのにもちょうどよかった。

 駱駝のゆっくりとした歩みにまかせて散策をしているうちに、雲がかかり日が陰ってきた。丘の上の大鐘楼が、午後3時の鐘を高らかに響かせる。

 駱駝を引いていたファラーシャが足を止める。目を閉じて、その場で黙祷をしているのだと気づいた。


「……ねぇ、ファラーシャはどうして女装をしているの? さすがに髪まで隠す必要はないのではなくて……?」


 駱駝の手綱を引くファラーシャに呼びかける。彼は目線だけちらりと寄こすのみで再び前を向いてしまう。とたんにカーラが食ってかかって言うのだった。


「ちょっと、少しは反応したらどうなの? いつも持ってるんでしょ、あの黒板。だいたいあんたもうちょっと自己主張しなさい。言われっぱなしでムカつかないの?」


 ファラーシャは迷惑そうに眉をひそめて、わざとらしく耳を塞ぐ。


「あ、あんたね……そういうところが私のカンに触るってわかってやってる?」


 つんと澄ました美青年は、もはやカーラの方を見向きもしない。カーラはわなわなと肩を震わせ、この際だからとありとあらゆる文句をファラーシャの耳に注ぎ続けた。傍から見れば、仲がいいように見えなくもない。

 ナディアはちょっとばかり笑って、「もう、2人とも」と、仲裁役を買って出た。


「女装はな。彼もまた、自身の姿を他人に見られたくのだそうだよ」


 ファラーシャの代わりに、ジャミールがナディアに答えた。

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