ウチの猫

 彼は一匹の猫を飼っていた。

 サバトラ模様の雑種で、かれこれもう五年近く一緒にいる。病院以外では外に出たことのない、完全室内飼いの猫だ。



 最近、彼はよく考える。



 外の世界を何も知らず、狭い部屋の中で一生を過ごす。猫にとってそんな生活は幸せなのだろうか。

 確かにここにいれば、自分が突然倒れでもしない限り、猫は飢えも凍えもせずにすむだろう。


 けれど。


 太陽の下で風を感じて自由に歩き、鳥や蝶を追って駆け回る。そして仲間と語らい、喧嘩も恋もして、いつの日か家族をもつ。

 そんな生き方こそ、猫が本当に望んでいたことなのではないだろうか。


 最近の猫は、彼の帰宅直後こそ夕飯欲しさに甘えてくるものの、その後はほとんど寝てばかりいる。

 この暮らしに飽きているのかもしれない。

 もしもそうなら、出来るだけ長生きをして側にいて欲しいと願うことさえ、単に自分のエゴでしかない気がするのだ。


「なぁ、お前本当はどう思ってるんだ?」


 丸くなって眠る猫の背を撫でながら尋ねる。猫は薄目を開けて声にならない声で応えたが、それが果たしてどんな内容なのか、彼には勿論分からなかった。





 そんなある朝のこと。

 出社支度をして玄関に立った彼は、ふと肩についた猫の毛に気づいた。つまんで一本取ったが、追加で三本発見したところで諦めた。衣類についた猫の毛は一本見たらその数十倍はあるとか無いとか。

 けれど、これも猫飼いのみに許された特権だと思えば、むしろ誇らしい気さえしてくるのだった。


 気づけば猫はいつものようにこちらを見上げている。見送ってくれているのか、まんまるの大きな目でこちらを見つめ、にゃあと鳴いた。


「じゃ、行ってくるよ。寂しいだろうけど、留守番頼むな」


 手を振る彼の姿が向こうに消え、扉が閉まる。外側から鍵をかける音、そして遠ざかる足音。





「……………」





 聞き耳を立て、その足音が僅かでも届かなくなるまで見送ると、猫はくるりと踵を返した。

 リビングのソファ。そのお気に入りの場所に陣取り、香箱座りで目を閉じる。といっても眠っているわけではない。耳をすませ、鼻をひくつかせ、髭をピンと伸ばして、意識を集中させているのだ。彼と共にある、自分へ—。









 数日ぶりに気持ちよく晴れた空の下、彼は足早に駅へと向かっていた。肩についた猫の毛が陽の光をいっぱいに受け、風にそよいでいる。

 

 —その頃、ソファの上の猫は気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。

 やっぱりお日様の光は、窓越しよりも直接浴びるのが一番気持ちがいい。





 うんざりするような満員電車。その中に押し込められて熱気と圧に辟易しながらも、彼は眠気に負けてウトウトとしていた。


 —同じ頃、猫も心地よい暖かさに何度もウトウトとしかけては、四方から押されて目覚め、不満げに尻尾を振った。

 せっかく素敵な寝床なのに、人間はなんて勿体無い使い方をするのだろう。

 

 



 会社では、上司から大至急の仕事を頼まれた。締め切りは明朝で、就業時間内にはとても終わらない内容だ。残業はいいとしても、夕飯が遅くなる猫のことが心配だった。


 —間髪入れず、猫はパチリと目を開き、心配無用とばかりに自信に満ちた声をあげた。

 多少の空腹も我慢できない子猫ではないと、例え聞こえずとも主張してみる。





 昼食を買いに出たコンビニからの帰り、少しだけ遠回りをして近くの公園を通る。犬を連れた老婦人とすれ違いざま、他にも人はいるにも関わらず、彼だけが吠えられた。

 どうも近頃犬には好かれない。猫の匂いでもするものだろうか、と彼は首を傾げ、スーツの袖元を嗅いでみた。


 —吠えられるより先に、猫は負けじと体中の毛を逆立て唸り声をあげていた。

 それから、自分の良い匂いが彼にもっと沢山つくように、丁寧にグルーミングをした。





 終業時間になり周りが続々と帰宅していく中、黙々とパソコンに向かう。

 そんな彼に「頑張ってね」の声と共に差し出された缶コーヒーは、隣の席の女性から。気さくに話せる良い仲間だと彼は思う。

 遠慮なく受け取り、すぐに前へと向き直る。だから、その後の彼女の視線には一向に無頓着だ。


 —しばらく二人を見守った後、猫は呆れて大欠伸をした。これほどの好意の匂いが分からないのは人間だからか、それとも彼が鈍感なだけか。

 いずれにしても自分のような嗅覚の無い人間は不便だと思う。


 



 ようやく仕事を終えて会社を出てみれば、既にすっかり夜も更けていた。頭上に輝く大きな満月に、彼は思わず足を止める。

 猫と一緒に見られたらいいのに、と願う彼の肩。そこに朝からついたままの猫の毛が、月明かりを受け銀色に光る。


 —猫は同じ空を見上げていた。たとえひとりぼっちの暗闇の中でも、その透き通った瞳には美しい満月が映る。そして、彼の温もりを確かに感じている。

 だからちっとも寂しくはない。そう、彼に伝えたかった。








「ただいま。遅くなってごめんな」


 全てを見て感じていた猫は、彼が一日どれだけ頑張ったかをちゃんと知っている。

 だからこそ一目散に玄関まで出迎え、まずは全身でありったけの「おつかれさま」を伝えるのだ。

 それからやっと、待ちに待った夕飯を食べる。そしてお腹がいっぱいになったなら、あとはぐっすり眠るだけ。


 彼と一緒に迎える明日は、きっとまた新しい出来事が沢山待っている—そんな期待に胸を膨らませ、今夜も猫は大好きな彼の傍らで眠りにつく。


「また寝てる。…やっぱり退屈なのかな。何か新しいおもちゃでもネットで探すか」


 猫の心、飼い主知らず。

 けれども、そんな彼の心配を他所に、猫は充分幸せなのであった。

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ショートショートの世界(陽だまりの部屋) 柏木 慎 @pata_mon

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