心残り

 うちの猫が死んだ。

 ハナという名の、十六歳の雌猫だった。

 それから何も手につかない。

 人間に当てはめたらそれなりに長生きしたよ、などと慰められても何の気休めにもならなかった。


 お気に入りだった場所。ボロボロになるまで遊んだおもちゃ。食器もトイレも、全てそのままなのにハナだけがいない。


 もっと遊んであげればよかった。

 もっと健康に気を配ってあげればよかった。

 もっと優しくしてあげればよかった。

 もっと一緒にいてあげればよかった。


 ハナはここで、少しでも幸せでいられたんだろうか。考えようとしても、押し寄せてくるのは後悔ばかりで。だからなのか、思い出すハナはどこか悲しげで、僕は益々辛くなった。

 

   ◇◇◇◇◇


 落ち込み続ける飼い主の傍。ハナは必死に鳴くが、何度繰り返しても飼い主には届かない。

 あれからずっとここにいるけれど、流石にそろそろ時間らしい。空の向こうからはとても良い匂いがして、しかもそれはどんどん強くなっていた。早くおいでと、ハナを誘うように。


 けれどハナには最後に一つだけ、どうしても無くしたい心残りがあった。


 −いつものように名前を呼んで−


 ハナは飼い主に名前を呼ばれるのが大好きだった。少し低いけれど、穏やかで心地良い声。

 今の泣きそうでボロボロの声が最後なんて、絶対に嫌だと思っていた。

 それを何とか伝えたくて、辺りを見回し考える。


  ◇◇◇◇◇


 窓際で突然、音がした。

 驚いて顔を上げると、束ねたカーテンの一方が微かに揺れている。


「ハナ…?」


 お腹が空いたり遊びたかったり、何かおねだりする時、よくハナはカーテンにしがみついた。そしてこちらをチラ見するんだ、甘えるように。僕がその顔に弱いって知ってるから。


 ハナの表情を思い出すと自然と顔が綻び、その拍子に涙が溢れた。

 まるでハナがそこにいるみたいだった。

 いや、確かに僕には見えた。

 だから、いつものように呼びかけてみる。


「ハナ。何が欲しいの?」


 それを聞いたハナの幻は、満足したように一声鳴いて消えた。

 ああ、そうだった。いたずら好きで、でも僕が落ち込んでいると必ず寄り添ってくれる優しい猫。 

 そう気づけば、思い出すハナの顔は幸せそうないつもの顔に変わっていた。

 結局、最後まで僕が心配させていたのか。

 ありがとう、ハナ。ごめんな。


  ◇◇◇◇◇


 ハナはとても嬉しかった。

 聞きたかった声、ずっと見たかった顔が見られたから。

 だからその大きな目に焼きつけた、大好きな声と顔が消えないうちに行くことにする。


 −ありがとう。とても、幸せ−


 


 互いの感謝で満たされた部屋には、いつしか日の光が暖かく差し込んでいた。

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