まだ言えない“好き”の代わりに

 小さな路地に曲がる交差点。明日香と宏典はどちらともなく自転車を止めた。


「何か急に寒くなったな」


宏典は後ろを振り返りながら声をかける。


「ほんと。やっぱりマフラー持ってくればよかったなあ」


明日香は自転車のスタンドを立てながらそう答えた。


 12月も半ばの夕方。高校からこの交差点まで一緒に帰るのがいつの間にか日課になっていた。そしてここで日が落ちるまで立ち話をしてしまうことも。


「今週なんだか長かったな」


「うん、やっと終わったって感じだね。小テストとか多かったし」


何てことない日々の、何てことないあれこれを、宏典と一緒に噛み締め直すような、そんな時間が明日香は好きだった。


 初めは横顔を見るだけで嬉しくて。目線があっただけで胸が高鳴って。遠くで声が聞こえるのが分かって。それだけで十分だと思っていたのに、この気持ちはそれだけじゃ満足できなくなっていく。


 傍にいたい。

 見つめてほしい。

 触れていたい。


 満たされれば満たされるほど、もっと欲しい物が増えていった。誰かを想うってそういうことだと分かっているけれど、それでも自分がどんどんわがままで欲しがりになっていくような、切なさと恥ずかしさで時々宏典の目を真っ直ぐ見られなくなる。


「明日香」


不意に名前を呼ばれる。それだけのことなのに、明日香は顔が熱くなるのが分かった。ただ名前を読んでもらえることが、こんなに嬉しいなんて。


「ん?なあに……?」


口が回らなくて、呼ぼうと思った宏典の名前はもにょもにょと埋もれてしまった。


「ぼーっとしてた?大丈夫?」


「うん、大丈夫」


顔に、声に、全身から宏典への想いがこぼれていそうで、それを必死に隠そうとする明日香は冷静でいようと思うほどに胸の鼓動が早くなっていった。


「じゃあまた明日!」


心待ちにしていたこの時間もあっという間に終わってしまう。既に空は夕陽と夜空を一緒に溶かしたような深い紫色になっていた。


 宏典が肩の高さで手を振った。優しい笑顔に一瞬夕陽が重なって、明日香は少しだけ目を細めた。


 また明日。


当たり前のように明日も会える。それだけでこんなに胸が高鳴るのに、一緒にいる時間が増えるほど、それだけではもう足りないと思う自分がいた。


 この気持ちを言葉に出来なくて、溢れそうな思いが心の中でいっぱいになっていく。


「あの、さ……」


呼びかけた声は掠れてしまう。自転車のペダルに足をかけた宏典の耳には届いていない。行ってしまう、いつものように。でもいつも通りじゃイヤ。明日香の手が無意識に宏典の背へと伸びた。


 3年間着古して少しくたびれた学ラン。その裾をかじかむ指先で明日香は小さくつまんで、きゅっと引っ張った。


 心拍数が急に上がる。こんなに寒いのに、体中が火照っていた。


 宏典はすぐには振り返らなかった。その背中を明日香はいじましいほどにじっと見つめていた。


 まだ言えなくて。この気持ちは間違えようがないけれど、それでも明日香はまだ伝える勇気がなかった。言おうとすると真っ直ぐに目が見られなくて、心の中の柔らかいところを宏典の前にさらけ出すような恥ずかしさで、心臓が一回り小さくなるような気がした。


 でも本当は言いたいんだよ。伝えたいの。どんなにあなたのことを想っているか、どんなに大事に感じているか、どれほど傍にいても足りないほどあなたのことを考えてしまうのかって。


 叫ぶほどに思っているのに、明日香の口はぎゅっと引き結ばれたまま、言葉を紡ぐことは出来なかった。ただ指先が赤くなるほど、強く強く学ランの裾を掴んでいた。


 宏典がゆっくりと振り返る。そして明日香の手をそっと掴んで持ち上げる。


「手、真っ赤じゃねえか。風邪引くぞ」


明日香は落ち込む気持ちを隠せなかった。裾を掴んだことに触れないのは、話題をかわされてしまったと思った。宏典の手は、びっくりするくらいに温かかった。けれどその温度を感じたときには、もう手は離れてしまっていた。


 少し目線を落とした明日香の首に、急にもふもふとした感触がする。


「えっ」


自分が巻いていたマフラーを宏典が素早く解いて、明日香の首に巻き付きていた。


「明日返せよ、じゃあな」


そう言うが早いか、宏典はペダルに力を込めると今度こそ自転車で走り去ってしまった。


「頑張ったのに……」


宏典は何にも悪くないと頭では分かっているのに、口から出てきたのは拗ねた子どものような言葉だった。


 でも明日って言ってくれたから、いいのかな。


「あれ、明日?」


明日は土曜日。しかも、私の誕生日だ。


 もしかして……わざと?


「……バカ」


巻かれた白いマフラーが愛おしくなって、明日香は両手でギュッと握りしめた。残っている宏典の温もりと、微かな彼の匂いがしてまた心臓がドキドキし始めた。



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茅原実里『ありがとう、だいすき』に敬意を込めて

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