Prologue

 西日が教室の窓から強く差し込んでいる。


「幸せになりたくないんですか?」


詰め寄るような少し怒気を含んだ少女の声。少年は彼女を一瞥することもなく、机に浅く腰掛けるようにして黒板の方をぼんやりと眺めている。


「この世界にはね、僕の分の“幸せ”は初めから用意されていないんだ」


感情を感じさせない平坦な語り。それはまるで用意された舞台の台詞のようだった。何度も何度も口にして、既にその言葉自体に意味を含まない、ただ音の羅列のような軽さで少年は諳んじる。


「……なにそれ、意味分かんない」


少女は窓辺から離れて少年の傍に近づいた。上靴が床を蹴る音が静寂の教室にやけに大きく響く。ゆっくりと顔を反らそうとする少年の肩をむんずと掴んで、少女は正面から彼の顔を捉えた。


 泣いていた。


 一瞬の後に少年は肩に置かれた手を乱暴に払いのけると、机から飛び降りて少女から数歩離れた。予想していなかった少年の言動に、少女は虚を突かれて立ち尽くす。


「僕には……僕はね……、僕のせいで不幸になった人はたくさんいても、僕が幸せにできる人なんていないんだ。僕にそんな力ないから。幸せになりたいってどんなに願ったって、そんな僕自身のための“席”が用意されてるわけ無いだろ?」


すっと息をつく。


「僕の周りの人がみんな幸せになって。一生分の幸せを手にして。それでも世界に幸せが有り余っていて。そのへんの道端にごろごろ転がるくらい余ってて……。そんな日が来たら、そのときは、その時は僕も一欠片くらいは拾ってもいいんじゃないかって思ってるよ」


そうまくしたてると少年は、ははっと乾いた短い笑い声を立てた。


「ごめんね、君に話すようなことじゃなかったね」


少年は最後の言葉を残して教室を出ていこうとする。今引き止めなければ、もう二度と彼は戻らない。そのとき少女は何故か強くそう予感した。


「じゃあ!」


去ろうとする少年の背中を呼び止める。彼はぴたりと立ち止まった。


「幸せなんてこの世界に掃いて捨てるほどあるから。あなたが拾わないなら、私が片っ端から拾って届けてみせるから!」


ふふっと少年が鼻で笑う音が聞こえる。


「何を根拠に……」


振り向いた少年の目の前に少女の顔が見えた刹那、言葉の続きを遮られ、その口は少女の柔らかな唇が塞いでいた。たった数秒のこと、あるいは1秒もなかったかもしれないほど一瞬。


 少女はほんの少しだけ離れると、小さくつぶやいた。それは決意か、祈りか。言葉を紡ぐ唇は再び触れてしまいそうなほど近い。


「私が幸せにしてみせるから」


そのキスは涙の味がした。

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