第22話4-2待つばかり

 晴美はその日もウイッグをかぶって外に出ました。大学に行くというわけでもなく、外で気晴らしをしたかっただけである。ウィッグをかぶっているのは、変身願望を持っているからである。

 心夢が劇団員になったように、男が作品の登場人物に憧れたように、晴美も何かしらの憧れに投影する願望を持っていました。それは姉に対する憧れであり、その象徴として長髪があります。2重人格と言ったら大げさですが、短髪の時の自分と長髪の時の投影者とを使い分けているのです。

 ジリジリと灼熱地獄のようなコンクリ道を歩いていき、地獄の刑罰を思い浮かべていました。釜茹で・針千本・川原で石を重ねる、それらの地獄は死んだら本当にあるのかと思いながら歩いていると、石を重ねる場所としてうってつけで針千本落ちていそうで釜茹でのように熱くなってそうな川原にたどり着きました。そこは彼女がよく散歩するコースの1つであり、特に珍しいところではありませんでした。

 晴美は祖父を落とした橋の上で佇んでいました。その目下には川の底が深く黒く晴天の光を拒んでいました。あそこにはこの世界と違う別の世界があると昔の人は想像していたのではないかと、晴美は物思いにふけていました。


「やぁ、こんにちは」


 男がいました。それは晴美の今までの散歩にはなかったイレギュラーな出来事でした。晴美はいつもどおり対応しました。


「こんにちは。久しぶりですね」

「久しぶりってほどではないでしょ」

「そうですね。最近会いましたよね」

「あの節は失礼しました。ご迷惑をおかけしましたね」

「いいえ。とんでもないです」


 快活かつ丁寧に話す男に対して、晴美はたわいもない会話をし、相手の言葉を受け流していました。相手を騙すためには適度に本当の事を混ぜるのが適切と言われており、そのタイミングを晴美は見計らっていました。男はそんなことを気にもせずに明るい太陽にかぶさるように熱く語りました。


「それであれから考えたのですが、僕はもう憧れを持たないで行こうと思いました。本も売りに出して、今のバイトに精進するだけでなく、正社員も目指そうと思います。僕なりに行動を起こそうと思います」

「それは立派ですね」

「あなたのように劇団員にはなる根性はありませんが、作品の登場人物のようにはなれませんが、自分の生活の延長線上で少し行動を起こしてみようと思います。変な話、あなたも言っていましたがたしかに殺害を疑って普段会わない親戚に探りを入れに行くような行動をする根性があれば、何でもできると思います。それに、あなたや妹さんと話をして自分なりにケリをつけて前向きになれたと思います」

「……あのー」

「ところで、コロナの給付金は貰えましたか? いや、そんなことよりも、劇団の方はうまくいきそうですか、いや、小説の方ですかね、今は? それと、妹さんは元気でいますかね、迷惑をかけてしまって申し訳ないのです」

「私が妹です」


 晴美は姉ではなく妹だと言うタイミングを見計らって何回も首を落としていましたが、ようやく言うことができました。こんな違う理由で言うタイミングを見計らうことに徒労を感じていました。男は意気揚々と大手を振って歩いていると落とし穴に落ちたような面食らった顔をしていました。


「そんな馬鹿な、僕をからかっているのですか? いくら僕でも、って僕がどれくらいのものかわかりませんが、あなたたち姉妹を見間違えることなんてないですよ。髪の毛も長いではありませんか」

「これはウィッグよ」


 晴美はウィッグを外しました。のれんのように長い髪に隠された向こう側から男が見たのは、汗を蒸したショートボブの妹でした。男は入れ替わりトリックを実際に見た驚きで、顎が外れそうになっていました。


「カツラ?」

「えぇ。カツラよ。私はウィッグと呼んでいますが」

「なるほど、見間違えましたよ……」

「どうしました?」

「いえ、1つ気になったことがありまして」

「何?」


 男は手のひらで顎を上に押し込みながら脳のスイッチを押しました。晴美はその顎を押し込む動作が気になって笑いそうになりましたが、さすがに失礼だと思い我慢をしました。箸の上では風が吹き始めました。


「これは言っていいものなのかわかりませんが……でも、こればかりははっきりさせないと……いや、そんなはずは」

「どうしました?」


 男は手のひらをそのまま鼻と口のところまで上げて、考え始めました。晴美は本当に笑えない雰囲気になっている中、沈黙する男に催促するのを我慢していました。太陽が雲に隠れ始めました。


「――妹さん。あなた、普段からそのカツラをかぶっていますか?」

「普段ではないけど、たまには」

「それは、いつからですか?最近ですか?」

「どうだろう。1年前か、半年前か」

「つまり、祖父の死んだ時にはすでにお持ちで?」

「そうだと思います」

「なるほど、これは困ったぞ」

「どうしましたか?」


 男は再び石のように沈黙しました。晴美は相手を騙すために適度な真実を述べたのですが、計算通りなのですが、すごく嫌な予感がして胃の中に石が入ったような腹痛を覚えました。2人に影が襲いました。


「いやね、僕が見た殺人犯が、あなたではないかということです」


 川のしぶきが橋の上まで跳ねました。その水しぶきが晴美の顔に掛かり、汗をかいているように見えました。互いに沈黙の中、視線を外しませんでした。


「――どうしてそうなるのですか?」

「僕は長髪というだけであなたの姉さんをそう思っていました。実際、後をつけてたどり着いたあの家で長髪の若い女性はその1人だけですからね。それで僕はその1点に集中して探りを入れたのです」

「でも、違うのですよね」

「そうです。あなたの姉さんは違ったのです。犯人はあなただったのです」

「そんな証拠はないですよね」

「証拠はありません。それは姉の時もそうでした。でも、不思議と自信があるのです、今回は今まで以上に」


 男は目の中に炎のような熱いものを迸て体を焼け石のように熱くさせました。晴美は冷たい氷のような目を奥の方に隠していたのですが、動揺したのかそれが溶けて目がうるうるとなっていました。2人の間にはその精神的な温度差によって蜃気楼のようにぼやけている関係性が浮かび上がっていました。


「それは気のせいでしょ」

「給付金を貰えないと思ったあとにもう一度調べたら可能性が出てきたようなものです、あなたの姉さんの気持ちで言えばね。たしかに気のせいかもしれませんが、可能性が出てきただけでも儲けものです。審査が通るか分からないがとりあえず申請する気分とはこういうものなのでしょうね」

「そんなことに巻き込まないでください」

「巻き込まないでください?それは僕のセリフですよ。おそらくあなたでしょ、僕を巻き込んだのは?」

「だから、違うって」

「違うと思うのなら、僕の検証を手伝ってください。そのカツラをかぶってください。そして、人を落とす真似をしてください」

「ちょっ、痛いわよ」


 男は晴美の左腕を右腕で力強く握りました。藁をも掴む思いで崖の絶壁に捕まるような握力の入れようでした。晴美はその痛みに顔を引き攣りましたが、男は何かしらの強迫観念に引っ張れているかのような痛々しい顔でした。


「あの日は暗かったからわかりませんでしたが、もしかしたらあなたが長髪なら全てが鮮明に思い出すかもしれません。すべてが合点行くかもしれません。早くあの時の真似をしてください、お願いします」


 男の貴族のような高圧的ながらも乞食のような嘆願的な態度に、傲慢かつ優しい体の揺すり方に、晴美はおずおずとウィッグを頭の方に持って行きました。ウィッグは男に揺らされている晴美の影響か、ただ単に晴美が体を震わせている影響か、どちらにせよ揺れていました。そして、片手しか解放されていないことも合わさって、ずれながらの装着になりました。


「――これでいいの?」

「いいですね。こうやって犯行現場で容疑者に検証してもらうと、すごくそれらしく感じられます。たいへんしっくりきて、僕には犯人にしか見ることができません。でも、やはりどこまで行っても証拠にはならないのが悔やまれます」

「どうしたらいいのですか?」

「そんなの、簡単ですよ。あなたが自白すればいいのですよ。警察に行って、私が祖父を殺しました、と言えばいいのですよ。それですべては解決しますよ」


 男は腕を離さず、さらに強く右手で握り、興奮した鼻息でした。晴美は自分の秘密がバレそうだという恐怖もさる事ながら、目の前の男の存在そのものに恐怖を感じ始めました。手を払いたくても、呪いのように余計に強く食い込んでいきます。


「そんな一方的な」

「一方的ではないですよ。僕は聞かれたから提案をしただけです。こんなこと、あなたが僕を騙したことに比べたら一方的でも何でもないですよ」

「さっきから、言い方が一方的よ」

「一方的とはこういうことを言うのです」


 男はもう片方の手で晴美の首を持って橋から落とそうとしました。晴美は橋の手すりに背中を逆エビのように反らせて悶えていました。その風景は、祖父が死んだあの嵐の日のようでした。


「ぐぁ、はぁ」

「どうですか? これがあなたが祖父にしたことですよ。一方的で理不尽だとは思いませんか、どうですか、ねぇ?」

「げぁ、ごぉ、はぁ」

「でもね、僕はあなたと違って理不尽な一方的なことはしませんよ。あなたが犯行を認めたら離してあげますよ。だからあなたは、もし助かりたいのなら、自分のしたことを悔い改めるのであるなら、自分の犯行を認めてください」

「がぁ、ぎゅ、ぢゅあ、ほぉ」

「さぁ、どうです? このまま死にますか、それとも自白しますか?あなたはいったいどっちの立場になるのでしょうね?」


 男は更に更にと押し込んで行きました。晴美は抵抗しても、川に落ちていったウィッグに頭が近づいていくばかりでした。このまま落ちていくのを待つばかりでした。


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