第19話3-4信じる
晴美は家に帰りました。冷房が効いて外の暑さなんか何のそのといった感じの空間の中で、心夢は外を眺めながら立っていました。心夢と晴美が会話します。
「姉さん、私またあの男の人と話をしたわ」
晴美はソファーに腰を下ろしながら椅子に座りキーボードに打ち込む心夢に話しかけました。心夢はキーボードの音を机の上に置いて、椅子を回して晴海の方向を向きました。足を組み偉そうな態度の心夢と足を閉じて大人しそうな晴美が見つめ合いました。
「私もしたわ」
「あの人、姉さんが殺意を持って殺そうとした場面を見たと言っていたわ」
「ええ。言っていたわ」
「どうするの? 私、自信がなくなってきたわ」
晴美は心身ともに寒くなり、唇を青くさせながら震えていました。心夢は天井を見上げながら、その視界はめまいショットのようにピントがずれました。めまいのなったと思い目を数秒閉じた後、そのまま口を開きました。
「――それが目的でしょうね」
「どういうこと?」
上目目線で姉をおずおずと見た晴美を、心夢はゆっくりと顔を下ろしながら見下すように見下ろしていました。晴美は姉がいつもと違う奇妙な神々しいものに見えるところが有り、気後れしていました。心夢は静かにゆっくりと顔を下ろすと、目をギロリと爬虫類のように開けて、晴美の目の中の自分を見ていました。
「自分が正しいとハッタリをかましているのよ。わたしもいきなり言われたときは信じてしまいそうになったけど、どこまでいっても証拠がないのよ。今冷静に考えたら、私の記憶の方が確実だと思うわ」
それは深淵の淵を眺めた時には自分も深淵の淵にいるという面持ちでした。それは、どこかの有名な哲学者が言った言葉のようなものですが、正確な意味がわからないのでそういうニュアンスだと勝手に解釈して話させていただきます。そして、そういう勝手な解釈による不安定な会話はここでも行われていました。
「そうかしら」
「どうしたの?」
「たしかにあの人は怪しわ。それに、いきなり殺害現場を見たと言うともっと怪しいわ。でも、どうしてそんな怪しいことを言うの?」
晴美は探偵かぶりのように疑いを持ち始めました。それは無条件に信用しているはずの姉を疑うものであり、場合によっては親からの巣立ちとして喜ぶべきようなことかもしれません。しかし、今回は不穏な雰囲気を漂わせるものであり、外の晴天が厚い雲に覆われて静かな暗がりが部屋の中を襲っていました。
「さぁ? 探りを入れに来たんじゃないの?自分でもそう言っていたし」
「でも、タイミングが急すぎるというか、変じゃない?」
「そうかもしれないけど、ちょうどいいタイミングっていつなの? もしかしたらあれがちょうどいいタイミングかもしれないわよ。本人も言っていたけど、これ以上黙っていても進展がないから言うしかなかったんじゃないの?」
「そうなってくると、計算で言ったわけじゃなくなるんじゃないの? 本当に見たけど言えなかった人が我慢できずに言ってしまったんじゃないの? 本当に姉さんが殺人を起こしたことになるんじゃないの?」
ついに言ってしまいました。窓はガタガタと音を鳴らしていました。今日の部屋の中は涼しすぎるくらいに2人は感じていました。
「――そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。事実、わたしも記憶が曖昧になってきて、自信がなくなってきたわ」
「でも、小説では事故だと」
「私はそう思って書いたわ。でも、それが記憶違いかもしれない。嫌な記憶を自分の有利なように書き換えたかもしれない」
「そんな……じゃあ、本当に姉さんが?」
部屋の冷気と外の熱気との温度差によって、窓ガラスには歪んだ空間のようならせん状の波が生まれました。外から覗くとそこには2人の女性が飲み込まれているように描かれていました。蟻地獄のように渦のように逃げられない何かが2人を囲っているように見えますが、さてさてどうなるのでしょう。
「わからないわ。正直言って。自分では殺していないと思うけど、証拠がないの」
「私はどうしたら」
「自分の信じた方を信じなさい」
「自分の……」
晴美は言葉を失いました。姉から突き放されたことにより自分を支えていた何かを1つ失った気分でした。晴美はまだ姉離れできていないようです。
「少し日本語がおかしかったわ。自分の……正しいと思った方を信じなさい。私のことは気にせず、あの人が正しいと思ったらそっちを信じなさい」
「そんなこと言わないで。そんなこと言ったら、姉さんを放っておけないじゃない」
「そうよ。そういう作戦よ」
「何を冗談言っているのよ」
「そうね。悪い冗談ね、このタイミングだったら」
心夢は悪者のような毒々しい影を顔に落としていました。それを見た晴美の顔にも絶望のような暗い影が覆われていました。晴美は影を払うように手で垂れた前髪を後ろにお仕上げていました。
「そうよ。このタイミングじゃないわ」
「でも、あの人が言ったタイミングもこんな感じだったのかもしれないわ。たしかに追い込まれたら変になるわ」
「じゃあ、やっぱりあの人は本当のことを?」
「でも、それを見越してわざとかもしれないわ」
心夢はさらに毒を盛ったような影を顔に濃く落としていました。その毒に当てられたかのように晴美は顔が白くなっていきました。影が顔から消えた晴美は唇を痙攣させながら言葉を出しました。
「わざと?」
「そうよ。真実を言う人がする行動を真似して、自分が真実を言っているように思わせるのよ。第一印象で怪しいと思う行動をして、自分を怪しませるのよ。そして、その後に怪しくないことをして信用させると、一度怪しさから外した分だけ余計に信じてしまうわ」
「でも、そこまで計算できるかしら」
「この世には恐ろしく賢い人がいるものよ。あの人がそうとは限らないけど、そういう人の可能性もあるわ。初めに悪いところを見せて、撒き餌をして、信用して近づいてきたところをガブっとね」
妙に弁が立っている心夢を見ながら、晴美はその毒のある言葉を受け止めていました。心夢は姉が理論的に本当の事を言っているのだと判断していましたが、そういうものは妙に毒ついて聞こえてしまうのです。心夢はそのことを理解しながらも、それでも姉が毒ついているふうにしか聞こえませんでした。
「でも、それは姉さんも同じよ」
「そうね……いいえ、私は賢くはないわ……でも、あなたが言いたいのは、あの人と同じ手法をわたしもしていることになるってことね?」
「そうよ。最初に怪しませて、次に信用させようとしている」
先ほどの理論通りにことは進んでいました。それが意図したことなのか偶然なのか、それは心夢にしかわかりませんでした。いや、心夢も神か悪魔に憑かれたかのようにわからない状態でした。
「そうなのよ。でも、どこまでいっても同じなのよ。埓があかないから、自分で決めて」
心夢は錯乱したかのように頭を抱えました。自分が祖父を殺したのかわからない、男が言うことが正しいのかわからない、自分でも何がなんだかわからない。もう自分では判断できないから、妹に丸投げをしたい気持ちでした。
「責任重大ね」
「そんな責任なんかないわ。別に警察なんかに差し出さないらしいし。あの人が気になっているから、はっきりさせたいだけらしいし」
「そんなこと言っていたような、言っていなかったような」
「もう忘れたの? あなたから聞いたのよ?」
「そうだっけ?」
「あれ? 私が聞いたのかしら。それとも、両方?」
2人とも記憶が曖昧になっていました。きちんとメモを取っていたのならはっきりするのですが、そこはさすがにプロとは違うといったところです。どんなに真面目にしても、2人ともしていることは素人のお遊びの延長戦になってしまいます。
「忘れたわ。でも、人の記憶って当てにならないわ」
「ふふっ。そうね」
「何を笑っているのよ」
「姉さんも顔が笑っているわよ」
互いに顔から影がなくなり、毒々しさもなくなっていました。それは、昔の祖父に理不尽に怒られる前の仲の良い姉妹のような笑顔でした。彼女たちから、解毒作用が起きたように何かしらのとっつきが取れていました。
「あらやだ、シワができるわ」
「化粧とかおしゃれをしない人が何を言っているのよ?」
「そうね。シワなんかどうでもいいわ」
「どうでもよくないわ。気をつけてよね」
互いに腹の底から払っていました。蛇がとぐろを巻くように体を捻らせて笑っていました。余りにも捻りすぎて、雑巾から水を搾り出すように人体から毒を搾り出しているように見えました。
「――久しぶりに晴美との接し方を分かった気がしたわ」
「今までわからなかったの?」
「そうよ。小説を読んでわかっていたでしょ?」
「そうね。姉さんの気持ちはわかったわ」
晴美ははっきりと言いました。心夢は恥ずかしさで顔を赤くしていました。体に毒が回った場合は顔が青くなるので、その心配はないようです。
「今にして、小説を読まれたことが恥ずかしくなったわ」
「勝手に呼んでごめんね」
「ダメよ。あなたの秘密を教えなさい」
心夢は晴海の乳房を鷲掴みしました。それは仲良しの女性同士では当然のように行われるスキンシップですが、男性の目の前では当然のように行われない不思議の園の光景でした。日常生活の光景です。
「やーよ。ひ・み・つ」
「仕方ないわね。今度、勝手に部屋を漁るわ」
「――姉さん。私、やっぱり姉さんを信じる」
「ありがとう」
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