第15話2-5普通に読んだらの話

 心夢は家に帰ると、手のアイコール消毒もせずマスクも外さず階段を駆け登りました。途中で階段の角に2回引っかかりましたが、気にすることなく進みました。リビングのドアを開けると心夢を押し出そうとするように熱風が出てきました。

 心夢はそれにひるむことなく勇敢な消防士のように熱のこもった部屋の中を進んで行きました。その目は逃げ遅れた避難民を探すがごとく鋭く光っていました。そして、ソファーに座ってテレビを見ている女性を見つけました。


「晴美」


 晴美は姉の声に振り向き、咥えていたアイスの棒を外しました。その白い氷菓は指の近くに1口分だけ残っていました。木の棒はそのアイスを境目に、乾いた薄い茶色と湿った濃い茶色に分かれていました。


「何、お姉ちゃん?」


 2人の間には冷えた空気が張り詰められていました。心夢の顔は汗で濃い肌色になっており、晴美は汗一つなく薄い肌色になっていました。晴美が最後の一口を口に運びゴミを捨てたら、心夢は晴美と話をしました。


「晴美、聞きたいことがあるのだけど」

「なに、姉ちゃん?」

「あなた、じいちゃんが川に落ちたところを見たの?」


 白いゴミ箱の前で腰を曲げていた妹は、ぎっくり腰になった老婆のように動きを止めました。彼女はそのままの体制でゴミ箱を漁るふりをして姉を見るのを回避していました。姉に見えな会いところで気まずそうな汗を流し始めました。


「どうしてそんなことを聞くの?」

「やっぱり見たのね」

「ちょっと待って。どういうこと?」


 晴美は背中を立ててようやく体制を整えました。重力によって垂れていた乳房は通常の位置に戻り、アピールの如き突っ張っていた臀部も鳴りを潜めました。その様子を見て心夢は意識して動揺した口調を潜ませました。


「その聞き方、知っていることを隠そうとする人の言い方なのよ、私の勘だけど」

「勘なんかで決めないで」

「でも、勘ってけっこう当たるのよ」

「でも、だからといって」

「わかったわ。探りを入れるのをやめるわ。勘ではなくて聞いたのよ、晴美がじいちゃんの落ちたところを見たって」


 心夢は自分の心臓が自分の手でマッサージされているような感覚になりました。意識が体を支配しているという、異常なまでに理性が洗練している状況です。目・耳・鼻などのあらゆる器官を意識的に操り、妹のどんな些細なところでも気づくつもりでした。


「誰に聞いたの?」

「遠い親戚の人よ。太一さんだったかな」

「あの人!?」


 整えた口調で答えていた晴美でしたが、男のことを言われてテンポが外れました。そのことは言われることを予想して自己練習ではうまくできていましたが、実際に聞かれるとポンコツになってしまうのです。こういうことは練習するほど練習と本番との違いで困惑してぎこちなくなることはあります。


「ほら、知っているじゃない」

「それはそうだけど。だけど、その、あれ」

「あの人が言っていた。私がじいちゃんを橋から落としたところを晴美が見た、と」

「でも、あれは事故かもしれないじゃない」

「ほら、語るに落ちる」

「ちょっと、謀ったわね」


 晴美は調子の良いカルタ取り名人のようにテンポよく畳み掛けました。それに圧倒されて自分のカルタを発揮できない挑戦者のような晴美は口しか出せませんでした。しかし、それは百人一首の句には程遠い出来栄えでした。


「でも、見たのでしょ?」


 心夢は名人の風格を出していました。自分の呼吸を操る術は古今東西ありますが、男を前にした時に比べたら妹の前はかなり楽なのでしょう。呼吸が人の精神に影響を与えるのはカルタの世界でもある話のようです。


「――見たわ。遠くからだけど」


 晴美は観念しました。あらゆる予行練習でのカードは全て彼女の手からこぼれ落ちました。音を上げて畳の上に落ちた刺激が晴美の鼓膜を刺激しました。


「それで、晴美はどっちだと思うの?」

「何が?」

「私がじいちゃんを殺したのか、ただの事故かということよ」


 心夢は新たなゲームに何をするのか探るかのように妹の顔色を伺いました。自分の好きなゲームか妹の好きなゲームか全く知らないゲームか、ゲームを始める前の高揚感に浸っていました。圧迫面接のように心を痛めている晴美のことを考えていない独りよがりなゲームの様相になりそうでした。


「事故って言ったじゃない」

「それは私をかばっているんじゃないの?わたしも家族が殺人を犯したら庇うと思うわ、じいちゃん以外なら」


 2人は突っ立ちながら会話を続けています。エアコンが壊れた部屋でいます。熱中症という事故が起こってもおかしくない温度でした。


「それはわたしもそうよ。でも、今回は本当にそう思ったわ」

「本当に?いや、仮に本当だったとしても信じられないわ」

「どうしたら信じてもらえるの?」


 教会での神父と信徒の問答みたいになっていました。そういえば、神父と牧師との違いはカトリックとプロテスタントとの違いらしいが、どっちがどっちかはキリスト教徒以外には興味がないことである。したがって、ここではそのことのウンチクは省くことにしますが、悪しからず。


「たぶん、なにをしても信じられないわ。でも、それは晴美を信じていないのではなく、誰が相手でもそうよ。たとえ神様でも信じないわ」

「よくわからない言い方だわ。もしかして、神様は信じていないけどね、という恥ずかしいことを言いたいの?」


 晴美は混乱のあまり咄嗟に聞きました。心夢はかっこいいことを言ったように満足でした。しかし……


「――とにかく」

「勘があたったようね。ごめん」


 晴美は恥ずかしかったのです。ボクサーが必殺パンチをカウンターされたような状況でした。予行練習したことが実践で上手くいかないことはよくあることです。


「とにかくよ、何も信じられないわ、この件に関しては」

「わかったわ。でも、信じるから」


 頬を赤く染めている心夢に対して、晴美は少し余裕が出来ました。姉の失敗を見て朗らかな気分になったことか、自分の危惧していたことが大事に至らなかったことか、はたまた別の理由か。互いに接し方がわからないとはいえ基本的には仲の悪くない2人によるゲーム遊びみたいな明るさが出てきました。

 緩やかな空気。窓から注いでくる暖かい日光。彼女たちはゆりかごの中に守られているような気分になりました。


「それから、人の小説を見るときは気をつけなさいね」


 空気が張り詰め、それは曇り、ゆりかごから落ちたような衝撃が2人に走りました。


「――どういうこと?」


 晴美はにこやかな顔尾を緩やかに青ざめて、恐る恐る言いました。心夢はゆっくりと歩きながらパソコンの近くに立ちました。心夢はパソコンを見下ろしながら晴美に聞こえるように言いました。


「私のパソコン……じゃなくて家族のパソコンだけれども、少し場所がずれていたわ。普通なら気づかないけれど、私いつも使っているから気づいたわ。晴美も自分のものならすぐに気づくと思うわ」

「……」


 閉じてスリープしていたノートパソコンがピピっと起動しました。近くに心夢が来た衝撃で目を覚ましたのでしょう。心夢はパソコンを開けることをせず、晴美の方を見ることなく、そのまま続けました。


「それで、どうだった? 私の小説」

「――いいと思うわ」


 晴美は当たり障りのない感想でした。心夢は考える表情を変えませんでした。互いに暗い顔でした。


「それはどこのシーンが?」

「全体的に」

「それは読んでいない感想よ」

「バレた? きちんと読んでいないの」

「そう。私はそのほうがいいけど」

「そう?」


 晴美はお茶目な感じでお茶を濁したかったが、それは無理でした。心夢は妹の発言を何1つ信じていませんでした。もう1度問います。


「――で、じいちゃんへの恨みつらみ、晴美への思い、川に落とした日の気持ち、どれが印象に残ったの?」

「っ!!」

「覚えているんでしょ? そこの部分」


 心夢は机に手を乗せ体を支えながら言いました。何かに支えてもらわないと立てないくらい、自分でも不安だったのです。そんな姉の心情を知ることなく、晴美は圧倒的な頂きから見下ろされている気分でした。


「――覚えているわ」

「今回は正直ね」

「ええ、もう嘘はつかないわ」

「それは嘘つきの常套句よ……というのは置いといて、どう思ったの?」


 心夢は余裕がないのに冗談っぽい言い回しをしていました。余裕がないので余裕を持とうとしたのでしょうが、余計に自分を締め付け、相手も締め付けました。晴美は山の高いところに登って空気が薄くなったように呼吸が苦しくなっていました。


「大変だなぁ、と」


 自分を投影させながら言いました。自分が姉の立場なら、人を殺したかもしれない立場は苦しいと。もちろん心夢は妹の紋切型の返答には納得せず、頭を手で掻きむしりながらしぶ柿を食べた様な顔をしました。


「どうしても本音を出さないわね。本当は怪しいと思っているんじゃないの?」

「そんなことないわ。わたしもじいちゃんを殺したいと思ったことはあったけど、殺さなかったわ。だから、姉さんも殺さないと思うわ」


 晴美の発言を聞いて、心夢は鼻から息を大きく出した。どうも妹の発言が社交辞令のようにしか聞こえなかったからです。鼻毛がふさふさと揺れているのを感じるくらい頭は涼しくなっていました。


「そう? そう思ってくれるとありがたいわ。でも、もし、私の考えと貴方の考えが違うかったらどうする?」

「どう違うの?」

「あなたの考えはおそらく、人殺しをしたらダメだという考え方ね。所謂一般的な考え方。健全な考え方よ」


 心夢は背伸びした勉強できる学生の真似事のように理論的に話していました。それは感情を優先する人からは皮肉めいて聞こえる言い方でした。でも、理知的なことを好む人は良かれと思っているものである。


「なんか変な言い方ね」

「そうよ。だって、わざと嫌味な言い方をしたもの。でも、わたしもその考えがいいと思うわ」


 再び嫌味な言い方でした。そうすることで相手を刺激して話を引き出すのです。何か口からポロリと出たら儲けものです。


「でも、違うのでしょ?」

「そうね。私は人殺しもオーケーだと思うわ。もちろん、きちんとした理由があればの話だけれども」

「どういう理由?」


 肩透かしの質問攻めをくらった心夢は、自分の言葉を言う必要が出てきました。自分が変なポロリをこばさないかと言葉の端端にも意識をしていました。ミイラ取りがミイラになるのを恐れていました。


「仇討ちだとか、相手が悪者であるだとか、人類のためだとか」

「聞いているだけだと、いい気がするわ。でも、実際にあったら怖いわ」

「そうよ。そのことは『罪と罰』でも書かれているわ」

「そんな難しそうな話はいいわ」

「慣れたらたいしたことないわよ。『罪と罰』の主人公は、とてもいいことをするためには少しの悪いことはしてもオーケーという考え方を持っていたんだ。でも、想定外の殺人をしてしまったことによって良心の呵責に苛まされて、その考えが間違っていると考え直したのよ」


 心夢はつい気持ちよく自分の言いたいことを言い切りました。自分の得意分野の知識をひけらかしたいのは人の性でありますが、ポロリも多いのです。心夢は自分の発言におかしなことがなかったのかを精査しなくてはと思いました。


「なんか難しいけど、悪いことはしたらダメなのよね」

「そういう考え方もできるわ。ただ、こういう考え方もできるわ。想定外の殺人さえ起きなければ問題がなかった、と」


 心夢は自分の発言を聞いて頭を痛めました。どうして再び自分の話したいことを提示しているのだろう、と。相手の得意な会話を提示して相手のポロリを期待しなければならないのに、ミイラ取りがミイラ状態です。


「読んだことがないからわからないけど」

「あの作品では、1人の悪い老婆を殺すことは悪いとは書いていなかったのよ。2人目の無害な老婆を殺したことに問題があったのよ。少なくとも、私にはそう読めたわ」

「でも、やはり人殺しは」

「それについても書かれていたわ。ナポレオンは大量の人を殺したのに許されたのは大きな良い行いをしたからだ、と。でも、それが許されるのは一部の選ばれた偉人だけであり、主人公はそれができない人間である、と」

「よくわからないわ」

「私たちのような凡人は悪いことをするな、ということよ」

「そんな簡単にいわれるのも」

「『戦争と平和』だって、偉人より一般人のほうがすごい、という簡単な話よ。ちなみに、こっちでもナポレオンへの言及があったわ。日本だとわからないけど、あの時代のヨーロッパ付近ではナポレオンは凄かったのね」

「ナポレオンなんかどうでもいいわ」

「そうね。それよりも、『罪と罰』に関してだけど、普通に読んでいたら殺人事件なんか起こそうと思わないわ。殺人犯の家から押収されるニュースがたまにあるけど、あれは完全な風評被害ね」


 心夢は長々と自分の考え方を話していました。よく話すことでストレスが解消されて、血色がよくなりストレスが赤血球的な何かに吸収され、発汗器官からストレスが出ていました。晴美のことをとやかく考える思考がなくなっていました。


「じゃあ、姉さんは」

「そうよ。殺人なんか起こすわけないじゃない。当たり前でしょ」

「信じていいの?」

「いいわよ。心配させてごめんね。」

「ううん。心配なんかしていない」


 心夢は熱心に、晴美は冷静に言い終わりました。晴美は姉がリビングを使だろうと遠慮して自分の部屋に戻りました。心夢はテレビがつけっぱなしのリビングでソファーに座り、白い天井を見上げました。


「――あくまで普通に読んだらの話だけどね」


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