第11話2-1姉の小説


 晴美は姿を消した姉の手がかりを捜すために、心夢がパソコンに打ち込んだ小説を読んでいました。そこには、次のことが書かれていました。



 ……

 私はとある街に家族5人で住んでいました。妹と両親と祖父の5人です。木造2階の一軒家に住んでいました。

 私は大学を中退して売れない劇団員をしています。そのせいで家では肩身の狭い思いをしています。しかし、自分の置かれている立場上、それは仕方のないことだと思います。

 家族は基本的に応援してくれています。両親も妹も、内心ではどう思っているのかはわかりませんが、表向きは応援してくれています。しかし、唯一反対するものがいます。

 祖父は私が劇団員になってから数年、ずっと非難してきます。しょうもないことするな、さっさとやめろ、嫌いだ、と色々と言ってきます。その卵のような顔が私と顔が会う度に毒を吐いてくるのです。

 それはたいへん腹が立つことと読者はお思いかもしれませんが、意外と私は腹が立ちませんでした。その理由は、自分で劇団員がそういうものだと割り切っているわけでも仲がいいじゃれあいだからというわけでもありません。小さいころから祖父にボロクソ言われてきたから慣れただけです。

 小さい時から、不細工だの頭が悪いだの趣味が悪いだの、あらゆることに悪態をついてきた祖父でした。その言葉をそっくりそのままお返ししたいくらいでしたが、何を言っても聞く耳を持たないキチガイじいさんだったので、何も言いませんでした。体調が悪いのなら病院に行くことを勧めても行かずに、自分で作ったよくわからない薬を飲み続けて結局入院するはめになった時に、病院行きを止められたと謎の罵倒をしてきたときは、死ねばいいのにと思いました。

 そんな祖父ですが、私以外の家族全員から嫌われていました。父は小さい時からこき使われており、嫌なことがあっても反発ができないらしいです。これは、母の見解であり私の見解ではないのですが、納得はしました。

 母は嫁に来てからひたすらいじめられたようです。料理の文句、子育ての文句、外出の文句と文句だらけだったらしいです。特に一番嫌だったことは、自分ではなく自分の娘たちがいじめられていたことらしいです。

 その母の気持ちは私にもわかります。私も自分がいじめられることが嫌でしたが、それ以上に妹がいじめられることが嫌でした。小学生の時に私が妹に何か悪いことをして母に怒られた時に、祖父が年長の言うことが絶対だと訳を分からないことを言って母と妹を叱責したのですが、悪いことした内容は覚えていないのですが母と妹に悪いことをしたと思ったことだけは覚えています。

 それ以降、私は妹に悪いことをしないように決心しました。なんといっても世界で1人の可愛い妹なのだから、私が体を張ってでも守る必要があると思いました。もちろん、たまには喧嘩もしましたが……

 一緒にカラオケに行って恋バナしたり、一緒にお風呂に入って一方的に胸を触りあったり、一緒にベッドで飛び跳ねてキスしながら寝たりしました。妹は嫌よ嫌よと言いながらも嬉しそうでしたので、私は嬉しくなって続けました。しかし、高校生の時にそのことが祖父の癪に触ったようで、そういう他人に見られたら恥ずかしいことはしてはいけないと妹だけが怒られました。

 妹はそれ以降暗くなりました。その前からも祖父のせいで暗かったのですが、さらに暗くなりました。私も気分が暗くなりました。

 それ以降、私は妹との接し方がわからなくなりました。私が何かをしたら妹が祖父にいじめられるからです。自分がいじめられるのなら自業自得と思って我慢できるですが、妹が理不尽にいじめられるのは我慢できませんでした。

 妹もどうしたらいいのかわからない感じでした。その頃は中学生になったばかりの不安定な時期でしたので、なおさらわからないのでしょう。私とも交流が疎遠になり、どういう考えなのかがわかりませんでした。

 私は妹に嫌われているのではないかと不安でした。私のせいで妹が祖父から理不尽に怒られたことを根に持っているのではないかと思いました。その考えが私の中で育ち、その枝が私の体を縛るように私は妹の前では動けなくなりました。

 私は妹が引きこもっている部屋の前で何回もウロウロしましたし、自分の部屋にいるときも妹の部屋から聞こえてくる音に耳を傾けていました。基本的には音楽の音が聞こえるくらいでしたが、音楽に疎い私には何の音楽かはわかりませんでした。本当ならその音楽に興味を持って一緒に話すほうがいいのかもしれませんが、昔の私ならそうしていたと思いますが、今の私はどうしてもできませんでした。

 そうこうしている間も、祖父は癇癪を起こすのです。外食に行ったら机が汚いと店員に怒鳴り散らし、家に訪問するお客さんに歩き方が変だと悪態をついたり、私たちにはあいかわらず言うことを聞かなかったらライターの火で威嚇してきます。私たちはどうすることもできませんでした。

 月日が経ち、私が大学に行くことで祖父が荒れ、私が大学を辞めることでも祖父が荒れ、私が劇団に入ることにも祖父は荒れました。どうしてそんなに元気なのだろうかと不思議に思いながらも、風物詩に興味を失って無視を決めました。妹も大学に行くことで祖父に色々と悪く言われていました。

 ある雨の日のことです。その日は梅雨でも台風の時期でもないのに強い雨が長続きしました。去年の台風時にはトイレの水を流すのを遠慮してくださいという役所からの警告がありましたが、それがないということはそこまでではなかったということだと思います。

 それでもなかなかの雨でして、氾濫しないまでも川の水位がけっこう上がっているようでした。それは祖父の情報でして、雨の中そういうものを見て楽しむようです。足を滑らして死んでくれないかなと思いながら、その願いが叶ったことがありませんでした。

 そんな雨の日に、私は祖父から一緒に川を見に行くことに誘われました。普段は誘うというようなことをしないで1人だけで行くのですが、なぜかそのときは誘われました。私は祖父とふたりっきりは死ぬ程嫌でしたが、ここで断っても面倒くさくなるからついていくことにしました。

 私たちは白いビニールのカッパを着て外に出ました。さて行こうかと思ったのですが、祖父が私の足元を指さしました。長靴を履けと命令してきました。

 その口調がすごく偉そうだったのが腹立ちましたが、指摘してくれたのはある意味優しいと思いました。私は長靴を取りにドアを開けようと思ったら、中から声が聞こえてきました。その言葉を要約すると、今までは妹が祖父の付き添いに行っていたが前回に危ない目にあったから代わりに私を選んだだろうが、今度は私の命が心配だということでした。

 この言葉を聞いた時に、私の体に雷が走りました。遠くの方で実際に雷が鳴り響く中、私は一瞬の光で祖父の顔を見ました。その顔は汚い豆電球のように光っていました。

 すぐに暗くなった虚空を見ながら、私はある決心をしました。今日、ここでこいつを殺さないといけない、と。それはロウソクの最後の灯火のようにふっと明るく頭の中に出てきた考えでした。

 それは、今までの恨みからなのか、妹の苦労を知らなかった自分への後悔からなのか、神の恵みからなのか、理由は私にもわかりませんでした。それは、すべきなのかしないべきなのか、してもいいのかしたら悪いのか、することができるのかできないのか、何もわかりませんでした。無知の知といったら聞こえはいいが、わからないことがこんなにも苦しいことだとは今まで思ったことがありませんでした。

 それは、私が今まで真剣に物事を考えてこなかったからなのかもしれませんが、重要な選択肢は突然に目の前に来るものだと実感しました。私は自分の非自然に動く心臓に押されながらドアを開けました。中に入っても家族の様子を見る余裕などなく、盗人のように素早く長くつに履き替えて外に出ました。

 私は横殴りの暗い雨の中、1歩1歩を確実に歩きました。死のカウントダウンのように思いましたが、よく考えたら数字が大きくなっているので寿命が延びていることに気づきました。私は水浸しになりながらも乾いた笑いがこみ上げてきました。

 断頭台への階段のような坂を登り河川敷にかかっている橋の上から見える川を目で近くまで行くと、どす黒いうねりが水を運んでいました。そこには土もゴミも魚もいるのでしょ。全てを飲み込んで流れるそれを私は無言で眺めていました。

 私は自分の血液がうねっていることを感じていました。結晶体や鉄分や赤血球を巻き込んで暴れているそれは血管をぶち破りそうな勢いで暴れていました。食生活などが偏っている私ですので、その血はドス黒く汚れているかもしれません。

 その血液が私の手を後押しするのです。すぐ目の前で突っ立って川を見下ろしている祖父の背中を押すように動かすのです。私の手は糸に操られかのように前に伸びていき、その手の先には血が1秒ごとに通っていることが感じられます。

 ピクピクと打ち上げられた魚のように震える指先が祖父の体に近づくことを拒否していました。水の中が住処の魚が陸の上を拒否するように、私は祖父の何かを拒否しているのです。それは祖父自体なのか背中を押して突き落とすことなのか何なのかは考えることを私は放棄していました。

 私はそのまま体の自然な動きに身を任せました。そのときの私の手は自分の手と感じられませんでした。何かしらの人形の手が祖父の背中に手をかける様子が私の濡れた瞳に移りました。


「じいちゃん、危ないよ」


 私は祖父の背中のカッパを引っ張りました。祖父は意表を突かれたように足元をよろめかして後ずさりしました。後ろが川なら落ちていたかもしれない勢いでした。

 私は体中が熱くなるくらい血液の流れを感じました。手が人形ではなく自分のものだとそこで気づきました。足の指の間に雨水が溜まっていることにぬるくて気持ち悪い血だまりを連想させました。

 祖父は無言で私の掴んでいる手を蚊のように払い除けました。感謝してくれてもいいのに逆に文句を言いたげな目で暗闇の中を縄張りを取られた猫のようにギラリと私を睨んできました。私は祖父に対する処世術として気にしないようにすることに慣れていましたので、視線を遠くの鉄橋の方に向けて祖父から目をそらしました。

 祖父は前に一歩進み目を再び川に落としました。まるで小さな子供が興味本位で覗き込むような姿でした。自分がその子の親ならばその危険性のある行為を愛しさを持ちながら注意しているところだと思います。

 でも、私は憎しみを持っている孫です。注意などしませんし、むしろ危険性に助長したいくらいです。私は再び祖父の背中に手を伸ばしました。

 今度は意識的に血の巡りを感じる腕を伸ばしました。雨が蒸発して熱を奪っていくのを感じながら私は心臓の鼓動とともに1伸びずつ近づきました。渦に吸い込まれるように手が祖父の背中に向かって行きました。

 背中を押そうと思いましたが、力が出ませんでした。私は意識の上では勢いよく押したのですが、水を押すように手応えがありませんでした。むしろ、溺れたように呼吸ができなくなって自分が苦しくなりました。

 雨風が強くて息がしにくいのにはしにくいのですが、呼吸ままならぬまで呼吸困難に陥るのは初めてでした。私はあまりの息苦しさに伸びた手を引っ込めて口の周りを覆いました。私の口は雨風を塞ぐ屋根を手に入れた形になりましたので、平和に暮らす家族のように息がスムーズに進みました。

 両手で口を塞いでいる私は、祖父が睨んでいることに気づきました。その目は何かを言いたげでしたが、何を言いたいのかはわかりませんでした。しかし、すぐに何を言いたいのかが分かりました。


「お前、俺を突き落とそうとしたな!」


 そう言うと、祖父が逆に引っ張ってきました。私を橋の手すりのところに押し当てて、そのまま相撲の寄り切りのように押し出そうとしました。私は背中を手すりに強打して、火花が散ったように背中が熱くなりました。

 視界では雷の光が世界を雪化粧のように真っ白に映した。自分が祖父を殺すかどうかに苦しむ一方で祖父が自分を殺すことに戸惑いがない黒い世界から、スイッチを変えたようにきれいな空間でした。そしてその瞬間、彼女は祖父を引っ張り込んでそのまま押し出しました。

 祖父は川に落ちて行きました。私の視界は白い世界から黒い世界へと戻りました。真っ暗な川を見ても祖父がどうなったかは確認できませんでした。

……

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