第10話1-10姿を消した

 心夢は再び部屋にこもりました。スマホの時計が進むのを心夢は目で追いました。ベッドに寝転びながらネットサーフィンやアプリゲームをしている時にたまに目に入るのです。

 時間が経ちトイレのためにリビングに出ると、明かりだけがついて誰もいませんでした。母はエアコンが健在で冷房が効いている1階に当分の間は寝ると言っていましたし、晴美は自分の部屋にいつもこもっているのです。だから、下に寝に行った母が娘たちがいるからと電気をつけたままだったのです。

 心夢はその部屋でパソコンとテレビをつけました。一方ではテレビを見ながらパソコンで小説を書くのです。テレビではなくパソコンでユーチューブ鑑賞しながら書けばいいではないかと思われるかもしれないが、10年近く使われているパソコンはそれに耐えることができないのです。

 10年近く使っていたエアコンが壊れたように、今はギリギリ動いているパソコンもいつ壊れるのかわからないのです。特に夏場は暑さが限界を超えて強制シャットアウトすることが多く、そのためにパソコンの下に厚紙を敷いたりUSBファンを取り付けたりしたのです。野球やサッカーでも1人の負担を減らすために分業化が進んでいるように、家電製品の負担を減らすために小説を書くのと娯楽視聴を分業化しているのです。

 その分業化のおかげでテレビ視聴が捗る心夢は、パソコンが節電モードになったことに気づいていませんでした。それだけではなく、晴美が部屋から出てリビングで立っていることにも気づいていませんでした。テレビではゲーム実況の動画が流れており、その攻略の仕方にも気づいていませんでした。


「姉ちゃん」


 晴海の呼びかけに、心夢はゆっくり斜め後ろを振り向きました。


「なに?」

「さっき、お母さんと喧嘩してたね」

「――まぁね」


 心夢は、その話題を振られることにいやいやした低い声でした。


「お母さん、わかってないよね。姉ちゃん頑張っているのに」

「そう? 劇団員として何もしていない上にバイトもしていないのよ」

「気にしているの?お母さんが言ったこと」


 晴美は内容ではなく会話を続ける目的で質問しました。


「そうじゃないわ。一般論よ」


 心夢は内容が気になり図星だったので晴美の言葉に食ってかかりました。


「一般的にはこうだけど自分はこうすると普段は言うのに?」

「そうじゃないわ。私の価値観ではなくてあなたの価値観よ」

「だから、姉ちゃんは頑張っているって言っているじゃない」


 心夢は晴美の言葉に納得していないむくれ顔でした。


「何を根拠に言っているの?」

「だって、小説書いているじゃない」

「こんなのたいしたことないわ。プロでもないのに」

「でも、やろうとするだけでもすごいじゃない」

「ただのミーハーよ」

「いいえ。姉さんは芯があるわ」

「そう? そんなつもりはないけど」


 心夢は初めのうちはへそを曲げて晴海の言葉を信じていませんでしたが、何回も言われているうちに嘘でも嬉しくなりました。人間はみんなそういうものであり、だから媚売りは出世するのです。そういう社会の縮図を経験した心夢でした。


「私にはそんなことをする考えも行動力もないわ」

「それのほうがいいんじゃない?普通の環境で普通に生活するのが一番大変よ」

「そんな、茶化さないで」

「あなたが茶化しているんでしょ?」


 心夢はイタズラな笑顔を晴海に見せつけた。


「別に茶化してなんか……」


 晴美は信じてもらえないことに少し落胆しました。


「――まぁいいわ」


 心夢は姉として妹に強く言い過ぎたと思い、言いたいことをぐっと我慢しました。

「いいの?」

「いいわよ。茶化していないんでしょ?信じるわ」

「信じてくれて嬉しいわ。姉さん、優しいわね」


 晴美はそう言うが、心夢からしたら妹が優しかったのです。努力したから仕方がない、と言ってくれたからです。例えそれが嘘だとしても、人というものは褒められると嬉しいものであり、それを素直に受け入れられないものです。


「何をバカなことを」

「いいえ。姉さんは優しいわ。少なくても私には」

「私が晴美に何をしたのよ?」

「姉さんは……」


 晴美は小さく開けた唇から音を出すことができずに水槽の餌を捉える魚のような顔を保っていました。心夢は言葉の続きもさる事ながら、彼女がフリーズしたこと自体を気にしました。やはし妹が心配になることが姉冥利のようです。


「どうしたの? 何か悩みがあるの?」

「いいえ、そんなことないわ。頑張ってね」


 そう言い終わると、晴美は部屋にかけていきました。その声は泣いたように上ずっており、目も少し潤んでいました。心夢はそのことに気づかないふりをして、本当に困ったときは言いに来るだろうと自分に言い聞かせました。

 自分が良かれと思っても相手からしたら迷惑なことはいくらでもあると思っていました。



 太陽がどっぷりと沈んでからどっぷりと時間が経っていました。だいぶ前から晴美のイビキがガースコ聞こえてきますが、心夢からしたらどこかの何かが夜中に出す謎の鳴き声に比べたら誰のなんの声かわかっているので安心でした。得体の知らないものほど怖いものはないので、正体が分かっているものはさほど怖くないのです。

 心夢は部屋の蛍光灯を消して机の卓上蛍光灯を光らせ、テレビをだだ流しさせながら光の音をお供にしながらパソコンのキーボードを叩き続けました。小説を書くと夜型人間になるとよく言いますが、彼女もその枠にはまっていました。追い詰められた時に力を発揮すると言ったらかっこいいですが、就寝時間という〆切が近づかないと力が発揮できないダメ人間でありました。

 そんな彼女が一息をついてテレビを見ようと後ろを振り向くと、見知らぬ男が立っていました。その男は黙って心夢を見ており、心夢も黙ってその男を見ていました。男は微かに息をしていましたが、心夢は息が全くできませんでした。

 心夢は詰まった水道管のように硬直した体で唾液を喉元に蓄えながら、その風景を見ていた。それは最近見かけるあの不審者の男であり、服装も買い物帰りに家の前で見た時と全く同じでした。奴が現れた、という状況です。


「あなたのした努力は間違っている」


 いきなり男は言いました。そして、その声を聞いて彼女は公園で話しかけられた声を思い出しました。彼女は溜まった唾液を喉に流し込みました。


「誰ですか、あなた?」

「僕が誰なのかはどうでもいいのです」


 その声は虚空から流れているようでした。


「どうでもよくはないでしょ? なんなのですか?」

「僕は、あなたの所業を見たものです」

「私の所業?」


 心夢は震えている気分でしたが、体は身動き1つせず硬直したままでした。


「そうです。そのときのあなたは今と同じでしたよ」

「どういうことよ?」

「怯えたようにひきつった顔をしていると自分ではお思いでしょうが、はっきり言って無表情ですよ。でも、体が全く動かないくらい混乱しているのでしょ? 人間本当に困ったときは感情も動きもなくなるものですよ、大きい声が出るかでないかに関係なく」


 そう淡々と説明する男に、心夢は少し震えてきた。


「何が目的?」

「あっ、震えてきましたね。少し余裕が生まれてきた証拠ですよ。これできちんとお話ができますので良かったです」

「何がいいのよ?」


 心夢は喉元から震える空気を出していました。


「いえね、僕は別に暴行をしようだとか盗みをしようとかは思っていないのです。もちろん人殺しなんかするつもりはありません。ただ、あなたとお話がしたかっただけです」

「そのほうが怖いわよ」

「そうですか? それは失敬。でも、あなたは逃げてばかりではありませんか」

「逃げる?」


 逃げたいのに逃げれない気持ちを抑えて男に立ち向かって話していました。


「そうですよ。家の前で話ができたと思ったらすぐに切り上げるし、公園で話しかけたら即効で自転車をこいで逃げるじゃないですか」


 男が淡々という言葉を聞いて彼女に記憶が走馬灯のように走りました。すると、ハサミで切られたようにどうしても思い出せない記憶の空白が出てきました。心夢はそのことについて話を切り出しました。


「――公園の方は記憶にないわ」

「そうですか。それはおそらく、恐怖で記憶をなかったことにしたのだと思います。防衛反応というものですよ」

「防衛本能ねー」


 知的発言を聞いて少し冷静になりました。


「そうです、防衛反応です。子供が小さい時に親のエッチしているところを見たときに狼に襲われていると記憶塗り替えをしたということもあったらしいですよ。それと同じように記憶をなくすこともあるのです」

「その狼の説明はいらないと思うわ」


 彼女はイライラとフラフラを含んだ何とも言えない言い方でした。暑さのためか不安のためか、少し情緒不安になっていたからそういう言い方になっていたのです。


「それは失礼。つい自分の知っている知識をひけらかしたくなるんです。それは、まぁ、不良が自分の武勇伝を語りたくなるのと同じようなものです」

「そんなことはどうでもいいのよ」


 心夢は母にしたような怒号を放ちました。男は少し饒舌だった自分に反省したように、口を閉じました。テレビの音と扇風機の音が響く。


「そうでした。では単刀直入に言います」

「その前に」


 心夢は手で遮りました。


「なんです?」

「あなた、幽霊じゃないわよね?」


 2人の目が合いました。互いに目に光が見えました。それは生きている証なのか、何かの覚悟の証なのか、それとも……


「はい。幽霊ではありません。よかったですね」

「いえ、幽霊の方が良かったわ」


 話は噛み合っていませんでした。


「それは残念」

「では、もう1つ、どうやってこの家に入ることができたの?」


 この質問を聞き、男は考えるように目を少し上にぐるりと上げて口を開けました。


「――なるほど、幽霊だったら壁をすり抜けることができるのに、ということですか?」

「質問に答えなさい。どうやってここに入ったの?」


 心夢は震える拳を握りながら言う。


「そんなの簡単ですよ。あなたの親に入れてもらったのですよ」

「……えっ?」


 心夢は意表をつかれたように高い声を出しました。


「あれですか? ストーカーが鍵をこじ開けたとでも思いましたか?」

「そ、そんなこと信じられないわ。母さんや通さんからそんなことは聞いてないわ。第一、どうしてそんなことが」


 落ち着いて男と落ち着いていない心夢。


「ははっ。僕もここまでするつもりはなかったのですが、ついね」

「どういうこと?」


 笑う男と訝しむ心夢。


「いえね、細かいことは後ほど説明しますが、簡単に言いますと、調査をしているんですよ、僕は」

「何の調査よ?」

「あなた、祖父を殺しましたよね?」


 ――翌朝、心夢は姿を消しました。

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