第9話1-9欲求と現実

 彼女は最近の自分がよくわからなくなっていました。誰かに首を締められる夢を見たこと・外で誰かに話しかけられたと思ったら部屋に居たこと・ドアの向こうに妹を見かけたと思ったら違うらしかったこと・買い物帰りの不審者が母に見えていなかったこと……彼女は目が回りそうでした。

 彼女を何とも言えない不安が襲いました。それは彼女をよく襲う感情であり、その度に彼女は気だるさと腹痛に襲われます。その不安を解消する手として彼女がよく使うのが、睡眠です。

 人間の三大欲求は性欲・食欲・睡眠欲と言われています。それらはストレス発散や不安解消に使われるのですが、彼女はその中で睡眠欲をよく使います。もちろん食欲・性欲も全く使わないわけではなく、ちょくちょくお菓子も食べますし、ちょくちょくトイレに行って……

 とにかく、彼女がよく眠ってしまうのは、その不安に襲われるからになります。劇団員として仕事がない不安に押しつぶされて、仕事がうまく行かない不安に押しつぶされて、そのくせバイトもしない自分という人間に対する不安に押しつぶされて寝てしまいます。不安になると夜も眠れないと言いますが、彼女の場合は朝も昼も起きれないのです。

 彼女はこの時も寝ようと思いましたが、目を覚ましたように身を起こしてパソコンを開いてキーボードを叩きました。パソコンも急に叩き起こされて目を覚ましましたので、誤字脱字の大量発生でした。その実は、古いパソコンなので接触不良を起こしたことと、彼女が寝ボケていたことによるダブルパンチでした。

そのパソコンが発する熱をUSBファンで冷やしながら、彼女は汗を流していました。小説を書くことによる熱もあるのですが、基本的にはエアコンが壊れた部屋というサウナみたいな状況からくるものでした。彼女は白いブラが白いシャツに浮かび上がっていました。

 そんなことを気にせず書きなぐっていると、妹の晴美がリビングを通り過ぎました。互いに干渉することなく、言葉も視線が合うこともありませんでした。晴美が部屋に入った後も心夢は一心不乱でした。

 それは、何か不安をかき消すことを目的としたものです。不安の解消方法として小説を書くことをやり始めてから、彼女は精神が少しだけ安定したような気でいました。以前はあらゆるものに不平不満を思い部屋で暴れることもありましたが、最近は無くなるとまではいいませんが、頻度が減りました。

 小説の中に不平不満を書きなぐり、小説の中で暴れて、小説の中で不安を覚えるのです。彼女は不安を綴るのです。それを後から眺めると、自分の悩みが陳腐なものに見えてしまい、自分がしょぼい人間だと痛感する日々です。

 そんな文章ですので、小説の賞に送っても棒にも箸にもかからない状況が続きます。彼女は書き始めの頃は書く事に楽しみを見出しておりましたので気になりませんでしたが、落ちる状況を続けていますとそのことに不満を感じ始めました。その度に作家の苦労話を読んで気を振るい立てるのですが、その度に自分はその人たちと違い才能がないのではないかと気落ちするのです。


「もう無理や」


 彼女はそう悲痛のつぶやきをしながらタイプを休憩してネットサーフィンに手を出しました。すると、ライトノベル1次予選に落ちまくった中年男性が編集部に脅迫文を送ったという記事を目に映しました。彼女はその記事をクリックして目を通すと、背筋を震わせるとともに安堵もしました。

 自分が小説の登場人物や小説の作者に自己投影しながらもそうなれなかったように、この記事の犯人になることもできなかったのです。自分がその犯人と同じような思考を持っていた罪悪感とともに、それを実行できなかった小物である自分への安心もありました。そして彼女は、『罪と罰』の主人公もそういう小物だったことを思い返して自己投影し始めてニヤついたが、すぐに自分の思い違いだったことを思い出して肩を落としました。


「そうだ、ラスコーリニコフは……」



 その夜、心夢は母と喧嘩しました。この家では心夢の父以外の3人は2階で寝るので、夜になると2回のリビングで女性3人が集まることがあります。でも、喧嘩するときは1人抜けて2人だけいる時です。


「あんたもなんかツイッターでつぶやいたら?」


 この母の言葉がきっかけで心夢は母と口喧嘩しました。売れるための努力しろ、と言いたいがために母は心夢の知り合いのツイッターを見せつけて来るのですが、それが心夢からしたら不快だったのです。

 娘からしたら、仕事がないことをなじられている、自分が気にしていることを土足で踏み荒らしてくる、相手の気持ちを全く考えていないキチガイの所業でした。もともとから口うるさいくせに、自分は我慢している方だと嘘八百並べてくるので、たまったものではありません。直して欲しいところがあったらきちんと言うように言うくせに全く直さないという口だけのキチガイみたいな性格でした。

 母からしたら、小説は書いているかもしれないが劇団で仕事をもらえる努力を全くしていない娘に腹が立つのです。しかも、バイトすらしていないのですから尚更です。父が娘のいないところで母にそのことで文句言っているのを一方的に聞かされているので、気がおかしくなりそうだったのです。


「……」


 心夢は無言でパソコンに向かっていました。


「ほら、この子はこんなことつぶやいている」

「……」


 母は座布団に腰を下ろしながらスマホの画面を心夢に向けてきた。


「ほら、ちゃんと見て」

「……!」


 バン!

 心夢はパソコンを獲物を捕らえるカニのハサミのように力強く閉じて、そのまま自分の部屋に移りました。ベッドに座り込みそのままブツブツつぶやきながら何回か軽くベッドを殴りました。でも、いくら加減しながらつぶやいても叩いても新たな怒りが温泉を掘り当てたように出てくるだけで、次第に怒号を発しながら本やカバンを投げ散らかすという暴れる状況になりました。


「怒ってるの?」


 母は開き戸を静かに開けながら顔を出しました。


「……」


 心夢は親を殺した敵を睨むように母親を睨みました。


「母さんがまたいらん事を言った?」

「……」


 母がおずおずと言う姿に対して心夢はそっぽを向いた。


「でも、母さん心配してんやで。このまま何もせえへんかったら、みんなに忘れられるで」

「……」


 母の言葉が虚しく部屋に響くのは、心夢が相手にしないからでした。母が心配した顔で近づくと心夢は無言で立ち上がり母から離れ、部屋を無言でウロウロしてストレス解消します。それでも母が何かを言ってくることにストレスを出しきれなくなり、部屋から出て行ってリビングでウロウロするのです。

 母はそのあとを尾行のように静かについてくます。心夢はそれを横目に見ながら静かに距離を取るのです。逃走犯と刑事みたいな関係でした。


「直して欲しいところがあったら言って、直すから」

「そういうけど、直したことないやんか」


 母の久しぶりの発言に、心夢は本当に久しぶりの発言を家の中だけ強い弱い者いじめの怒り方のようにしました。


「何かあった?」

「先輩とかに、私の母だと勝手に言って近づいたことが問題になったからやめるように言ったのに、全くやめなかったやろ」

「ごめん」

「あの時も謝ったくせに何回も懲りずに挨拶に行きやがって。どんなに迷惑避けたと思っているねん」


 心夢は怒りながら本当のことを言いました。事実、そのときは問題になったし、母は注意されたのにやめなかったのです。


「でも、それだけやろ?」

「それに、私に関する不満を知り合いに勝手に言いやがって、失礼やと思わへんのか?」

「だって、いつでも話してくれていいと言うから」

「そんなん社交辞令に決まっているやろ。頭おかしいんか」

「頭おかしいって……」

「しかも、ほかの先輩の悪口も言ったんやろ? そんなん言ったらアカンに決まっているやろ。キチガイか」

「そんな言い方良くない!」

「その先輩から、お前のオカンやばいなと言われたんやぞ。周りのみんなから、お前のオカンやばいと言われるやぞ。自分の子供をそんな目に合わせて嬉しいんか?」

「言い方悪い。その言い方やめなさい!」

「キチガイなのか、性格が悪いのかどっちやねん。どっちみち人間のクズや。でも、どっちのクズや、言ってみい?」


 母は途中で罪悪感から怒りに感情が変わり、子供を叱るように強い口調で注意しました。心夢はそんなことを気にせず堰が切れたように過去のことに関して叱責を続けました。部屋が嬉しくない方向に賑やかになりました。


「さっきから言い方が悪い」

「私が同じように言い方が悪いと言った時にはそんなことないと言ったくせに、自分の時にいうのはおかしいやろ」

「いつの話や?」

「自分の時と相手の時で言うことが変わりやがって、キチガイやな。話にならへんわ。だから話せえへんようにしてんのに、うっとうしい」

「親に向かってその言い方はあかんやろ」

「うっさいな。自分ができていないくせになに文句言ってんねん。キチガイやな」


 そう言い合う2人。2人の名誉のために言っておくが、2人とも言っていることが正しいです。心夢の言い方が悪いことや努力不足はその通りであり、母が過去にメチャクチャして迷惑をかけたことも事実です。

 どちらも相手に強く言う資格はあるようでないのです。


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