第四話 初めての外出

 昨夜の夕食の席から翌日。


 僕はクロムバッハ邸宅の玄関の前に立っていた。 


「アインスお坊ちゃま、本当に一人で大丈夫でございますか? ハンケチとチリ紙はお持ちになられましたか?」

 

 豪勢な玄関前でネフェラがオロオロと狼狽えていた。


「ははっ、大丈夫だよ、ネフェラ。外出すると言ってもこの辺りを少し散歩するだけだから」

 

 この一週間、本の中ではあるがこの世界のことをある程度勉強した。

 

 この世界の常識は僕の世界とあまり変わらない。道徳基盤はおおよそ一緒だ。


 殺人、盗み、詐欺は悪いことだと認識されているし、ちゃんと法律で規制されている。


まあどんな世界であれ、それが同じ人間である以上当然かも知れない。

 

 勉強したならば、次は実践である。

 

 ……というわけゲオルグに外出許可を取ったわけだけど。


「ネフェラ……改めて確認するけど、本当に僕は外に出ても大丈夫なんだよね?」

 

 僕は建前としてにはゲオルグの四男になる。


 本物の彼は随分前に死んでいるらしいが、そんな人物が急に外出して偽物だとバレないのだろうか。


「そちらの点に関してはご心配なく。裏工作はすでに済んでおります」


「裏工作だって?」


「クロムバッハ家の四男児は幼い頃に流行病に掛かってしまい、アシュレー山脈の療養所で長い間静養していた。そしてごく最近になって完治し、このユニゼラル郊外の別宅に移り住んだ……という噂を意図的に流しました」


「噂ね……」


「この辺りは娯楽少ない農村ですから、噂は十分に広がっていることでございましょう」

 

 人の噂もなんとやらか。


 たしかにゴシップというのは万国共通の話題だ。

 

 そんな会話をしながら僕はクロムバッハ邸を出た。(ネフェラは相変わらず僕のことを心配していたが)

 

 丹念に手入れされた庭園を抜けて、僕の身長の三倍はあるだろう鉄の門扉の前にたどり着く。


「……でかいな」

 

 身長のせいもあるが、まるで巨人が目の前に立っているみたいだ。


 今の僕の力で開けられるだろうか。鍵は掛かっていないとネフェラから事前に聞いているが……。

 

 そんな心配をしたが鉄の門扉が案外あっさりと動いた。

 最低限に舗装された土の道が僕を迎え、視界が開ける

 

 広かった。

 ただひたすらに。

 

 地平線まで続く黄金の麦畑。

 

 年季の入った風車小屋が点々している。


 水平線の遙か遠くには大きな城壁が見える。あれがユニゼラルの首都だろうか?


「流石は異世界だね。風情がある」

 

 風景画にしても惜しくはない光景だ。

 現代日本ではまず見られない風景だろう。


「……ええと、たしかのこの場所の名前は」

 

 僕はあらかじめ予習していた地理を思い出す。

 ここはユニゼラルの中でも国境沿いに近い農作地帯。


「……イシュール地方カサキヤ村だったか」


 地形、場所の把握は重要だ。


 ──そう、僕のような人間にとっては特に

 

 この世界に来てからおおよそ一週間。

 僕の中に燻る昏い炎は着実に大きくなってくる。


「……さて、もって三週間といったところかな」

 

 まだまだ我慢できる範囲だ。

 爆発するにはほど遠い。

 

 しかしだからといって準備を怠る理由はない。この渇望は誰にも止めることができないのだから。


 僕が殺人鬼だということはゲオルグ、ネフェラ……二人にはまだ言っていない。

 

 現時点では僕の正体を明かすのは危険だと考えている。

 

 彼らが僕を呼び寄せた理由を把握するまで、僕の正体は隠しておくべきだろう。

 

 もし僕が殺人鬼だとバレたなら最悪処分されかねないからだ。誰も好き好んで、殺人鬼なんていう危険な異分子を招き入れない。

 

 幸運なことに彼らは僕の素性を気にしていない。

 誤魔化すことは十分可能だろう。

 

 警戒と用心と準備。それこそが僕が誰にもバレずに百名以上の人間を殺すことが出来た理由だ。

 

 そのまま一人で田舎道を歩いていると農作業をしている老人を見かける。


 第一村人発見だ。


「初めまして、こんにちは」

 

 僕は年相応に、かつ親しみを覚えるような笑みを浮かべながら老人に話し掛ける。


 昔から外面を繕うのは得意だ。


「おやぁ、おめえさんがクロム様のところの坊ちゃんかい。おい、母ちゃんや、来てみい」

 

 日に焼けた肌、年齢の割にがっしりとした身体の老人。


 まさに年老いた農夫といった感じだ。老人は僕を人好きな笑顔で見ながら、少し離れて農作業をしていた老婆を呼び寄せる。


「なんだいおまえさんや」


「ほれ、この前ロギンズのせがれが話しとったクロム様のところの坊ちゃんが来とるぞ」

 

 どうやらネフェラの言う通り噂は十分機能しているようだ。


「おやまぁ、目元なんてクロム様の奥様の若い頃にそっくりだねぇ」

 

 老婆が僕を見ながらそんなことを口にした。


 僕は転生者で当然ながらゲオルグの血縁者でもない。似ているはずがないのだが。


 まあ誰々の息子や娘だという色眼鏡で見てしまえば、何にでもそう見えるのかもしれないが。

 

 その後、何度か農作業をしている人たちに会ったが特別問題なくコミュニケーションを取ることができた。


 外界への接触。

 

 とりあえずこの世界での第一段階は成功したと言ってもいいだろう。



 *****



 異世界に来てから初めての外出。

 目的は二つあった。

 

 一つは周辺地理の把握。これは言うまでもないことだ。僕のような人間にとって地形の把握は重要事項だ。何をするにしても、まずはその地域の土地勘を持っていなければ行動できない。

 

 そして二つ目は──


「……ここがそうみたいだね」

 

 クロムバッハ邸より二十分も掛からない距離。


 僕の目の前には横幅が五キロメートル以上はあるであろう大きな河川があり、それを横断する巨大な石橋があった。

 

 ここはこの世界で五大河川の一つとして数えられるリラヘール大河。


 そしてそこを横断するために作られたオルド大橋だった。


「……文献では何度見ていたけど実際に見てみると凄い迫力だな」

 

 無論僕の世界でも橋はたくさんあったが、これだけの規模の石橋となると話は別だ。規則的に並んだ流麗のアーチは壮観の一言だ。遠くから見渡すと、まるである種の美術作品のようにも見えるだろう。

 

 時間帯はまだ早朝に近いはずだが、橋には数え切れないほど人間が行き来していた。


 屋台や露天商も数え切れないほどいる。

 

 たしかこの石橋はユニゼラルに直通する主要道路の一つだった。国外から来た人間はまず最初にここを通りユニゼラルへと向かう。


 こんな田舎にランドマークは無いと思っていたが、どうやらここがカサキヤ村のランドマークに当たるらしい。


「……まぁしかし大きい川だね」

 

 僕は石橋からリラヘール大河を見下ろす。日本に暮らしていた身としては何もかもスケールが違いすぎる。


 流石はこの世界の五大河川といったところか。

 

 行ったことはないけれどアメリカのミシシッピ川もこんな感じなのかもしれない。


「さて、川は文明発展の礎と言うけれど……」

 

 僕たちの世界の四大文明の例に出すまでもなく、文明が栄えていく条件として大きな河川は必須事項だ。大河の恵みは偉大だ。農耕、生活用水、水運。用途は数え切れないほどある。

 

 たしかリラヘール大河はアトレイア大陸の中央のアシュレー山脈から始まり、大陸の外海にまで繋がる巨大な河川だったはず。


 であるならば大陸末端に近いユニゼラルは物流の中心地なのだろう。


 つまりは世界有数の貿易都市ということになる。この戦乱が吹き荒れる世界でも自治を保っているのも頷ける。


「よお、お坊ちゃん、そんなに身を乗り出してちゃアブねぇぜ」

 

 川の流れを見ながら思案にふけっていると真横から声を掛けられた。


 僕が視線を向けるとそこには三十代ぐらいのターバンのような物を頭に巻いた浅黒い男がいた。彼の目の前には敷物が引かれておりイヤリングや指輪、壺など色取り取りの雑貨が置かれていた。どうやら露天商のようだ。


「こんにちは、初めまして。……ええと貴方は──」


「ただのしがない露天売りさ。クインドってんだ」

 

 露天商──クインドは気さくに話し掛けてきながら、僕の着ている服を軽く値踏みするように見ていた。


「お坊ちゃんはここには初めて来たんだろう? ここいらの欄干らんかんは一部が脆くなってるところもあるんだ。気を付けろよ。たまにいるんだよ、調子乗って身を乗り出して川に落ちちまう観光客がな」


 数秒の内、僕を服装を見定めた後、人の良さそうな笑みを浮かべながら忠告をくれる。 


「なるほど、ありがとうございます。注意しますね」

 

 内心で苦笑。こちらの身を気遣う世辞に賢い言葉だ。商人らしいセリフだ。

 

 クロムバッハ家から拝借してきた僕の服装は、それなりに上等な生地で作られている。おそらくは裕福な商家か貴族階級のお坊ちゃんだと思われたのだろう。まあ事実ではあるのだが。


「特に今のリラヘールは先週の大雨で川の流れが多少速くなってんからなぁ。大人でも河岸まで泳ぐのは難儀するぜ」


「僕はつい最近カサキヤ村に来たばかりなんですが、この橋の歴史はそんなに古いんですか?」

 

 年相応、世間知らずの十歳の子供を装って僕はクインドに聞いてみる。実はここに来る前に本で調べてあらかた知っている。


「おうよ。この石橋はオルド大橋ってんだが覇王様が大陸を平定した時に作られたモノなのさ。ざっと四百年は前ってことだ。当時の極東地方の三大事業の一つだな」


「ユニゼラルは当時から独立国家だったはずですが、覇王がこの橋を作ったのですか?」


「主権こそユニゼラルが握ってはいたが、結局のところ植民地と内実は変わらないからな。ユニゼラルも覇王様のいいなりってことだ。まあオルド大橋が完成したことで西部地方の街道と繋がって大規模物量網が出来たんだ。ユニゼラルも帝国も願ったり叶ったりさ」

 

 クインドは橋の中央を指差した。

 

 そこには地上十階の高さはあるであろう大きな塔──鐘楼しょうろうがあった。黒鋼色の鐘は数百年も立っているにも関わらず傷一つない荘厳な姿をしていた。


「あれは覇王様を称えるために作られた特別な鐘だそうだ」


「特別な鐘?」

 

 たしかあの鐘についての詳細はどの本にも載っていなかった。不思議な話だ。あれだけ立派な鐘ならそれなりの出自があるだろうに。


「嘘か本当か知らねぇが、何でも覇王様が通った時しか鳴らない仕組みになっているそうだ。デカい音を鳴らしてユニゼラルに覇王様が来ましたって知らせる寸法なのさ」


「へぇ、鳴らない鐘ですか。それは一体どういうカラクリなんですか?」


「さあてね、噂では覇王様の特別な異能にしか反応しない術式で作られているとかなんとか。眉唾な話だが事実あの大鐘が鳴っているのを誰も聞いたことがねぇのさ」

 

 この世界の特別な能力──異能についてはまだ詳しく知らないが、実に興味深い話だ。


 覇王のみの特別な異能とはどんなものか。好奇心がそそられる。

 

 以前の世界では歴史を学ぶが好きだった。僕の数少ない趣味と言ってもいい。

 

 切っ掛けは単純だ。


 自分の異常性、殺人衝動がどこから来ているのか知りたかったからだ。訳も分からないこの根源的な欲求を。数万年にも及ぶ人類史を紐解けばその理由が分かるのではと期待したのだ。


 ……結局のところそれは徒労に終わったが。


「クインドさん、説明ありがとうございます。ちょっと鐘を見てきますね」


「そうかい、そりゃよかった。気が向いたら後でウチの商品でも買ってくれ」


 僕はクインドに礼を言いその場を離れる。



 *****



 クインドのいた場所から数分ほど歩き、僕は大橋の中央に来ていた。


「……近くで見ると凄い迫力だな」

 

 鐘楼塔はオルド大橋の中でも異質な存在だった。


 まず作りが違う。

 

 大理石のような光沢の薄緑色の石材で作られていた。遙か頭上に見える大鐘と同じく一切損傷していない。傷一つないのだ。


 四百年も立っているとは思えない。


「……これは……何の材質で作られているんだ……ある種の鉱物を加工しているのか? ……いやそれとも……」

 

 興味深い。指で小突いて見ると金属のような反響音を返してくる。


 僕の世界にはなかった未知のモノだ。

 

 勿論、コンクリートというわけではないだろうが……

 

 そういえば古代ギリシャでは建材にコンクリートが使われていたという話があったな。中世の時代ではその技術が失われてオーパーツのような扱いを受けていたと聞く。これもある特定の技術で作られた建築様式なのだろうか。


「あー、そこの熱心に塔を見ている男の子、ちょっといいかな?」


「ん?」

 

 すぐ背後から声を掛けられた。


 少し夢中になりすぎたようだ。僕としたことが不用心だ。誰かに声を掛けられるまで近寄られるのに気付かないなんて。

 

 僕が振り向くとそこには中学生ぐらいの年齢の女の子がいた。


 ぴっちりとした薄手の長袖シャツにハーフパンツのような服装。灰のような霞色の髪をサイドテールに束ねた少女。

 

 腰ベルトに付けられた沢山のポーチのせいで、何というかまるで少女探検家といった趣の雰囲気だ。


「あ、良かった。やっと気付いてくれたよ。さっきから何度も呼んでいるのに全然気付いてくれないんだもの」

 

 おそらくは十年後にはかなりの美人に成長するであろう少女の顔が苦笑に染まる。


 どうやら先ほどから僕に声を掛けていたらしい。


「それは失礼、僕の名前はアインス。何か用かな?」

 

 右手を首の高さまで上げ、そのまま地面に平行に持っていく。ネフェラに教えられた貴族式の挨拶(礼式だったか?)だ。


「わわっ、武門式の礼だね。でもそれは目上の人にやるものだからわたしにはしなくても平気だよ」


「へぇ、そうなのか。知らなかったよ。実はまともに外に出るのは初めてでね。貴族の礼式を知っているなんて物知りなんだね」

 

 ネフェラにちゃんと確認しておくべきだったな。まあいいか。こういった素朴な不手際は相手の警戒心を解くのに役に立つ。


「うへへ、ありがとう。わたしの名前はゼノア……よろしくね」

 

 少女……ゼノアがほんわかといった感じで微笑んだ。

 

 不思議な雰囲気を持った少女だな。


 歳の割には落ち着いているように思える。


 何と言うのだろうか。彼女の目の奥には研ぎ澄まされた刀のような強い意志が垣間見える気がする。……そう、僕の知っているあの女探偵のような。


「ねね、アインス君。……えっとアイ君でいいかな? 聞きたいことがあるんだけど」


「呼び方はどうとでも構わないよ、ゼノアさん。聞きたいことっていうのは何かな?」


「わたしのことはノアでいいよ。……えっとね、えっとね、もしかしてアイ君ってここら辺に住んでいる貴族様だったりする?」


「ここら辺というのがどこを指しているのか分からないけど、一応この近くには住んでいるね。ここには最近来たばかりだけど」


 僕がそう言うとゼノア──ノアは何とも微妙な表情をした。


「……うーん、やっぱり大当たりか……これは運が良いのかな、悪いのかな……」

 

 腕を組んで悩ましげにブツブツと呟く。


「どうかしたのかい?」


「うんとね、多分アイ君の屋敷にネフェラさんっていうメイドさんがいると思うんだけど……」


「ネフェラ? 彼女を知っているのかい?」

 

 ネフェラを知っているということは、この子はもしかしてクロムバッハ家の関係者か?


 なら貴族式の礼を知っている頷ける。


「……ちょっと気まずいんだけど、ちょっとアイ君に頼みたいことがあってね。……ううん、違うよ! 決してワイロとかカイジューとかそういうのじゃないから!」

 

 誰に言い訳しているのか後半が釈明的な声音だった。


「何となく察しが付いてきたけれどノア、君はひょっとして──」


「──おねがい、だれか助けて!」

 

 その時、きぬを切り裂くような甲高い声が突然聞こえた。


「えっ、なに?」


「今のは……」

 

 僕とノアは声のした方を同時に振り向く。

 

 そこには二人の少年少女がいた。

 

 額に傷のある気の強そうな男の子。


 丸眼鏡をして分厚い辞書のような本を持った女の子。


 彼らは年齢はおよそ七歳か八歳ほどだろう。多分、さきほど声を上げたのは丸眼鏡をした女の子だ。

 

 彼らは橋の欄干のすぐ傍にいた。だが気になるのは、そのすぐ近く欄干が一部破損していることだ。


 彼らは一様に壊れた欄干の下──つまりリラヘール大河を見下ろしていた。


 二人は真っ青な顔をしており、本を持った丸眼鏡の女の子に至っては泣きじゃくっている。

 

 ──ここいらの欄干は一部が脆くなってるところもあるんだ。気を付けろよ。

 

「……まさか」

 

 ノアが呟き、駆け出す。僕もそれに続いた。

 そして僕たち二人は壊れた欄干に到着し、川を見下ろした。


「やっぱり!」

 

 ノアが叫ぶ。

 予想通り川に溺れるもう一人の子供がいた。少女だ。つまり彼らは三人組なのだ。


「……あの子は君たちのお友達で間違いないかい?」


「そうだよ! エーカの馬鹿女! 度胸試しだって言って危ないことしやがって!」

 

 僕の質問に額に傷のある少年が泣きそうになりながらも答える。


 川で溺れている少女はエーカというらしい。クインドも言っていたが今のリラヘールは増水で川の流れが速くなっている。きっと小さな子供では水に流されて満足に泳ぐことは出来ないのだろう。


「誰か助けてくれ! お願いだ!」

 

 額に傷のある少年が悲鳴のような声で周囲に助けを求める。


 だが商人や通行人、オルド大橋にはたくさんの人間がいるが誰も助けようとしない。

 

 当たり前だ。

 この大きさでこの早さ、大人でも泳ぎ切れるか分からない流れなのだ。小さな子供一人助けながら泳ぎ切るのは至難の業だ。命の危険だってある。

 

 では僕はどうだ?

 

 これでも小さい頃は山育ちのようなことをしていた。(虫や小動物を殺すためだが)

 勿論、川で泳いだこともあるし泳ぎにはそれなりの自信もある。

 

 しかしそれは成人男性だった頃の話だ。

 今は十歳の子供の身体だ。

 

 出来るのか? 可能なのか?

 え、なに? 殺人鬼が人助けするのはおかしいって?

 

 ああ、そうだろうとも。僕は最低の殺人鬼だ。

 だがそれでも道徳的感情は持ち合わせている。

 

 そもそも人が人たらしめている要素とは何だ?

          

 断言しよう。理性と倫理だ。


 それが無ければ人間と獣は変わらない。

 

 心理学的に見れば、あるいはそれは僕の異常性の代償行為──補償というものなのかもしれない。まともな人間だと思い込みたいわずかながらの慰めだ。僕が人でいるために。


「さて高さは……」

 

 橋から水面まではおおよそ十メートル。


 プールの飛び込み台と同じような高さだ。下手な失敗しない限りは命の危険性は少ないだろう。

 

 僕は心の準備を整えて──


「──えいっ」


「──は?」

 

 ざぶん。

 何かが水面に着水する音が聞こえた。


「おいおいおい」

 

 僕のすぐ近くにいたはずのノアの姿が存在しない。


 言うまでもない。彼女が飛び込んだのだ。馬鹿なのか。死ぬぞアイツ。


「いや待て待て……わざわざ飛び込んだということは、泳ぎに相当自信があるということだ、落ち着くんだ僕」

 

 あるいは僕が助けに行く必要はなかったのかしれない。

 熟練者、プロがいるなら任せれば良い。餅は餅屋という。


「……なあ兄ちゃん、今飛び込んだ姉ちゃん……溺れているように見るんだけど……」


 額に傷のある少年が戸惑いながら僕に言ってきた。


「──ちょ、ちょ、やっぱむりこれ」


 溺れていた。

 ものすごくおぼれていた。


「──カナヅチかよ!」


 あらん限りに叫びながら僕は大橋から飛び込んだ。


 ひょっとしたらこんな大声でツッコミを入れたのは生涯初かもしれない。

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