第9話

九、

 まんじりともせぬうちに夜が白み、いつものを聞く羽目になった。朝のうちからサラは、ベルン修練場に向かった。

 早朝のホーロンは、相変わらずのせわしなさである。サラにとっては馴染み深い、いつもと変わらぬ日常の風景で、まるで昨日の葬儀が夢の中の出来事であったようだ。

 だが同じようでいてもサラのいるのは、数日前とは似ても似つかぬ世界だった。

 ガイウスの、家族の欠けた世界ーー。

 砂漠よりもなお荒涼と冷え冷えとした大地にふいに投げだされてしまった、そんな寂寥感が押しよせてくる。それは、家族や世界に何の幻想も持っていなかった「守本沙羅」が、初めて味わう喪失感だった。

 だけどもーー。

 本当の苦しみ、サラを煩悶させている、いやむしろ怯えさせているところの核心は、その寂寥感ではないのかもしれないのだ。サラは、そのことが、むしろ恐ろしかった。

 思わず立ち止まっていた。

 大路おおじの雑踏の中、自分だけが異邦人であることが、ひしひしと胸に迫ってきた。

 願いごとがーー。

(もしも願いごとがかなってしまうとしたら?)

 サラは想いをふり払うように、再び足を進める。気をまぎらわせないと、おかしくなってしまいそうだった。

(父の、ガイウスのことを調べよう)

 という気持ちは、昨夜、しんだいの上で輾転反側てんてんはんそくしながら、漠然とたどりついた心境だった。そんな風に、一つのことに気持ちを向けなければ、己れの抱いた罪悪感に向き合えなかった。大事なことから目をそらす言いわけにされているとすれば、ガイウスには迷惑千万かもしれない。それでもやはりサラは、せずにはいられなかった。

 ガイウスの死のわけを突き止めるには、まず常のガイウスを知る者に話を聞くことから始めるべきだろう。元の世界で「守本沙羅」は、読書家ではなかった。せめてミステリーくらい目を通していれば違ったかもしれないが、今さら後悔しても詮無せんなきことである。

 サラは、武館どうじょうに向かって歩きだした。


 武館どうじょうでは、アルキンに話を聞かせてもらった。叔父の語る懐旧談おもいでばなしは、ガイウスの謹厳実直な為人ひととなりをよく表していたが、新しい観点みかたを与えてはくれなかった。

 しかし、その中に一点、気になる部分があった。ガイウスがよく杏林いしゃと行動を共にしていたというのである。

 なぜ気になるのかと言うと、アルキンに教えてもらった、ガイウスが近ごろ親しくしていたという杏林いしゃは、アルサム家のかかりつけ医ではなかったからだった。

 アルサム家のかかりつけは、近所の里坊のイブンという町医者で、豊かな銀髪の洒落者の老人だった。しかし父とそれほど親しかった印象はない。

「いや、その先生ではないと思うよ。確か……そう、ハーリム先生だ」

 アルキンの示した里坊は、南西の城壁に近い、ごちゃごちゃと入り組んだ辺りで、あまり治安が良いとは言いかねる里坊まちだった。

 ハーリム・ハンについては何度か父との会話にのぼったという。古くからの朋友ゆうじんということだった。そしてここでも、アルキンは事情通なところを披露した。

 ハーリム医師は、町医者ながらその腕前をかわれ、宮廷の侍医団にも名を連ねるほどの杏林いしゃだという。ただ、侍医ともなれば、準士族扱いで立派な住まいをもつ者も多いのに、ハーリムは、平民ゾック街衢まちから動かないので、偏屈な変わり者として知られているらしい。

(それは……アルキン叔父さんと気が合いそう……)

 という感想は、なんだか失礼な気がして口には出さなかった。代わりにところをくわしく聞いたのだった。

 

 城内にただよう昼の喧騒を横目に見ながら、大路を南へ歩く。

 荷馬車や、商人、士族たちが行き交う道の両側には、立派な店構えの問屋や旗亭りょうりやがならんでいるが、南に下るにつれ、店肆みせはこぢんまりとしたものに変わっていった。

 水路にかかったいくつかの大橋を越えると大路はそこで終わり、道幅は狭く、店肆みせはいっそうみすぼらしくなった。人馬が密集して容易に前に進めない。南の門が近いのだ。途中で、当たりをつけて小路に入りこむ。

 そこは、ひびわれた土塗りの壁と、煉瓦を積んだだけの垣根のあいだを通る、細い路地だった。しばらく行きつ戻りつしたが、それらしい通りが見つからない。

 しかたなく大路に一度もどって進み、巷曲よこちょうの角の揚げ物屋で、老板てんしゅに訊ねた。甘い揚げパンを買ったのが良かったのか、男は存外、丁寧に道順を教えてくれた。

 教えられたとおりの角を曲がって、さらに辻を五つ過ぎた路地のすみに、ようやく木の看板を見つけた。看板に描かれた甘草の木は、薬舖くすりやを意味する。

 叔父の教えてくれた〈乳鉢小路〉は、薬屋や薬種問屋、それらに関連する店肆みせの集まった通りだった。でこぼこした石畳の左右に木の扉がならんでいて、香辛料や薬草の匂い、硫黄や石鹸のような香りが漂っている。秤を売る店や、調合された軟膏と単舎シロップの店、薬効があるとされる巴旦杏や胡椒、干し棗などをならべている店もある。

 その小路のなかほど、ひときわ傾いでいる扉が、目当ての医院びょういんのようだった。叩いた。

「ハーリム先生。いらっしゃいますか」

 返事はなかった。ハーリム医師の家は、住居兼医院のはずで、在宅ならば、出てきそうなものだ。

 留守なのかもしれない。だとしたら出直すしかないだろう。

 あきらめて踵を返しかけ、一応様子だけでも聞いておこうと考え直した。というより、もう一度迷わずここに来られるのか、はなはだ怪しかったのだ。

 ハーリム医院の両脇の建物のうち、左隣の家は、入り口に板が打ちつけてあって、とても人が住んでいるようには見えない。右は古いしもたやで、生活の気配が感じられた。サラはそちらの戸を叩いた。

 ガタガタと扉がほそくひらいて、中年の女がサラを見かえした。

「お隣のハーリム先生を訪ねてきた者なのですが、いらっしゃらないみたいで。先生がどちらにおられるか、ご存知ありませんでしょうか」

 女の後ろ、家の奥のほうから子どもの泣き声が聞こえてきた。女は扉の中にむかって、うるさいね、静かにおし、と怒鳴った。

 女はくるりとふり返ると、まるでサラがその泣き声の元凶であるかのようににらんで、知らないね、と答えた。

「先生は、朝からお出かけですか」

 女はうるさそうに手をふった。

「違うわよ。そうさねぇ、ここ七、八日ばかしみてないね」

 七、八日といえば、結構なあいだ、家を開けていることになる。

「旅に出られたのでしょうか」

「だから、知らないって言っているだろ」

 女は家の奥に向かってもう一度うるさいわね、と怒鳴った。

 もういいだろ、と女はサラを外に押しだした。礼の言葉もいい終わらないうちに、サラの鼻先でバタンと扉が閉められた。

 まったくけんもほろろだった。探索というのは、一筋縄ではいかないものらしい。父やガスコンも、さぞや苦労していただろう。父を知る人間に話をきこうとしただけなのだが、どうも簡単ではなさそうだ。

(……帰ろう)

 と、思っていると、再び扉がひらいた。

「あんた、まだいたの」

 女が不機嫌そうに言う。

「い、いえ、もう帰ります」

 慌てて立ち去ろうとしたサラの背中に、そういや、と女がそっけなくつけくわえた。

「ここをまっすぐいった先の薬屋の離れに、医者の弟子がいるはずだよ。そいつに聞けばなにかしっているかも」

 思いがけない情報にふり返ると、派手な音を立ててドアを閉められたところだった。

 ありがとうございます、と中に聞こえるくらいの大きな声で、サラはお礼を言った。


 弟子だというその男は、褐色の肌に漆黒の髪で、きれいに手入れされた口髭の若者だった。

わたしは、サラ・アルサムと申します」

 サラは切り出した。

「あなたはハーリム先生のお弟子さんだとか。お尋ねしたいことがあります」

 男は目をパチクリとさせた。あらためて見ると意外に若い。口髭のせいで判りづらいが、年はジクロとさほど違わないのではないだろうか。

「聞きたいこと? 僕に?」

「はい。ハーリム先生がどちらにいらっしゃるか知りませんか」

「あんた、誰よ。いや、アルサムっていったっけ。てことは、ガイウス様のお邸第のひと?」

「娘です」

「へえ」

 男はきまりが悪くなるくらい、上から下までじろじろ眺めた。男が名のる。

「おれはザビネ。ハーリム先生がどこにいったのか、おれが聞きたいくらいだよ」

「ザビネさんも、何も聞いていらっしゃらないんですか」

「まったく。困っちまうぜ」

 さほど深刻でもないようすで、ザビネはいった。

「そういえば、ガイウス様もみえなくなったね。よく遅くまで相談ごとをしていたようだけど。お元気かい」

 どうやら、父の訃報を知らないようだった。そこで事情をはなすと、きまり悪そうに、お悔やみをのべた。

「父は、よくこちらにみえていたのですか」

「ああ。というか、ここふた月ばかりは三日と空けずって感じで。その前は月に一度来るくらいだったかな」

「そんなに……」

 医師が父と親しかったというのは本当のようだ。ただ、サラは内心、首をひねった。朋友と語りあうにしてはいささか頻度が高い気がしたのだ。いや、男でも友だち同士だとそれが普通なのだろうか。男子に縁のなかった「沙羅」には、判じかねた。

「ま、薬をもらっていたみたいだからね。ここは天下の〈乳鉢小路〉だし」

「薬……ですか?」

「毎度、油紙の包みを先生にもらっていたよ」

 父が、病にふせっていたことはないし、持病を抱えていたとも思えない。だとしたら包みとやらの中身は何だったのだろう。ハーリムにきけば教えてくれるだろうか。

 しかし今のところ、ハーリム医師の不在は、本格的な失踪になりそうな気配だ。思いもかけない展開に、首筋がちりちりと逆立つような不快感をかんじる。

(まるで……)

 ガイウスの死と、ハーリム医師の失踪が連動しているかのようではないか。

(考えすぎ……だよね)

 黙りこんだサラに、ザビネが気軽にいった。

「先生の家をみてみる?」

 戻って開けてもらった医院は、ひとつの部屋をついたてで区切って、診察室と薬置場と住居にしたものだった。奥と左右の三方に棚が作りつけてあって、薬壜、薬草、水瓶、書物などが収まっている。

「先生がいなくなったときのまま、まったく手をつけてないよ」

 ザビネが、部屋の中央にきられた小さな炉をさす。炉の上には、小鍋がかけてあり、周りに粉末の入った皿と、乳鉢、乳棒が散乱している。

「全部出しっぱなしでしょ。うちの先生、僕にはいつも出したものは必ずしまえってうるさいのよね。自分がきっちりしているもんだから。だから、先生自身が道具をこのままにして出かけるのは不思議だな、よほど急いでいたのか……」

「ハーリム先生がいらっしゃらなくなって、七、八日ほどだと」

「七日前になるかな。朝いつもどおりの時間にここにきたら、このとおりさ」

小偸どろぼうの類いだとは考えられませんか」

 部屋のようすから思いついてたずねた。ザビネは、少し考えてから、でもなにもなくなってないしね、といった。

「覚えているかぎりでは、なくなっているものはないはずだよ。ただ」戸惑ったような顔になる。「誰かが入りこんだ様子はある」

 ザビネは乳棒をつまみ上げて、弄びだした。

「はじめに部屋に入ったときと、物の置きどころが、ずれているような気がするんだ」

(何者かが物色したということだろうか……?)

「そうだとすると、先生は……」

「誰かにかどわかされた、かもね」

 ザビネが、にやり、と人の悪そうな笑みをもらした。

「その、金吾衛には、届け出られないのですか」

 ザビネは、乳棒をほうりだして、皮肉な目をむけた。

「このあたりじゃ、行き方しれずなんて珍しくない。大の大人が、七日ばかり姿が見えないからといって、いちいち取りあっちゃくれないよ」

 ま、なにか分かったら教えて頂戴、と逆に約束させられて、サラは追い出されてしまった。

 

 ほとんどの捕吏とりかたの住まいは、官衙やくしょのある里坊の近くに集中していた。

 サラの住む邸第やしきは、祖父の代からもので捕吏たちの住まう里坊からは外れるが、ガスコンの宅へは子どものころから何度か遊びに訪れたので、勝手はわかっていた。

 おとないを入れると、ガスコンの妻君が対応してくれた。すぐに、よく日焼けしたガスコンが出てきた。

「サラちゃんーー」

「お寛ぎのところ、申し訳ございません」

 ガスコンは堅苦しい物言いに一瞬、目をみはったが、相好を崩して、どうぞこちらへ、とサラを招じ入れた。

 客庁きゃくまで椅子をすすめると、すぐに奥から妻君が、香りのよい茶の入った素焼きの茶碗を持ってきた。

「あ、おかまいなくーー」

 あわてて手をふりながら、こちらこそ手土産のひとつも持ってくるべきだったと、自分の気のまわらなさに冷や汗がでる思いだった。まごついていると、妻君は丁寧に、弔意をあらわした。

「あらためてお悔やみ申し上げます。ガイウス様には、夫婦共々ひとかたならぬご指導をたまわっておりました」

「お気づかい、いたみいります……」

 サラは、ひたすら恐縮するのみだった。ガスコンがうながしてくれたので、サラから口を開いた。

「いまさら……こんな話、変に思うかもしれませんが……。実は、普段の父の様子がどんなだったかききたいと思って、おうかがいしたの」

「と、もうされますと……」

 サラは、ごく率直に、自分の気持ちを口にすることにした。

「不思議なもので……父上にはずいぶんと反発したけれど……亡くなってみてはじめて、胸にぽっかりと穴があいたようになって……」

 ガスコンのとまどった表情が、なごんだものに変わった。サラの話し終えるのをきいて、口をひらいた。

「おそれながら、お気持ちをお察しいたします。儂も、まだ若い時分に父親が事故にてみまかりまして。それで儂が、若輩の身ながら家督を継いで、お役目を拝命したのです」

「そうだったんですかーー」

 捕吏とりかたは基本的に世襲制で、代々受け継がれていくつとめである。正式に役目を拝命すると数年、見習いとしてつとめるのだが、ガスコンの見習い時代に躾役しつけやくとして指導を行ったのが、先輩である父ガイウスだったらしい。

「詮無きことながら、後になってから父に訊いてみたいこと、話したいことがたくさん出てきたものです。そいうった事どもを受け止めてくださったのがガイウス様でした……」

 故人を偲んだ四方山話よもやまばなしにはやがて妻君も加わり、ガスコン夫妻の婚礼で祝辞を述べるはずの父が大遅刻をした話を面白おかしく教えてくれたのだった。あたたかいもてなしに、サラは胸がいっぱいになった。次はキチンと手土産を持ってこよう、と心に誓ってサラは、遅くならないうちに辞去することにした。

 帰り際、ふと、思いついたことが口に出た。会ったばかりのザビネのことが、頭の中に残っていたからだった。

「つかぬことをうかがいますが、ガスコン小父さま。父がお杏林いしゃさまのもとに通っていたことをご存知ですか」

 ガスコンの顔に、赤みがさしたのをサラは不思議に感じていた。目をそらしたしぐさも心なしかぎこちなく、急に年をとったようにも見えた。

「はて。存じかねまするが……」

 その様子が、どんな心情によるものなのかサラにわかったのは、しばらく後のことだった。

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