第8話
八、
アルキンの
厨房をのぞくと、夕食がつくりかけのまま放置されていた。よほどのことがない限り、しっかり者のジナが散らかしたまま厨房を空けるはずがない。
声をだして呼ばわっても、どこからも、誰からも反応がない。
サラはひと気のない邸第で、立ちつくした。家を襲った
(ーーとにかく)
何があったのか、調べなくては。
手がかりを求めて、邸中の
行ってみると隣家の妻女が、顔をのぞかせていた。
「ああ、サラ様。こちらにいらしたのですか。急いでお
「金吾衛に?」
「ああもう、ジナさんの出したお使いには、お会いにならなかったのですか」
「いえ」
心臓が、早鐘のように打ちはじめた。
「どうしましょ、行違いかしら。とにかくお急ぎになって」
妻女は勢い込んで言う。
「ちょっ、ちょっと落ち着いてください。一体何があったのですか」
妻女が、雷にでも撃たれたように身体を震わせた。まじまじとサラを眺める。それは自分が伝えなければならないことの大きさに
ごくりと喉を鳴らすと妻女は、サラの両肩を抱いてひたと見据えた。
「サラ様。お気をたしかに」
(ーー嫌だ)
聞きたくない、とサラは思った。彼女は決定的な何かを伝えようとしている。そう感じると、サラは耳をふさいで、逃げだしたくなった。しかし妻女の声は、不吉な託宣を告げる
「ついさっき報せがあったのーー。お父上が、ガイウス様が亡くなられたって」
*
あまりに悲痛な出来事に遭ったとき、人の心は動きを止めてしまうのだということを、サラは初めて知った。涙すら出てこなかった。
金吾衛の一室で、物言わぬ父ガイウスと対面した瞬間、サラの心は凍りついてしまった。むせび泣くジナも、放心して立ち尽くすジクロさえも、遠い世界にいるようだった。
家族の混乱と虚脱のなかで訪れた葬儀の日は、けぶるような
行き先は
葬列しか出入りを許されぬ北東の
すでに掘られている穴の前で、参列者たちは止まった。墓掘り人足たちが縄を用意し、くくりつけると、木棺がゆっくりと墓穴に下ろされた。人々は、黒々と口を開けた穴をぐるりと取り囲んだ。墓穴はまるで冥府まで続く
悄然とこうべを垂れるガイウスの同役や部下たち。険しい顔のラムルのとなりでは、アルキン叔父も暗い目をしている。
ジナはとても最後まで見ていられないと、邸第に残った。厨房から動かずにいて、隣家の妻女とその夫がついていてくれている。
ジクロの変貌は、目を覆わんばかりだった。もともと細かった頬が
そこかしこから洩れる泣き声は雨音にかき消され、あるいは混ざり合い、サラたちを覆う音の壁となった。神官の捧げる祈祷だけが、音の壁をこえてくる。
祈祷がすむと、無造作に柩に土がかけられはじめた。
ふいにーー。
サラはみぞおちの辺りに熱い塊を感じた。灼熱のそれはのたうちまわり、胸をつきあげてくる。こらえきれずに、顔を背け、嘔吐した。
痙攣は幾たびもやってきた。
震え続けるサラの肩を、誰かの手が包み込んだ。ジクロだった。
「我慢、しないほうがいい。こういうときは……思い切り泣くんだ」
ジクロの声が、胸の扉をこじ開けた。
自分の口から、聞いたことのない声がほとばしった。
堰を切ったように、涙が溢れでてくる。
自分を取り巻いていた、見えない壁がべりべりと剥がれ落ちていくようだった。涙は止めどもなく、後から後から流れ続けた。そのまま自分さえも、溶けて流れ出してしまいそうだった。
兄のーーいとしい
*
半刻ほどのちサラは、
ぱちぱちと
ひとりになった。
どれくらい、ぼんやりと瞳に炎を映していただろう。
サラは唐突に、いま初めて、自分がガイウスの死を理解したのだということが分かった。頬を熱いものが伝わった。
父は死んでしまったのだ。
ともに暮らすようになった一年のあいだ、ガイウスは、サラの意識のうえでは父親ではなかった。少なくとも「守本沙羅」はそう思っていた。しかし、沙羅とサラが入り交じっていくにつれ、ガイウスは本当の父親になっていたのだ。悲しみに反応する身体と心が、ようやくぴったりと一つに合わさった。
袖で涙をぬぐった。昨日、
父は、布を掛けられて横たわっていた。かたわらの小卓に置かれた香炉から、薄く煙がたち昇っていた。
父の死に顔はーー不思議なくらい穏やかだった。まるで微笑みすら浮かべているかのように。
だがその表情とは対照的に、
サラも剣士の端くれだ。実戦経験はないが、傷痕の具合から相手の力量を推し量ることができる。父を
(ーー一体誰が父を殺したのだろう。)
サラの頭に今、初めてその疑問が浮かんだ。ガイウス・アルサムは並みの剣士ではない。父を
ホーロンでいうなら、オウダインのグルクス、ジュダスのサハム、それに……。
そこまで考えて、サラはぎくりとなった。ベルン修練場の剣士が、父に刃をむけることなど考えられない。仮にそうであったとしても、ベルンの中で父を斃せる力量のある者はいないだろう。どちらにしても、そんなことはありえないし、考えたくもなかった。
忌まわしい想念を否定するため、頭をふった。
と、扉を叩く鈍い音がした。
どうぞ、と答えると、顔中を髭で覆われた
「サラちゃん」
むさ苦しい髭の奥で、優しい眼が潤んでいる。
「このたびは……本当に……」ガスコンは声をつまらせた。「……なんと
「
サラの声も再びしめっていた。
小さい頃は、
「あの人が死んだなんて、
大きな身体を窮屈そうに椅子に押し込みながら、呟くように言った。
「亡くなられた日だって、いつもと同じようにお父上と挨拶をしたんだ。『息子どのの様子はどうだ』なんて仰って……」
ガスコンの息子は父親と同じ、金吾衛の捕吏である。
「父上は……亡くなったあの日、朝から出仕していたのでしょうか」
「ええ、
父が発見されたのは、ホーロン郊外のバソラという小さな
二日前の朝、邨はずれの森で倒れていた父を、住人が発見したのだと言う。父を見知っていた
バソラ、という地名には馴染みがあった。隠遁した祖父が庵をむすんだ土地がバソラ邨だった。父が見つかった場所は、その祖父の庵の
「父上が……どうしてバソラに?」
「さて、それが皆目わからんのですよ」
ガスコンはサラのつぶやきを質問ととったようだった。サラはガスコンの言葉を吟味して、あらためて訊ねた。
「おつとめの上の儀ではなかったのですか」
漠然とだが、
「それが……どうもはっきりせんのです。いや、
「まあ。小父さまにもいわずにお調べをするなんて、よくあることなのですか」
「ありますよ。例えばですな、
「〈
「いわゆる
「つまり父上が追っていたのは、そういった、未だ事件にならざる事件のひとつということですか」
「おそらくは。あるいは……」とガスコンは言葉を止めた。「易々とは表にだせない類の大きな事件であったか、です」
サラはうそ寒いものを感じて、両の腕をかき抱いた。父を葬り去った、巨大で禍々しい闇の翼を、ちらと垣間みたような気がした。
「父が追っていた事件というのに、心当たりはないですか」
答えかけてガスコンは、喋りすぎていることに気づいたらしい。軽く咳払いすると、ごまかすように言葉をつなげた。
「それが、此度のガイウス様の件とつながっているかは、これからの調べでわかるとおもわれます。サラちゃん、お父上のことはわしらにお任せください」
「小父さまがお調べしてくださるのですか」
「それは……」
ガスコンが言葉を濁す。苦しそうに眉根をよせた。いまの月、金吾衛の月番は右府であった。左府の
「ごめんなさい、酷いことを言って。小父さまのせいではないのに」
ガスコンは弱弱しい笑みをみせて、部屋を出ていった。入れ違いにジクロが顔を出した。
「気分はどう?」
心配そうにたずねてきた。
「うん……大丈夫……だと思う」
ジクロは椅子を引き寄せて座った。ジクロもサラも、無言で瞳に炎を映した。そんな時間を暖かく感じるほどにサラは、罪悪感を覚えた。
やがてジクロが、ひとり言のように口を開いた。
「僕も昔、同じようなことがあったよ。サラが生まれてすぐ、母さんが亡くなった時だけど」すこし言葉を切った。「
サラは顔を上げた。
ジクロは照れくさそうに頭を掻いた。
「情けない話だけど。でも人には、ありのままに感情をぶちまけたほうがいい、そんなときがあると思う」
ありがとう、とサラはもう一度礼をいった。ジクロのひと言があと押してくれなければ、感情をうまく吐きだすことができなかったかもしれなかった。そしていま、こんな穏やかな状態ではいられなかったろう。
(不思議だーー)
人おじする性格の守本沙羅だったら、自分が見せた醜態で、恥ずかしくて口を開くことすらできないだろう。兄妹だからこそ、素直な気持ちでジクロのそばにいられるのだろうか。
(いや……)
彼だからーージクロだからなのかもしれない。そう考えるうち、図らずも心の奥底に秘めている
サラは辛うじて、話題を変えた。
「ジナはまだ厨房にいるのかしら」
「今はラムルがついてくれているよ」
「わたしもジナのところに行く」
差し出されたジクロの手を取った。さっきと同じ、いやそれ以上に熱く感じられた。
黒獅子候の子アガム。
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