第8話

八、

 アルキンのもとから邸第やしきに帰るなり、サラはすぐに異変を感じた。雨が降っているのに玄関扉は開け放たれていて、雨水が吹き込んでいたのだ。

 厨房をのぞくと、夕食がつくりかけのまま放置されていた。よほどのことがない限り、しっかり者のジナが散らかしたまま厨房を空けるはずがない。

 声をだして呼ばわっても、どこからも、誰からも反応がない。

 サラはひと気のない邸第で、立ちつくした。家を襲った奇禍きかを想像したが無駄だった。得体のしれない不安が、群雲むらくものように胸のなかに生まれてきた。

(ーーとにかく)

 何があったのか、調べなくては。

 手がかりを求めて、邸中の房室へやという房室へやを開けて回っていると、ばたばたと玄関口の方で音がする。

 行ってみると隣家の妻女が、顔をのぞかせていた。

「ああ、サラ様。こちらにいらしたのですか。急いでお官衙やくしょに、お行きになって」

 逼迫ひっぱくした表情おももちに、サラの不安はいや増す。

「金吾衛に?」

「ああもう、ジナさんの出したお使いには、お会いにならなかったのですか」

「いえ」

 心臓が、早鐘のように打ちはじめた。

「どうしましょ、行違いかしら。とにかくお急ぎになって」

 妻女は勢い込んで言う。

「ちょっ、ちょっと落ち着いてください。一体何があったのですか」

 妻女が、雷にでも撃たれたように身体を震わせた。まじまじとサラを眺める。それは自分が伝えなければならないことの大きさにおののいている目だった。

 ごくりと喉を鳴らすと妻女は、サラの両肩を抱いてひたと見据えた。

「サラ様。お気をたしかに」

(ーー嫌だ)

 聞きたくない、とサラは思った。彼女は決定的な何かを伝えようとしている。そう感じると、サラは耳をふさいで、逃げだしたくなった。しかし妻女の声は、不吉な託宣を告げる凶鳥まがどりのように無情に響いた。

「ついさっき報せがあったのーー。お父上が、ガイウス様が亡くなられたって」


 あまりに悲痛な出来事に遭ったとき、人の心は動きを止めてしまうのだということを、サラは初めて知った。涙すら出てこなかった。

 金吾衛の一室で、物言わぬ父ガイウスと対面した瞬間、サラの心は凍りついてしまった。むせび泣くジナも、放心して立ち尽くすジクロさえも、遠い世界にいるようだった。

 家族の混乱と虚脱のなかで訪れた葬儀の日は、けぶるような小糠雨こぬかあめだった。幾日も続いている季節はずれの雨天の中、柩は邸第の楼門をくぐり運ばれていった。

 行き先は城市まちの城壁をでた北東で、わずかばかりの岩山があり、ホーロンの墓所になっている。住民たちは〈死者の丘〉と呼びならわしていた。

 葬列しか出入りを許されぬ北東の不浄門ふじょうもんをくぐると、ゆるゆるとした登り坂が丘の上へと続いている。

 いただきには、柩の材になる樹木がまばらに生え、墓碑が雑然とならんでいた。敷石のある一本道から墓標の中に分けいると地面はぬかるみ、参列者たちはずぶ濡れのうえに足をとられるはめなったが、途中で立ち去るものはいない。

 すでに掘られている穴の前で、参列者たちは止まった。墓掘り人足たちが縄を用意し、くくりつけると、木棺がゆっくりと墓穴に下ろされた。人々は、黒々と口を開けた穴をぐるりと取り囲んだ。墓穴はまるで冥府まで続く陥穽おとしあなのようだった。

 悄然とこうべを垂れるガイウスの同役や部下たち。険しい顔のラムルのとなりでは、アルキン叔父も暗い目をしている。

 ジナはとても最後まで見ていられないと、邸第に残った。厨房から動かずにいて、隣家の妻女とその夫がついていてくれている。

 ジクロの変貌は、目を覆わんばかりだった。もともと細かった頬がけ、眼窩は落ち窪んで見える。

 そこかしこから洩れる泣き声は雨音にかき消され、あるいは混ざり合い、サラたちを覆う音の壁となった。神官の捧げる祈祷だけが、音の壁をこえてくる。

 祈祷がすむと、無造作に柩に土がかけられはじめた。

 ふいにーー。

 サラはみぞおちの辺りに熱い塊を感じた。灼熱のそれはのたうちまわり、胸をつきあげてくる。こらえきれずに、顔を背け、嘔吐した。

 痙攣は幾たびもやってきた。

 震え続けるサラの肩を、誰かの手が包み込んだ。ジクロだった。

「我慢、しないほうがいい。こういうときは……思い切り泣くんだ」

 ジクロの声が、胸の扉をこじ開けた。

 自分の口から、聞いたことのない声がほとばしった。

 堰を切ったように、涙が溢れでてくる。

 自分を取り巻いていた、見えない壁がべりべりと剥がれ落ちていくようだった。涙は止めどもなく、後から後から流れ続けた。そのまま自分さえも、溶けて流れ出してしまいそうだった。

 兄のーーいとしい漢子おとこの手の温もりだけが、サラをここに繋ぎとめていた。


 半刻ほどのちサラは、邸第やしき客庁きゃくまで冷えきった身体を乾かしていた。

 ぱちぱちと壁炉だんろ粗朶そだのはぜる単調な音が、少しずつサラを恢復かいふくさせていった。ジクロは、サラをながいすに座らせると手巾てぬぐいを頭に被せて、何も言わずに出ていったのだった。

 ひとりになった。

 どれくらい、ぼんやりと瞳に炎を映していただろう。

 サラは唐突に、いま初めて、自分がガイウスの死を理解したのだということが分かった。頬を熱いものが伝わった。

 父は死んでしまったのだ。

 ともに暮らすようになった一年のあいだ、ガイウスは、サラの意識のうえでは父親ではなかった。少なくとも「守本沙羅」はそう思っていた。しかし、沙羅とサラが入り交じっていくにつれ、ガイウスは本当の父親になっていたのだ。悲しみに反応する身体と心が、ようやくぴったりと一つに合わさった。

 袖で涙をぬぐった。昨日、遺骸なきがらと対面したときの情景を思い出す。

 父は、布を掛けられて横たわっていた。かたわらの小卓に置かれた香炉から、薄く煙がたち昇っていた。

 父の死に顔はーー不思議なくらい穏やかだった。まるで微笑みすら浮かべているかのように。

 だがその表情とは対照的に、くびの左右両側には、ざっくりと無残な切創きりきずが口を開けていたのだった。

 サラも剣士の端くれだ。実戦経験はないが、傷痕の具合から相手の力量を推し量ることができる。父をたおした相手、それが何者かはまったく分からないが、尋常でないつかなのは間違いなかった。

(ーー一体誰が父を殺したのだろう。)

 サラの頭に今、初めてその疑問が浮かんだ。ガイウス・アルサムは並みの剣士ではない。父をたおすことができるのはナリン砂漠、いや、砂漠地帯を包含するダイナム大盆地広しといえども、数えるほどしかいなだろう。

 ホーロンでいうなら、オウダインのグルクス、ジュダスのサハム、それに……。

 そこまで考えて、サラはぎくりとなった。ベルン修練場の剣士が、父に刃をむけることなど考えられない。仮にそうであったとしても、ベルンの中で父を斃せる力量のある者はいないだろう。どちらにしても、そんなことはありえないし、考えたくもなかった。

 忌まわしい想念を否定するため、頭をふった。

 と、扉を叩く鈍い音がした。

 どうぞ、と答えると、顔中を髭で覆われた巨漢おおおとこが入ってきた。父の部下で、捕吏とりかたのガスコンだった。

「サラちゃん」

 むさ苦しい髭の奥で、優しい眼が潤んでいる。

「このたびは……本当に……」ガスコンは声をつまらせた。「……なんとむごいことだ」と、ようやくそれだけ言った。

小父おじさま……」

 サラの声も再びしめっていた。

 小さい頃は、邸第やしきを訪ねてきたガスコンによく遊んでもらった。サラを肩にのせたガスコンは、髭を引っ張られようが、頭を叩かれようが、いつまでもニコニコとつき合ってくれたものだった。ずいぶん経ってから、この気のいい小父さんが、悪党たちに〈赤髭ガスコン〉と恐れられる捕吏であることを教えられた。昔は小山のように感じていた巨体が、今日はやけに萎んでみえる。

「あの人が死んだなんて、わしにはまだ信じられんよ」

 大きな身体を窮屈そうに椅子に押し込みながら、呟くように言った。

「亡くなられた日だって、いつもと同じようにお父上と挨拶をしたんだ。『息子どのの様子はどうだ』なんて仰って……」

 ガスコンの息子は父親と同じ、金吾衛の捕吏である。

「父上は……亡くなったあの日、朝から出仕していたのでしょうか」

「ええ、わしがお会いしたのが中午しょうごごろでしょうか。官衙やくしょを出てバソラに向かわれたのは、そのすぐ後のようです」

 父が発見されたのは、ホーロン郊外のバソラという小さなむらだった。

 二日前の朝、邨はずれの森で倒れていた父を、住人が発見したのだと言う。父を見知っていた邨人むらびとは、直ちにホーロンへおもむいて金吾衛に届け出た。急報を受けた金吾衛は、身元確認のためすぐさま現場に父の従者を走らせた。半信半疑だった父の従者は、現場で信じられないものを眼にすることになった。百戦錬磨の捕吏にして、ホーロン随一の剣士のむくろーーまごうことなきガイウス・アルサムの亡骸を。しばし呆然と立ち尽くした従者は、ホーロンにすぐさまとって帰ったのだった。

 バソラ、という地名には馴染みがあった。隠遁した祖父が庵をむすんだ土地がバソラ邨だった。父が見つかった場所は、その祖父の庵のそばだという。だが祖父が亡くなって以来、邨に足を踏み入れたことのないサラは、詳しく現場の様子を思い描くことはできなかった。そして、バソラに近づきたがらなかったのが他ならぬガイウス自身だったことに気づき、自然と疑問が口をついてでた。

「父上が……どうしてバソラに?」

「さて、それが皆目わからんのですよ」

 ガスコンはサラのつぶやきを質問ととったようだった。サラはガスコンの言葉を吟味して、あらためて訊ねた。

「おつとめの上の儀ではなかったのですか」

 漠然とだが、捕吏とりかたとしての任務中に、事件に巻き込まれたのとばかり思い込んでいた。

「それが……どうもはっきりせんのです。いや、わしもおつとめの上の動きだとは思うとります。なんといっても、お父上のことですから。ただ、近ごろガイウス様は、お一人で追っている事件があったようで、それについては周りの者にも、わしにすらも一切漏らしていないのです」

「まあ。小父さまにもいわずにお調べをするなんて、よくあることなのですか」

「ありますよ。例えばですな、わし捕吏とりかたは、おのおの〈塔鳩どばと〉を使っております」

「〈塔鳩どばと〉?」

「いわゆる細作みっていというやつです。捕吏は〈塔鳩〉を何人も抱えておって、探索の手先として動かすのです。また、〈塔鳩〉のほうから裏の世界の噂を教えてくれることもあります。その場合は、官衙やくしょをあげて調べるたぐいのものかを捕吏とりかたが見極めてから、上役うわやく執金吾しつきんごじょうにあげて裁可をもらいます」

「つまり父上が追っていたのは、そういった、未だ事件にならざる事件のひとつということですか」

「おそらくは。あるいは……」とガスコンは言葉を止めた。「易々とは表にだせない類の大きな事件であったか、です」

 サラはうそ寒いものを感じて、両の腕をかき抱いた。父を葬り去った、巨大で禍々しい闇の翼を、ちらと垣間みたような気がした。

「父が追っていた事件というのに、心当たりはないですか」

 答えかけてガスコンは、喋りすぎていることに気づいたらしい。軽く咳払いすると、ごまかすように言葉をつなげた。

「それが、此度のガイウス様の件とつながっているかは、これからの調べでわかるとおもわれます。サラちゃん、お父上のことはわしらにお任せください」

「小父さまがお調べしてくださるのですか」

「それは……」

 ガスコンが言葉を濁す。苦しそうに眉根をよせた。いまの月、金吾衛の月番は右府であった。左府の捕吏とりかたであるガスコンが弔い合戦を意気込んでも、調べに加われるとは限らないのだ。

「ごめんなさい、酷いことを言って。小父さまのせいではないのに」

 ガスコンは弱弱しい笑みをみせて、部屋を出ていった。入れ違いにジクロが顔を出した。

「気分はどう?」

 心配そうにたずねてきた。

「うん……大丈夫……だと思う」

 ジクロは椅子を引き寄せて座った。ジクロもサラも、無言で瞳に炎を映した。そんな時間を暖かく感じるほどにサラは、罪悪感を覚えた。

 やがてジクロが、ひとり言のように口を開いた。

「僕も昔、同じようなことがあったよ。サラが生まれてすぐ、母さんが亡くなった時だけど」すこし言葉を切った。「漢子おとこだから泣くのはみっともない、と気を張っていたら、もどしてしまった」

 サラは顔を上げた。

 ジクロは照れくさそうに頭を掻いた。

「情けない話だけど。でも人には、ありのままに感情をぶちまけたほうがいい、そんなときがあると思う」

 ありがとう、とサラはもう一度礼をいった。ジクロのひと言があと押してくれなければ、感情をうまく吐きだすことができなかったかもしれなかった。そしていま、こんな穏やかな状態ではいられなかったろう。

(不思議だーー)

 人おじする性格の守本沙羅だったら、自分が見せた醜態で、恥ずかしくて口を開くことすらできないだろう。兄妹だからこそ、素直な気持ちでジクロのそばにいられるのだろうか。

(いや……)

 彼だからーージクロだからなのかもしれない。そう考えるうち、図らずも心の奥底に秘めている真話ほんねが洩れそうになる。ーー貴方あなたが欲しい、と。

 サラは辛うじて、話題を変えた。

「ジナはまだ厨房にいるのかしら」

「今はラムルがついてくれているよ」

「わたしもジナのところに行く」

 差し出されたジクロの手を取った。さっきと同じ、いやそれ以上に熱く感じられた。

 房室へやを出るとき、もう一人、父をたおす可能性のある剣士が浮かんだ。祭りの奉納仕合でサラを圧倒した実力の持ち主。

 黒獅子候の子アガム。

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