23

 野営地の中心では、焚き火が焚かれている。女性陣の天幕を出た俺は、アデライデがその火にあたってくつろいでいるのを見つけた。

「長いこと追い出してしまって悪かった」

 隣に腰を下ろし詫びた俺をまじまじと見ると、アデライデはこう呟いた。

「ブレイリー、あなた、憑き物が落ちたって顔をしてるわ」

 その言葉は、端的かつ深長だ。思わず目を瞬かせた挙げ句、問うてしまった。

「……やっぱり俺、憑いてたか?」

「そのあなたに憑いてたものが、ずっとうちの旦那を苦しめてたもの、戦っていたものよ」

「……そうか。そうなのか」

 思わずこぼしてしまった俺の両頬を、べしっと音が出るほど両手のひらで挟んで、アデライデは笑う。

「あなたのその顔を、早くセプタードに見せてやりたい」

 ああ、と思わず俺は声を上げた。それは同意と嘆息がない交ぜになっていた。

 セプタードがどうしてこいつと結婚したのか、俺はやっと感覚として呑み込めた。

 あいつは剣士としては神だし、酒場の主としてもやり手だが、夫としてはかなりしようもない男かもしれない。そしてそのしようもなさを、呑み込めるのがこいつなんだろう。その加減は、しみじみ偉大だ。

 あいつがきっとそうであるように、俺もただ頭を下げるしかない。

 その上で、こう問う。

「アデライデ、お前に頼み事があるんだ。聞いてもらえるだろうか」

「あんたが改まると、どんな大事が来るんだろうかって身構えてしまうけれども。なにかしら?」

「ロスマリンが俺のところに来たら、同性として――姉貴分として力になってもらえないだろうか」

 それは俺にとって、切実な願い。

「同性だから安心できることがあり、同性でなければ判らないことがある。それを今回実感した。俺は俺で夫として頑張るつもりではいるが、気を許せる同性があいつには絶対必要だ」

 真摯に頼んだ俺に、アデライデは相好を崩した。

「やっぱりあなたはくそ真面目よねえ。そんなこと、私やクレアにとっては、頼まれるようなことではないわよ」

「そうか」

「私たちがあの子のことを可愛いと思っているのは勿論よ。でもそれだけじゃない。私たちはとうに覚悟はできている。セプタードとウィミィは結婚前から、あなたと生涯を共にする気でいた。それを判った上で、私たちは結婚したのだもの。あなたの奥さんを支えるのは、私たちの役目よ」

 意外な言葉だった。けれども同時に、心の奥底が「やっぱり」と呟いていた。

 この十四年の俺の曇った目でも見えていた。二人がどれほど俺に心を砕いてくれていたのかは。

 息が止まりそうになる俺を支えるために、どれほど気遣ってくれていたのか。

 ただその気持ちを受け止めることを、俺が拒んでいただけ。見ないふりをしていただけ。

 二人の気持ちは、本当は判っていた。

「そう言うところをみると、求婚はうまくいったと考えていいのね」

 焚き火で温めていたワインをカップに注ぐと、俺にも勧めてくれる。ありがたく受け取ると、無言で頷いた。

 そんな俺に、アデライデは小首を傾げて問う。

「……ごめん、野暮なこと聞くけど、その勢いで事に及んでもよかったんじゃないの? アルベルティーヌに着いたら何がどうなるか判らない。今晩が、最後の機会だったんだじゃないの?」

 アデライデが問うていることは判る。そう、ロスマリンとの結婚を侯爵家に認めさせるのに、それも一つの手段ではある。

 判るからこそ、俺は正直に答える。

「正直に言えば、抱きたかった。あいつが求婚に応えてくれた時、凄く迷ったし、揺れた」

「でも、堪えたんだ。どうして?」

「既成事実を作って、結婚を押し通すのも一つの方法だとは、俺も思う。だけどそもそも俺は、ロスマリンを傷ものにしないために、兵を率いて助けにいったんだろ? その当の俺がここで手を出してどうするんだ」

 冗談抜きで言ったつもりなのだが、アデライデは爆笑した。

「まあ、確かにそうなんだけど。この堅物」

「さっきロスマリンにも言ったんだが、俺はこの七年間、俺と一緒になることであいつに恥をかかせたくない、と思ってきた。侯爵令嬢がこんな下賤の輩と一緒になるのか、落ちぶれたものだと嗤われるのを聞きたくなかった。……それが俺のくだらない意地だ、ということは判っているよ。あいつを見下したい奴は、俺が何をどうしようが言うだろう。だけど七年も意地をはった以上は、できうる限り隠れもない晴れやかな形で、あいつを妻に迎えたい」

 うん、とアデライデは茶化しもせず頷く。

「侯爵家からの勘当や絶縁は、避けられないかもしれない。最終的にはあいつを力ずくでさらうことになるかもしれない。それでも俺は、侯爵や夫人に対して、まずは誠実であるべきだろう。筋を通すべきだろう。だとしたら、今ここでロスマリンに手を出したら駄目だ、と思ったんだよ」

 アデライデが言うとおり、俺はくそ真面目で堅物かもしれない。でもそれは譲れない。

 実力行使に、強硬手段に及ぶのは、最後でもいいのだから。

 だが俺の言葉を聞いたアデライデは、ひどく考え込むような、迷うような顔色を見せた。

「……どうした?」

「あのね、あんたがそう望むのなら、これから私の言うことを怒らずに聞いてほしいの。これは私の意見ではなく、本当はセプタードが自分で伝えたかったこと。この十四年間、セプタードとウィミィが、イルゼやカッセルやリーベンたち傭兵団の幹部を交えて、何度も話し合い意志を確かめてきたこと。でもセプタードはこの道行きに加われなかった。だから私が預かってきたのだと思って聞いて」

 ひどく改まり、アデライデは静かに語り始める。

「ブレイリー、あなたはロスマリンと自分が釣り合わない、と今まで再三再四言ってきた。でも本当にそうなの?」

 それは俺の根源に迫る問い。

「あなたは自分のことを『貧民出の傭兵』とよく言うわよね。それは間違っていない。でも聞くわ。今のあなたは、貧民なの?」

 小首を傾げながら、アデライデは断ずる。

「違うわよね。あなたは傭兵団の給与体系を定める時に、役職ごとに明確な序列をつけた。重責を担う者は、それ相応の給金を与えられるべきだ。そうしなければ誰も自ら重いものを背負おうとしない、下の者がその席を目指そうとしないと。だから団長であるあなたが、最も高い給与を得ているはず」

「いや、戦功による加算はあるし、戦利品による個人利益もあるから、戦場に出てる部隊長の方が収入はあるはずだぞ」

「それでもあなたの収入だって、決して少なくはないはずよね。そしてそれをあなたはこの十四年、ろくに使わずに貯め込んでいるはず」

 俺は返事をしなかった。間違っているからではない。図星だったからだ。

 下の連中の面倒にまとまった金が必要な時、俺の懐から出したことは度々あった。あと必要に迫られ仕立てた何枚かの礼装は、そこそこ金がかかっている。しかしこの十四年、俺が使ったのはそれくらいだった。

 残った金は全部、無造作に貯め込んで細かくは数えていない。しかしそれが資産と呼んでいい額になっていることは、自覚している。

「傭兵館、あなたはあれは自分の屋敷ではないと言うでしょう。傭兵団の拠点であって、自分の持ち物ではないと。でもね、あの大きな館の主は誰なのかって言ったら、やっぱりあなたよ。あれほど立派な館に住まい、何不自由ない生活が送れる資産を持っている人を、貧民なんて呼ばない」

 アデライデが突きつけるもの。それに俺は粛然とせざるを得ない。

「確かにあなたは、かつて貧民だった。どん底の暮らしを送っていた。それは確かよ。けれどもあなたはそこから這い上がり、成り上がった。レーゲンスベルグの人たち――世間はそう認識している。あなたはもう富裕階級の人間なのよ」

 アデライデの指摘に、実感は伴わない。けれども言わんとするところは判る。

 傭兵団がレーゲンスベルグを守るには、まだ資金も人員も装備も足りないと思っている。特に港の防衛、海戦力の増強という問題を解決しなければ、それは果たせない。

 レーゲンスベルグを防衛するという契約の上では、俺たちはまだまだ道半ばだ。

 けれども、だ。自分たちを――レーゲンスベルグ傭兵団を客観視すれば。

 俺たちは本当に大きくなった。昔とは比べようもないほどの大金を稼ぎ、それを回すようになった。

 そうして皆、それなりに裕福になった。それは疑いようのない事実だ。

 今の俺たちの暮らし向きをして、貧民だと主張するのは、確かに違う。

「勿論王侯貴族に匹敵するような財力はないわよ。でもロスマリンに不自由ない暮らしをさせられるだけの資産と収入は、すでにあるわけでしょ。あとの問題は、あなたの生業と、社会的地位と、身分」

 臆することなくアデライデは俺を見る。その強い目に、俺は胸騒ぎを覚えた。

 こいつは今、俺に、何を突きつけようとしているのだろうか。

「はっきり言うわ。あなたが自らの生業を卑しいと思っているのなら、それをバルカロール侯爵令嬢を娶っても不釣り合いではないところまで高めればいい。バルカロールただ一人の姫を嫁がせても惜しくないと、侯爵夫妻が思えるほどの地位を掴めばいい」

 簡単に言うな。そんな無茶な。反射的にそう言いたくなった。けれどもアデライデの視線が、それを封じる。

 こいつが言いたいことは何だ。セプタードとウィミィが、こいつに託したことは何だ。

「今までのあんたは、生きる気力を失っていた。無意味な自虐と卑下に取り憑かれていた。だからセプタードもウィミィも、これを切り出せなかった。だけど、今のあなたになら言えると、言っていいと思う。そして私はこの選択を、明日あなたが侯爵夫妻と直面して、自分の人生を決める前に、あなたに受け取ってほしいと思う」

 そうして親友の妻は、夫から託されてきた言葉を俺に伝えた。

「『お前が幸せになるために、傭兵団を好きに使え』――これがセプタードとウィミィ、そして部隊長たちからの伝言よ。そのためにあなたが下すいかなる選択にも、自分たちは従う、と」

 俺は目を見張った。あまりにも重い言葉だった。

 それはすなわち、俺の人生における交渉事や取引に、傭兵団を担保にしていいということ。その武力と存在を、取引材料としていいということ。

 アデライデの示唆。それは傭兵団を利用して、俺の地位や身分を引き上げろ、ということだ。

「ちょっと待て。傭兵団は俺のものじゃないぞ」

 狼狽して、俺は叫ぶ。確かに俺は団長だ。けれども傭兵団は、俺一人で作ったものじゃない。

 最初は同じ師から教えを受けた者たちが徒党を組んだもの。そこにカティスに心惹かれた輩が集った。あいつがいなくなってからは、兄弟弟子や部下たちが徴募に応えて戦い、力仕事や護衛など様々な請負仕事で金を稼いできた。

 確かに傭兵団は大きくなった。そのことは誇らしい、誇っていいことだ。けれどもそれは俺の力だけで為したものじゃない。俺の功績でもない。

 俺の一存で動かしていいものでもなければ、団員たちの未来を好きにしていいはずもないだろう。

「そうね、確かに傭兵団はあなたの所有物じゃない。でもあなたに従うものではあるのよ」

「それは……」

「確かにあなた一人の力で、傭兵団は大きくなったわけじゃない。でも誰もが思っている。もしあなたがいなかったら、今の傭兵団はない」

 恐ろしいほどきっぱりと、アデライデは言い切る。

「あなたがいなければ、傭兵団はここまで大きくなることはできなかった。あなたでなければ、あれほどに団を円滑に運営することはできなかった。――セプタードは、私に何度も言ったわ。もし十四年前、あなたが帰ってこなかったら、傭兵団はそのまま解団になっていただろう。たとえ誰かが後を継いだとしても、きっとほどなく空中分解した。自分が預かったとて駄目だったろうと」

 初めて聞いた。俺は驚きのあまり、アデライデの顔を見つめるしかない。

 十四年前、カイルワーンからレーゲンスベルグが独立したと聞いた時、俺は自分たちが都市防衛を行わなければならない、と即座に思った。

 俺はそれを当然の、逃れられない成り行きだと思った。

 でもそれがあいつらにとっても当然だったとは限らない。

 俺が一命を取り留めるまでの一ヶ月間。あいつらはどんな思いでいたのだろう。どれほど悩んだのだろう。本当はどうしたかったのだろう。

 十四年前、俺はそれを聞かなかった。聞く余裕がなかった。そしてあいつらもそれを話さなかった。

「あなたにしかできなかった。そしてそれしか儚くなりそうなあなたを繋ぎとめる手立てがなかった。だから問答無用であなたに背負わせ、責務に縛りつけた。でもそれでよかったのか、心にも体にも深手を負っていたあなたに強いるべきことだったのか。セプタードとウィミィは、何度となく後悔したと言ったわ。だからどれほどあなたの力になりたい、あなたを苦しみから解き放ちたいと願っていたのか。それでも誰も、あなたに何もできなかった。ただあなたの犠牲と献身に、甘えることしかできなかった」

 俺は愕然とした。愕然とするしかなかった。

 自覚がない。俺は今までしてきたことが、犠牲だったなんて、献身だったなんて考えたこともない。ただ思考を停止し、目の前に積まれていたことを黙々と片付けていただけだった。

 それしかすることがなかった。したいことなんて、何もなかったのだから。

 買いかぶりだと、俺は言いたい。俺は何も考えてない。考えることすら放棄していたのだから。

 けれどもあいつらの目にはそう映っていたのか。そう感じさせていたのか。

「だから傭兵団の幹部たちは、セプタードを加えて今まで何度も話し合ってきた。あなたのためにどうしたらいいのか、あなたのために自分たちが何ができるのか。その結論が、さっき言ったこと。あなたが何を選んでもいい。あなた自身が幸せになるための決断ならば、どんなものでも受け入れようと。あなたが退団を選ぶのならば、やむなし。解団を選ぶのならば、それもやむなしだ。けれどももしあなたが、自分のために傭兵団の力を望むのなら全力を尽くす。あなたが自分たちを必要とするのならば、それがどうあろうとも、あなたの選ぶ道にどこまでも添う。だって」

 眼前に広げられたのは、俺が考えもしなかった仮定。

「あなたがいなかったら、今の自分たちはなかったのだもの。そして今もってあなた以外の誰も、傭兵団の舵は取れない。だったら傭兵団はあなたに殉じていい。そう部隊長たちは覚悟を決めたし、大半の下の子たちも同意することだと思う」

 思わず俺は唾を呑み込んだ。こくりと自分の喉が鳴る音を、俺は不快に聞いた。

「それを踏まえた上で、あなたに考えてほしい。あなたはこれからロスマリンと二人で、どんな道を歩みたい? あなたたちが何を選んでも、私たち傭兵団の関係者たちはそれを阻むつもりはない。でもね、レーゲンスベルグの街にとってはどうなのかしら、と」

 小さく苦笑いを浮かべて、俺を驚愕させる言葉を紡ぐ。

「施政人会議、そして街の人たちにとって、あなたの進退というのは、実はこの数年、最大の懸念事項だったのよ」

「それはどういう……」

「簡単な話よ。今レーゲンスベルグの街から、傭兵団がいなくなったらどうなるの?」

 それはさっきロスマリンにも告げられたこと。

 俺たちはいつでも街を出て行けた。街を守らなければならない義務はない。期限のある契約である以上、商売である以上、それはいつだって終了できた。

 でも俺はそれをしなかった。できる人間でもなければ、する気もなかっただろうと告げられた。

 それが俺の優しさだろうと。

 否定はしないが、精神的に疲弊していた俺の思考停止だ、というのが多分に本音だ。

 だからこそ、俺はこの十四年、考えたことがなかった。察したことがなかった。

 この契約は、施政人会議と街の人たちに、どう受け止められていたのだろう。

 そう考えてみて、刹那。

 俺の背筋を、寒気が走った。

 怖い。

 もし俺が施政人会議の一員であったならば。レーゲンスベルグの一市民であったならば。

 怖い、としか言いようがない。

 いつ街の防衛と治安維持を請け負っている奴らが、いなくなるのか判らないのだ。いつ自分たちの街ががら空きになるのか判らないのだ。

 レーゲンスベルグは取るに足らない田舎町ではない。アルバ本国を含めて、手に入れたいと思う国はいくらでもあろう。

 もし俺たちが去ったら、レーゲンスベルグはどうなる。そこには暗澹たる未来しか見えてこない。

 施政人会議は至急、俺たちに代わる戦力を調達しなければならない。四十万都市を守れるだけの人員と装備をだ。けれどもそんなこと、容易にできるわけがない。間違いなく配備が完了する前に、何者かに攻め込まれるだろう。

 となれば、助けを求める相手は当然、アルバ本国。だがそれをしアルバ国軍の駐留を認めれば、後はなし崩しに自治権を失うことになるだろう。

 つまりは、よくてアルバ本国へ帰属。最悪、他国の飛び地として占領。

 それが俺たちがいなくなった時の、レーゲンスベルグの未来だ。

「判ったわね、ブレイリー。施政人会議は完全に初手を誤ったのよ。十四年前、あなたたちを侮り結んだ契約が、ここに来て徒となった。もはやレーゲンスベルグは、あなたたちなしでは一日たりとも存続し得ないのに、施政人会議はあなたたちを縛る手立てを何一つ持たない。そのことに気づいていながら、打つ手がない。そのことに街の人たちは皆、薄々気づいている」

 くすり、と悪魔の笑みをアデライデは浮かべた。

「すでに主導権は、あなたたち傭兵団が握っているのよ。施政人会議は懸命にそれを隠そうとしているけれども、内心は戦々恐々だと思うわ」

 俺は小さく頷いた。アデライデの、ひいてはセプタードたちの言うとおりだった。

 十四年前、俺たちはたった三百人の小勢力に過ぎなかった。そんな俺たちに支払われる契約金は少なく、貧民出の傭兵に過ぎなかった俺たちの立場は弱かった。市政における軍務の立場は低く、俺たちは発言力を持たなかった。

 施政人会議が、当初どんな腹づもりで俺たちに都市防衛と治安維持を預けたのか。それは今の俺にも判らない。正規軍を編成するまでその場しのぎだったのか、それとも俺たちをなし崩しで取り込み、軍属にしようとしていたのか。

 だが奴らはそれに失敗した。俺たちは契約の傭兵団のまま、膨れ上がる街を支えられるだけ大きくなり、施政人会議はもはやゼロから防衛組織を作り出す時間と力を持たない。

 目が曇っていて俺は今まで気づいていなかった。だが確かに、親友たちが言うとおり。

 すでに立場は、逆転している。

「だからね、私たちはあなたにこう言う。――あなたは自分の価値を低く見積もりすぎだ。もっと高く売れ、と。ロスマリンを娶るために、地位や身分が必要ならば。それに見合う責務を背負う覚悟を固めたというのならば。それを得るためのカードとして、傭兵団の進退を利用しろ。それがセプタードから私が預かってきた伝言よ」

 俺はワインのカップを手のひらで包み込んで、しばし考え込んだ。

 バルカロール侯爵夫妻を納得させられるだけの地位。それが何なのか、アデライデの――ひいてはセプタードとウィミィが示唆するところは、俺にも判った。

 だがそれを寄こせと施政人会議に要求するには、呑めないのなら契約は破棄すると通告するには、一つ大きな問題がある。

「アデライデ、さっきお前は、俺が望むのなら、解団もやむなしだと言った」

「うん」

「でも俺は、自分のために六千人の団員たちが路頭に迷うような選択はしたくない。そして契約破棄を交渉のカードに用い、決裂した時、レーゲンスベルグを追われた俺たちはどこに行けばいい。施政人会議もそれが俺たちの弱みだと判っているだろう。流浪の身となれば、団員のすべてが俺たちについてくるとは思えない。そうやって傭兵団が分裂するなら、施政人会議は願ったり叶ったりだろう。レーゲンスベルグに残った団員を吸収して軍を編成する――それが奴らにとっては最良の選択じゃないか」

 俺の問いかけにアデライデは、恐ろしいほどこともなげに言った。

「どこに行けばいいって、あなた、行くところあるでしょ」

 俺はその瞬間、空気も時間も何もかもが、凍りついたようなそんな錯覚に捕らわれた。

「人手になってくれる六千人の腕っ節のいい男と、その家族と、装備と物資と資金。あなたがそんなものを連れて帰ってきたら、諸手を挙げて歓迎してくれる土地があるでしょ」

「アデライデ、お前……」

 呆然と呟いた俺に、申し訳なさげにアデライデは俯いた。

「ごめんね、セプタードと結婚する時に、私全部聞かされてたの。俺はあいつと生涯を共にするつもりでいる。だからもしあいつがそれを選ぶなら、この店も畳んでついていきたいがいいかって言われた」

 俺は思わず頭を抱えた。ということは、つまりだ。

「セプタードも全部、知ってるってことか……先生か、出所は」

「お義父さんが亡くなる直前に、聞かされたって言ってた。あなたを支えられるのはお前だけだから、いざという時のために真実を預かれと言われたと。でもあなたも勘づいているでしょ? そうでなくともセプタードは子どもの頃から、あんたが抱えていたものが何なのか、苦しめていたものが何なのか、薄々気づいていたわよ」

 俺はただただ深いため息をついた。胸の中に広がる苦いものを押し込め、顔を上げ、問いかける。

「もしそうなったら、お前はそれでいいのか。店を失っても、レーゲンスベルグから出ていくことになってもいいのか」

「まあ、お義父さんが残してくれた店が惜しい気もしないではないけどね。でもセプタードがいて、あんたがいるのなら、食いっぱぐれることはないでしょ。落ち着くまでは傭兵団で働けばいいし、落ち着けたらまた看板を出すわよ。その程度のこと」

 あっけらかんと言い放ち、アデライデは「だからね」と俺に迫る。

「その道を選べ、と私やセプタードは言ってるわけじゃない。でもその選択肢があるということは、施政人会議に対してとても強いカードになる。自分たちはレーゲンスベルグから放逐されても、何も困らない。困るのは、お前たちだけだと」

 それにね、とアデライデはさらに俺を揺さぶる。

「あなたはとても大事なことを一つ忘れている。今のアルバ国王は、カティスなのよ。あなたがそれを望んだ時、その是非を決める立場にいるのは、あなたの弟分のカティス。そしてあなたは今、ロスマリンという彼に直接言葉を伝えることのできる存在を、身近においている」

 俺はその一言にはっとした。

 俺自身はカティスが即位した時点で、あいつとの縁は切れていると思っている。

 無論、俺があいつを思う気持ちは変わらない。けれども――だからこそ、国王であるあいつを昔の誼で頼っていい、何かを望んでいいなどとは思っていない。

 あいつのことを思うからこそ、わきまえなければならない分はある。そう思っている。

 だが、他人の目から見たら、どうなのだろう。

 俺とカティスが、ロスマリンを介して繋がっている。

 俺と傭兵団の後ろ盾としてカティスがいる。

 そう受け止められても、何ら不思議ではない。

 そして、だ。施政人会議とレーゲンスベルグは、当然考えるだろう。

 俺たちと傭兵団が放逐されれば、カティスが黙っているはずがないと。

 実際にあいつがどうするか、は問題ではない。問題となるのは、脅迫となり得るその可能性を施政人会議がどう思っているかだ。

 だから俺は嘆息する。

 俺たちは今、どれほど強い手札を何枚持っているのだろう。

 感情はまだ動揺していた。けれども理性は沈思する。

 ウィミィに今回の一件を告げた時、あいつは「ここが運命の分かれ道、正念場」と言った。その言葉の意味を、重さを、俺は改めて噛みしめる。

 俺とロスマリンがあのままではいられなかったように、傭兵団ももはや今までと同じではいられない。

 事は起こった。そして俺が変わろうとするように、傭兵団もまた留まってはいられない。

 俺は傭兵団をどこへ、どんな未来へ導いていけばいい。

 親友たちを、その家族を、そして俺が無造作にこの生業に引きずり込んだ沢山の子どもたちを、どこへ連れていけばいい。

 お前が幸せになれる選択を下せ、と友たちは言う。

 だが俺の幸せってなんだ。どの道を選ぶのが、どんな未来を生きるのが、俺の幸せだ。

 答えは即座には出ない。けれどもだ。

「ありがとう、アデライデ」

「ん?」

「お前がついてきてくれて。そして侯爵夫妻に対面する前に、この話を聞かせてくれて」

 俺はあふれんばかりの感謝を込めて、告げた。

「おかげで、目が開いた」

 俺の言葉に、ああ、と小さくもらしてアデライデは笑う。

「やっぱりその顔、早くセプタードに見せてやりたいわ。あの馬鹿が、どれほど喜ぶことか」

 親友のあまりにもよくできた妻に、俺は苦笑しながら、それでもしっかり頷いた。

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