24

 目の前に扉があった。重厚かつ精緻な玄関扉が。

 これはこの館の正面玄関だ。使用人たちが使う通用口ではなく、この館の主一家や賓客だけが通ることを許されるもの。その重厚な扉を俺は見上げる。

 ここまでの道のりを共にしてきた部下たちは、今はいない。傍らにはロスマリンただ独り。

 アルベルティーヌ・バルカロール侯爵邸へと、俺たちは辿り着いていた。

 バルカロール侯爵家からの迎えと合流したのは、アルベルティーヌ市街の防壁が視界に入った頃合い。家紋を記した旗を掲げた騎兵の一群と、十分な警戒をもって所属を確かめ合う。

 そうして俺たちを出迎えたのは、ロスマリンが幼い頃から仕えてきたという老家令だった。老人は主家令嬢の無事をひとしきり喜ぶと、俺に対し恭しく頭を下げた。

「バルカロール家筆頭家令、キアノと申します。ザクセングルス傭兵団長とお見受けいたしました。――こうしてお目にかかれて光栄に存じます。この日の訪れを家臣一同心待ちにしておりました」

 俺はその言葉の真意を量りかねた。

 バルカロールの家臣たちの間で、俺はどう受け止められているのだろうか。読み切れない。

「ご足労いたみいる。俺がブレイリー・ザクセングルスだ。すまないが、我らもアルベルティーヌにて休息と補給を行いたい。侯爵家の名において、入城の許可をいただけないだろうか」

 百人とはいえ、俺たちは武装している。現状ジェルカノディール公爵と契約を結んでいるのだから、アルバに対して何ら後ろ暗いところはないが、それでも仁義を切る必要はあろう。

 確かにここまで来れば、このままレーゲンスベルグに部下たちとアデライデを先に帰す選択肢はある。だがマリコーンの潜入から始まりこの護衛の強行軍、疲労の色が見え始めている部下たちを、一旦休ませてやりたかった。

 俺たちは今まで何度もアルバ本国の傭兵徴募に応えてきたから、アルベルティーヌにも暗くはない。百人程度なら宿の心当たりもある。

 そう告げた俺に、キアノは「滅相もない」と応えた。

「姫様を救い出し、ここまで護衛してくださった皆様に対し、決して粗相などないように、との主命でございます。どうぞ皆様、バルカロールへ。我ら家臣一同全力で、歓待の準備を整えております」

 俺は咄嗟にロスマリンを見た。その顔には明らかな動揺が浮かんでいたが、俺に向かって小さく無言で頷く。

 否を言う余地はどこにもなかった。

「そしてザクセングルス殿には主から――姫様に登城の命が下る前に、お目にかかりたいとのこと」

 俺は小さく息を呑む。いきなり来たが、その答えもまた一つよりない。

「承る。案内をお願いできるだろうか」

 俺の返答に、老家令はまるで主君にするように、恭しく一礼した。

 そうして正門ではなく、王族や有力貴族しか使用を許されない東門から導かれ、辿り着いたアルベルティーヌ・バルカロール侯爵邸。百もの騎兵を迎え入れてなお余る広い前庭と、その奥に幾棟も並び立つ豪勢な城館に、俺は嘆息を禁じ得ない。

 本城ではないというのに、この威容。

 これがアルバ随一の貴族にして、現宰相家。その権勢、その財力。やはりすべてが桁違いだ。

 だからこそ俺は思ってしまう。呑まれるのでも、感服するのではなく、ただ一言。

 まだ信じてはならない、と。

 馬を馬丁に預け、俺は武装を解く。胸甲や脛当てを外し、ジリアンに託しながら、小声で囁いた。

「決して油断はするな」

「勿論です」

「何かあった時は俺に構うな。お前たちの身の安全を最優先に行動しろ」

「何があろうとも、貴方の敵が俺たちの敵です。そのことを団長もお忘れなく」

 小さく口元を歪めて笑ったジリアンに、俺も笑って応える。侍女たちに導かれて別棟へと消えていく配下たちを見送り、乗馬手袋を外しながら俺は息をついた。

 貴人に拝謁するような身なりではない。レーゲンスベルグに戻ればそれなりの用意もあるが、その時間はない。

 だが、ままよ、とも思う。外見をどれほど取り繕っても仕方ない。これが今の俺だ。

 砂と埃と血で薄汚れた兵装を纏う傭兵。それが今の俺なのだから。

 剣帯から、長剣と短剣を外す。武器をすべて家令に託すと、恭しく玄関扉は開けられた。

「行きましょう、ブレイリー」

 ロスマリンの促しに頷いて、俺はその館に足を踏み入れた。

 吹き抜けの玄関ホールには、傾いた初冬の光がステンドグラス越しにいっぱいに降りそそいでいた。そのまぶしさに手をかざし、頭上を振り仰いで俺は息を呑む。

 吹き抜けの上部、二階へと続く階段の踊り場に、一人の女性が立っていた。

 俺を睨むように見下ろしていた。

 髪をきっちりと結い上げ、品のよいドレスを身に纏う。その面差しは険しく、言っちゃ悪いがひどく気が強そうに見えた。

 一目で判った。そして思った。

 似ている、と。ロスマリンは母親似だったのか、と。

 バルカロール侯爵夫人リフランヌに違いなかった。

 だがまさかいきなり、こんな場所で待ち構えているなんて。

 動揺し立ち尽くす俺の下に、侯爵夫人は優雅にドレスの裾をさばきながら降りてくる。

 無言のまま、手を伸ばせば届くほどの距離まで歩み寄り、そして。

 鋭い音が、玄関ホールに響き渡った。

 振り上げられたたおやかな手は、俺の頬を強かに打っていた。

「母上!」

 娘の上げた悲鳴にも、侯爵夫人は表情を変えようとはしなかった。身を挺して割って入ろうとする娘にも構わず、屹然として俺を睨み、言い放つ。

「今まで一体お前は、何をしていたのです」

 夫人の声は怒りに満ちていた。

「ここにいるのは、私たちが手塩にかけて育てた、大陸一の姫です。バルカロールが家を挙げて育てあげた、大切な娘です。その娘をお前は、七年も中途半端に束縛し続けた。その挙げ句が、この不始末です。どうしてこんな大事になってしまう前に、踏み出すことはできなかったのですか。ロスマリン・バルカロールの名に傷がつく前に、陰謀から救出してきたという言い訳なしに、この館に足を踏み入れる勇気は持てなかったのですか」

 貴婦人らしからぬ怒声が、俺をしたたかに打つ。

 それは平手打ちより遥かに強い痛みを俺にもたらした。

「お前は私たちの娘を、なんだと思っているのですか。私たちがここで一体何年待っていたと思っているのですか、この無礼者!」

 ああ、と小さく俺は呻きを上げる。

 侯爵夫人の言うとおりだった。何一つ弁解の余地のない非難だった。

 今目の前にいるのは、侯爵家の女主ではない。家の立場や格式や、そんな話を持ち出されたのならば、俺にも返せる言葉もあった。けれども今目の前にいるのは、未婚の娘をもったごく普通の一人の母親だ。

 娘の将来を長らく慮っていたのだろう、ただの母親だ。

 母親である人に、なぜかくも娘を蔑ろにした、と詰られれば、俺に返せる言葉は一つもありはしない。

 ロスマリンは俺を背に庇いながらも、呆然と夫人の顔を見つめていた。その横顔に「信じられない」と書いてあるのが、俺には見て取れた。

 母親とうまくいっていない、とロスマリンは言っていた。不出来な娘だと思われている、と。失望ばかりさせてきたと。

 大貴族として家のために生きてきた母とは、生き方も考え方も折り合わない、と。確かにそれはそうなのだろう。

 だがそれでも、娘として思われていない、ということではなかったのだろう。それが痛いほど、伝わってくる。

「申し訳ありません。返す言葉もありません」

 うなだれ粛然とするしかない俺は、それでも言い募る。

「それでも、聞いていただきたいことがあります。お時間をいただけますか」

 俺の精一杯の懇願に侯爵夫人は目を細めた。

 何かを試すように、放たれた言葉。

「もし貴方が、誠意をもって私たちに相対するというのならば。それをもって、娘とのことを私たちに請うというのならば」

 激しさと鋭さをもって、その刃は俺に斬りかかってくる。ロスマリンとそっくりな、榛の目が俺を捕らえる。

 逃れることなどできない。

「己を偽るな。真実を語りなさい」

 俺は己の心音を聞いた。どくん、と心臓が跳ね、体が震えるのを感じた。

 知っているのだ。

 この目の前の人は、そして夫である侯爵は、何もかも知っているのだ。

 知った上で、俺に迫っているのだ。娘を望むのなら、嘘偽りは許さぬと。

 自らの口で、全ての過去を語れと。

 心音がじんじんと耳に響く。その痛いほど苦しい音の中で、俺は己に問う。

 あの日から三十二年。俺は教えられたことを、まだ覚えているか。

 故郷に脱ぎ捨ててきたものを、もう一度纏えるか。

 自信はない。けれどもルイスリールがジェルカノディール公爵となった瞬間見せたように、俺も変容するしかない。

 それを今望まれているのならば。それを試されているのならば。

「バルカロール侯爵閣下、侯爵夫人、ならびに侯爵令嬢に対しての長きにわたる無礼、切にお詫び申し上げます」

 俺は跪き、頭を垂れた。それは目上の女性に対する男性の――騎士の礼。

 傍らに立っていたロスマリンが、息を呑むのが判った。

 纏うものは儀礼の衣。振るうものは作法の杖。変えるものは己の気配。

 口にするのは、俺の本当の――貴族としての、名前。

「ブレイリー・シトロナード・ザクセングルスと申します。北方国境タランテルの領主ザクセングルス子爵ベルナールと、ハイデグルース伯爵令嬢マルグリットの一子でございます」

 差し出された夫人の手を取り、作法通りに口づける。そんな俺に、侯爵夫人は声音を和らげて言った。

「幼い頃に教えこまれた礼儀作法、忘れてはいなかったようね」

「……はい」

「お立ちなさい、ザクセングルス子爵令息」

 侯爵夫人は俺をそう呼んだ。三十二年前になくしたはずの、二度と耳にすることなどないだろうと思っていた敬称で。

 立ち上がり、顔を上げると夫人と目が合う。変わらず強い眼差しが俺を捕らえていたが、そこに驚きはない。やはり全て知っていたのだ、と俺は静かに受け止める。

 傍らに目を向けると、ロスマリンは口に手を当てて立ち尽くしていた。初めて知らされた事実に呆然としているのだろうその様に、胸が痛んだ。

「ごめんな、今まで黙ってて。でも俺にとっては、ご大層なことではないんだ。お前の家と比べれば、取るに足らないほど下級だし、爵位も領地ももうない。それで平民と何か違うか、偉ぶれる所以なんかあるか。その程度のものだと思って、三十二年生きてきた」

「馬鹿なことをお言いでない。貴方のどこが平民と同じですか。幼い頃に与えられてきたものが、身につけてきたものが、歴然と違うというのに」

 ぴしゃりと侯爵夫人は俺に釘を刺す。そして彼女は娘に視線を向けた。

「ロスマリン、貴女は本当に、今まで一度も不思議に思ったことはないのですか? だとしたら、貴女の目は結構節穴ですね」

 衝撃から抜けきれないロスマリンに、幾ばくか呆れがまじった言葉がぶつけられる。

「この人の教養と、それを土台にした才覚は、どう考えても貧民が持ち得るものではないでしょう? 彼はこの十四年、傭兵団の運営を一手に引き受けてきたと聞いています。でも、それをこなすには識字力と文書作成力、自他国問わぬ地理や歴史の知識、情勢を把握するための情報収集力と分析力、人員や金銭を管理する計算力と文書整理能力、契約のための交渉術、そのすべてが必要とされたはずです。他国とやり取りするためには、言葉だってアルバ語だけでは足りない。オフィシナリス語の基礎会話くらいはこなせなければ話になりません。そういうものを、全部身につけている男が貧民出身だと言う――おかしいとは思わなかったのですか」

 侯爵夫人の指摘に、俺は苦笑するしかない。

 仕方ない、ロスマリンの近辺には、字が読めない奴などいなかったのだろうから。

 自分にとっても周囲にとっても当たり前だったことが、ところが変われば特別なことになるということには、なかなか気づけはしまい。

 ただ、夫人の評価が買いかぶりすぎではないか、という本心は、敢えて口にしないでおく。

 生家で受けた教育に、どれほどの金がかかっていたのか。それは今の俺にも判っているのだから。

 俺の土台になっている教育は、ザクセングルス子爵家の財力が為したこと。あの家と父をどれほど恨み呪ったところで、それは変わらぬ現実だ。

「勿論私も、彼が只者ではないと感じてはいました。あの街の生まれではないことも、何らかの事情を抱えているのだろうことも、察してはいました。だけど――」

「ロスマリン、貴女の悪いところは、比べる相手を間違っていることですよ。大公閣下とアイラシェールは、桁違いの頭脳と学才の持ち主です。彼らと己を比べて劣等感を持つのは勝手ですが、最高学府まで進んだ自分や周囲の学識を大したことはないなどと思ってはなりません。それは他人を見誤る素になる」

 ため息をこぼしながら娘をたしなめ、夫人は問いかけてくる。

「私は宰相夫人としてカティス陛下の人となりに触れるにつけ、疑問を覚えました。この方は、幼少時代は困窮を極めたと仰るわりには、教養がおありになる、と」

 それは当然だろう疑問。

「確かに字は母后陛下でも教えられる、剣は身近に師がいたと伺った。でもその他の教養、何より馬術は誰が教えたのだろうかと」

 考え込むような仕草を侯爵夫人は取り、やがて推論に至る。

「これは身近に相当教養のある教師がいた、と踏んでいましたが……貴方ですね」

「侯爵夫人がお考えの通り、陛下に字や馬、ごく初歩的な学問や礼儀作法の手ほどきをしたのは、確かに俺です。アンナ・リヴィア母后は俺の母と共に、寝る間も惜しんで働いていましたから。母后を休ませるために、俺が教師役を肩代わりしていました」

 俺たちが傭兵として身を立てる前、まだ何の役にも立たないガキだった頃。アンナ・リヴィアは仕事の合間を見て、カティスとセプタードに字を教えていた。

 これから先を生きていくため。貧民から這い上がるため。たとえこれからどんな人生を選ぶにしても、二人には最低限の教養は身につけさせなければならない。そう考えて二人に字を教えていた彼女に、俺は言った。

 昼間中つるんでる俺がカティスの勉強を見るから、その分母のことを頼む、と。

 今でも思い出す。まだ素直で可愛かった頃のカティスが、俺にまとわりついて「どうしてどうして」を繰り返す様と、勉強が大嫌いで逃亡を謀り、たびたび先生の鉄拳に見舞われてはふて腐れていたセプタードを。

 そうしてセプタードには店の経営に必要なだけの、カティスには王宮でやっていけるだけの教養を身につけさせることはできた。それは俺が過去にしたことで、多分誇ってもいい数少ないこと。

「でも貴方が故郷を追われたのは、十歳の時ですよね」

 侯爵夫人が暗に問うことは判る。俺は小さくため息をこぼした。

「俺は大公閣下のような天才ではありませんよ。無論、レーゲンスベルグに落ち着いてからも、多少の勉強はできました――師が環境を整えてくれましたので。けれども俺が郷里で身につけてきたものが、もし年相応でなかったのだとしたら、ザクセングルスがそういう家だった、ということです」

「ブレイリー、それはつまり……」

 ロスマリンの戸惑いに揺れる問いかけに、俺はほろ苦く答えた。

「厳しいなんてもんじゃなかったぞ。物心ついた頃から、とにかくありとあらゆることを詰め込まれた。遊ぶ時間なんて、全く与えられなかった。できないことがあれば、できるようになるまで決して許してもらえなかった。子どもだからという甘えは、一切なかった」

 俺の胸の中に、ただただ苦いものが広がる。

「結局俺の父親はすべての判断基準が、家と自分の役に立つかどうかでしかなかった。家を守り継がせるための駒である息子は、すべてをそつなくこなせて当然だった」

「そんな男が、あんな形で家を滅ぼしていては世話ないですわね」

 さらりとこぼされた辛辣な言葉は、ある示唆を含んでいる。

 本当にこの人は、何もかも知っているのだ。そう悟った。

「本当によくご存知だ。よっぽどお調べになったとみえる」

「調べたのではありません。知っていたのですよ、三十二年前から夫は貴方のことを」

 あまりにも意外な返答だった。俺はその言葉の意味が判らなかった。

「だから夫は十四年前、貴方が陛下の盟友として現れた時、心底驚いたと言っていました――生きているかもしれないとは思っていたが、まさかこんな形で巡り会うとはと」

 俺もまた驚きのあまり、夫人の顔を凝視してしまう。貴婦人はそれを無礼だとは咎めず、大仰なため息をついて答えた。

「奇縁、としか言いようがありません。三十二年前のタランテル攻防戦、その経緯を貴方は存じていて?」

「大筋では。父の死後すぐにエグランテリアがタランテルに侵攻し占領、それをアルバが奪還したと」

「ウェンロック陛下が出兵を命じたのがバルカロールです。……当然ですわね、私どもが一番近いですもの」

 ああ、と思わず俺は呻きを上げてしまった。それは当然の成り行きと言えた。

 俺の故郷タランテルに一番近い大貴族は、確かにバルカロールだ。北の国境へ国軍をアルベルティーヌから差し向けるより、北に領地を持つ廷臣に命じた方が早い。

「当時夫は二十一歳、まだ爵位を継いではいませんでしたが、義父の命で軍を率い、街を奪還しました。その戦後処理で、夫は貴方のことを知ったのです。――愛人によって陥れられ、無実の罪で投獄された後、行方不明となった子爵の嫡男は、もしかしたら生きているかもしれないと」

「お待ちください、俺は行方不明とされていたんですか? 俺は自分が、獄死してることになっていると――」

「当時、信じている人たちはかなりいたそうですよ。公子はきっと夫人と一緒に逃げ延びている。あの愛人に殺されてなんかいない、と。夫は当時、貴方のことを相当探したのですよ。けれども戦後のタランテルで、貴方と子爵夫人の墓か遺骸を見た者は、一人としていなかった。だから夫は、貴方が殺害されたと断定できなかった」

 小さなため息をついて、夫人は続ける。

「そのために、ザクセングルス子爵の爵位と領地は、いまだに宙に浮いたままです。子爵の急死が、件の愛人による暗殺だろうことは想像に難くないですが、エグランテリアの侵攻で愛人とその子も死んでいます。ザクセングルス子爵家断絶として、爵位と領地を王家に納めるには、正当な相続人である貴方の消息が引っかかる。結果、旧ザクセングルス子爵領はバルカロールの預かりになり、そのままウェンロック陛下に忘れられました。新たな領主が定められることもなく、私どもとしても正式な領地ではない以上再建のための投資もはばかられ、結果として三十二年間放置状態です」

 淡々と紡がれた故郷の現状に、俺はただ呆然とするしかない。

 奇縁だと侯爵夫人が言うのはもっとも。俺だって驚くしかない。

 俺は自領を預かっていた家の令嬢と、恋仲になっていたのか。

 だけどそれは、侯爵夫妻にどんな印象を与えていたのだろう。

「俺が領地と爵位を取り戻すためにロスマリンに近づいたと、そうお考えですか」

 俺が問いかけると、そっと腕を掴まれた。傍らに視線を送ると、ロスマリンが俺にしがみついていた。

 その血の気が失せた頼りない顔は、彼女の受けた衝撃の大きさを物語っている。

 支えがなければもう、立ってもいられない。その白い顔がそう訴えているようだった。

 この問いかけは、ロスマリンにとっても大きな意味を持つ。

 ロスマリン自身は俺のことを疑ってはいないだろう。そう信じたい。だが両親がそう考えているのならば、結婚は大きな暗礁に乗り上げてしまう。

 だが侯爵夫人は、そんな俺たちの物思いに、あっけらかんと告げた。

「いいえ。最初はちらと考えなくもなかったですが、すぐに思い直しました。そんなまどろっこしいことを、貴方はする必要なんてないのですもの」

「……というと?」

「簡単なことですよ。ただ貴方は陛下に請えばいいのです。自分の爵位と領地を返してくれ、と。貴方がそれを望むのなら、陛下がそれを拒む理由が、どこにあるというのですか。他人の領地を寄こせというのならばともかく、はなから貴方が相続すべきものなのですから」

 あまりにもごもっともすぎる返答だった。そしてそれは昨夜、アデライデにも示唆されたこと。

 もし俺が傭兵団全軍を連れて、タランテルへと帰りたいと願ったのならば。

 ザクセングルス子爵としての地位と領地を回復したいと願ったのならば。

 それに可否を下す権限を持つのは、カティスなのだ。

 俺自身がそれを望んだのならば、カティスはきっとその願いを叶えてくれる。叶えない理由がない。

「むしろ私たちとしては、宙ぶらりんになってるタランテルと旧ザクセングルス子爵領について、決着をつけたいと思っておりました。貴方に返すもよし、王家に返納するもよし、正式にバルカロールに編入するもよし。私たちとしては、どうなってもいい。――貴方に早くここに来てほしかったのは、それもあったのですよ。このままの状態では、住人たちが不幸です。戦災から三十二年たっても、街は復興からはほど遠い状態なのですから」

「申し訳ありませんでした……知らなかったとはいえ、俺が目を背けていていいことではなかった」

 俺はこの時、心の底から詫びた。心の底から、すまないと思った。

 知らなかったではすまないことだった。

 今まで家のことは、全て終わったことだと思っていた。けれどもそれは違っていた。俺が逃げていたために、困難に喘いでいる人がいると聞かされれば、ただただ悔いるしかない。

 今からでも、俺ができる限りのことをしなければならない。そう心から思った。

「まあその件に関してだけでも、貴方を呼び出してもよかったのでしょうが……それができなかったのが、父親としてのエルフルトの意地でしょうかねえ。あの人も、意外としようもないところがあるのですよ」

 くすりと小さく苦笑をする侯爵夫人に、俺は返す言葉がない。

 だが一転して彼女は、厳しい問いを重ねる。

「だからこそ逆に、私たちにとっては判らないことがあります。――どうして貴方は十四年前、陛下が即位したその時、爵位と領地の返還を望まなかったのですか。城で療養していた一月の間に、陛下にそれを切り出す機会はいくらでもあったはずです。そうして貴族として復権し、陛下に侍することができたはずです。それなのに、貴方はそれを望まず陛下の下を去った。それはなぜだったのです」

 問いかけには、俺はわずかに沈黙した。それは俺の根源に関わる問い。

 今の俺を俺たらしめている、根源に関わる問い。

『ブレイリー、お前は何を望む? お前はどう生きたい?』

 病床の師の言葉が耳に甦る。カティスにもセプタードにも聞かせないように人払いをして、師は俺に問うた。

「かつて師に、問われたことがあります。俺の出自も、カティスの出生も知っていた人です」

 先ほどまでとは違い、敢えて夫人に対しても国王への尊称を使わず、俺は遠い記憶を口にした。

「カティスを利用すれば、失ったものを取り戻せるかもしれない。あいつを王子として担ぎ、この後起こるだろう戦乱を勝ち抜けば、廷臣として以前より遥かに高い地位と広大な領地を望めるだろう、と」

「ええ」

 侯爵夫人は無礼だとも言わず、俺の昔語りに静かに首肯した。

「望んでもいいのだ、と言われました。俺の人生が俺のものである以上、俺が望むように生きろ、と。お前が欲しいものを求めろ、と。だから俺は答えたんです。――俺はカティスに笑ってほしい、と」

 弱虫で泣き虫である代わりに、嬉しく楽しい時には眩いくらいの笑顔を見せていたカティスが、己に絶望して笑えなくなったあの時から、ずっと願い続けていた。

 子どもの頃のように、お前にもう一度心を開いてほしい。

 己を偽らず、心のままに泣き、笑い、人を信じ愛してほしい。

 俺はお前に救われてほしい。ただそう、願っていた。

「俺はカティスを私欲のために利用しようとする者が、あいつを傷つけていく様を見てきました。あいつが王位を巡る沢山の思惑の中で生まれてきたこと、その因縁に絡め取られて苦しんでいる様を見てきました。その俺があいつに言うのか。俺のために王位を望んでくれと。そうして俺を取り立ててくれと――ふざけるな、と思いました」

 今でも思い出せる。血を分けた祖母にすら、道具としてしか見られてないことを突きつけられた時の、カティスの顔を。

 俺までもがそれを望んだら、カティスはどうなる。何を思う。

 俺はあいつに更なる絶望を突きつける者になど、なりたくない。心底そう思った。

「三十年前、俺は親友と約束していました。師と共に、俺と母の命を救った恩人です。あいつはカティスを利用しようとする者は誰であろうと許さないと、あいつを守るためならば何を犠牲にしても構わないと言った。だからその時誓った――俺にその道を共に行かせろと。お前が一人で手を汚す必要はない、と。その俺がカティスを利用して成り上がろうと企む――そんなことは許されない。師がいいのだと言ったとしても、あいつと俺が俺を許しはしない。そんなことを望む者など、カティスの身辺から俺たちが排除する。そう思いました」

 そう告げた時の師の顔を思い出す。病の痛みに顔を歪め、俺を抱きしめると力なく言った。

『すまない、カティスとセプタードのことを頼む』と。

『だけど君は、君自身の幸せを求めることを、蔑ろにしてはならないよ』と。

 それから幾歳月。カティスは運命の伴侶と出会い、圧倒的な力に導かれ、王位に昇った。

 そして俺は人生まで賭けた望みが叶わなかった敗北感と、その望みが何の罪もない人を傷つけた罪悪感と、人生まで賭けた望みを他者が果たしたことの安堵感と共に果てた。

 そうして俺はあの時、死ぬはずだった。

 稚拙な己が犯した罪を、死をもって精算するはずだった。

 俺はあの時、それでいいと思った。

 だが俺は死に損なった。そうあの時俺は、助かったのではない。死に損なったのだ。

 もう望みなど、何も残ってはいなかった。

「侯爵夫人は、どうしてあの時カティスに復権を求めなかったのか、と問われた。その答えは簡単です。――思いつかなかったんですよ。俺はカティスと出会ってから即位までの十六年間、ずっとそれを否定してきました。カティスを幸福にしない選択だと思ってきました。それを今さらひっくり返すことは――ひっくり返していいのだと思うことは、あの時の病んだ俺には無理でした」

「なるほど」

「あの時の俺には、宮廷に登りカティスに仕えるだなんてこと、考えつきもしませんでした。貴族よりも、貧民の傭兵だった時間の方がもう遥かに長い。そして俺は自分が貴族であった時間を、故郷で感じた思いを、もう思い出したくなかった。宮廷には俺よりもずっと位が高くて優秀な奴らがあふれているでしょうし、何よりあいつの傍らにはカイルワーンがいる。俺がしゃしゃり出る必要など、何も感じなかった。自分が必要だなどと考えもしなかったから、その選択肢は浮かびようがなかった」

「今の最後の一言は、本心からそう思っているのですか。だとしたら陛下が聞いたら泣くと思いますよ」

 仄かに怒りのにじむ声音だった。俺はそれを不思議な思いで聞いた。

「あなたは一方的に守られるだけの者の気持ちを、考えたことがありますか。陛下が貴方と親友の愛情に、何も気づかないほど鈍感な方だとでも? これほどまでに己を愛してくれた相手から、自分はもういらないだろうだなんて言われたら、どんな気持ちになると思うのですか」

 ああ、と俺は微かに呻いた。これはカティスの気持ちを蔑ろにすることへの怒りか。

 いつだって俺は一方的だ。自分のしたいようにだけして、相手の気持ちを受け取ろうとも、受け止めようともしない。自分の気持ちを押しつけるだけ押しつけて、それに対して相手が思う気持ちからは逃げ続ける。

 だけどそれは、傍から見ていればとても傲慢に見えることだろう。手を振り払われる方を愛している者からすれば、腹が立つほどに。

 カティス、お前はちゃんとお前自身のことを思ってくれる臣下に恵まれているんだな。そのことに微かな痛みと、大きな安堵を覚え、そして。

 深く静かに、遠くなってしまった人のことを思う。

 カティス、お前は本当は俺のことをどう思っていたんだろう。俺にどうしてほしかったんだろう。

 お前は俺に本当は、そばにいてほしかったんだろうか。共にあってほしかったのだろうか。

 あの日――これ以上の療養はいらない、レーゲンスベルグへ帰ると告げたあの日、何も言わなかったお前は。

 お前は俺に、どうなってほしかったのだろう。どんな生き方を望んでいたのだろう。

 判らない。だが一つだけ、確かなことがある。

 ロスマリンは自分に縁談など来ていない、と思っていた。自分を娶ろうと考えている貴族などいないと。

 だがそれは違った。本人にも気づかれぬうちに、カティスが縁談を食い止めていたのだと、ジェルカノディール公爵に教えられた。

 それは何のためか。もはや卑下して否定したりはしない。

 ロスマリンのためだけじゃない。

 俺のためだ。身分違いの恋に臆し、いつまでも踏み出せずにいた俺のためだ。

 カティスだけじゃない。身の危険も顧みず単身レーゲンスベルグに赴いてくれたマリーシア。俺の責務を肩代わりしてレーゲンスベルグを守ってくれているウィミィ。いつ帰れるのか判らなくなるのに、マリコーンに残ってくれたセプタード。大変な道のりを女だてらに共にし、ロスマリンを支えてくれたアデライデ。俺がどんな道を選んでもいいのだと言ってくれた、傭兵団の総員。

 この恋を叶えるために力を尽くしてくれた人のあまりの多さに、俺は身震いがする。

 俺はどれほど沢山の人たちに、思ってもらっていたんだろう。

 愛してもらっていたんだろう。

 その思いにかけらも気づけぬほど、俺は愚かだった。

 だけどもう――だからこそもう、下らぬ卑下は終わりにしなければならない。

 俺が己を蔑めば、俺を愛してくれている人の気持ちをも蔑むことになる。

 それは許されない。

 そんなことはもう、したくない。

「仰るとおりです、侯爵夫人。それが判らないくらい、俺は愚かでした」

 過去形にして思いを紡ぎ、希望を未来へ繋ぐ。

「三十二年前、俺を投獄したのが誰だったのかはご存知ですか。俺と母を陰謀で陥れたのは確かに件の愛人ですが、俺を罪に問うたのはあの女ではありません」

「貴族というものが清濁併せ呑む生き物であることは、私が一番よく判っています。そんな濁りをさんざ飲み干してきた私でも、あれに関しては言いますわ――人でなし、と」

 さすがに何も知らぬ娘の前では、自分の口から直には言いたくなかったのだろう。しかしながら激しい怒りをもって吐き出された言葉は、答えとして俺を肯定してくれる。

 俺が恋した女性の母親は、もしかしたら娘に対してとても不器用だったのかもしれない。

 そして聞いていたよりずっと、温かく優しい人だったのかもしれない。

 その思いに励まされ、俺は己の弱さと愚かさを正直に口にする。

「俺はあの時の、お前などもう必要ない、とっととくたばれという言葉から――かけられた呪いから、逃れることができずにいたのかもしれません。もうあの男はいない。故郷も家もない。俺を縛るものは何もない、それが判っていてもなお、信じることができずにいた。己も、己の価値も、己を愛してくれる人の気持ちも、何もかも」

 判ってほしい。認めてほしい。そして許してほしい。そう初めて、心から思う。

「その呪いを解いてくれたのが、ロスマリンです。――侯爵夫人、俺は彼女となら、この愚かで甲斐のない人生を、やり直すことができると、やり直したいと思った」

 そうして俺を愛してくれた人たちに報いたい。

 あいつらに笑ってほしい。あいつらと共に笑って生きたい。そう心から思う。

「貴方の自慢の娘を、どうか俺にください」

 再び跪き、希う。

「俺とロスマリンの結婚を、どうかお許しください」

 頭を垂れた俺に、重苦しい沈黙が降る。ただ返答を待つしかない俺に、やがて下されたのは。

「ブレイリー・ザクセングルス、貴方は一つ、大きな思い違いをしています」

 驚いて顔を上げた俺は、思いがけない表情に迎えられた。

 バルカロール侯爵夫人リフランヌは、笑っていた。どこか意地悪く、だがどこか俺を励ますように、力強く。

「貴方は自分の人生をやり直すことなどできません」

 冬の光が窓から落ちる。それを背にして夫人は俺を見下ろし、告げた。

「たとえ愚かであったとしても、たとえ過ち、沢山の人を傷つけたとしても、それが貴方の歩んできた道、貴方の人生です。それをなかったことにはできません。できることは、それを踏まえた上で先に進むこと。罪を悔い償い、過ちを正し、よりよく生きていこうとすること――違いますか?」

「……はい」

「今まで生きてきた時間の全てが、今の貴方を作ったのです。郷里で重ねた血のにじむような努力が、流浪の中で味わった差別や侮蔑が、叶わなかった願いが、むごたらしい喪失までもが、貴方の人生。貴方を形作る血肉。何一つ無駄ではない。何一つ、否定してはなりません」

 俺を縛り上げていた鎖を砕く力が、光と共に落ちる。

「貴方は貴方の人生の、すべてを肯定なさい。貴方は私の大切な娘の心を捕らえるほどの人生を、これまで歩んできたのですから」

 心が震えた。胸が見えない大きな手で掴まれたかと思うほどに締めつけられた。

 それは俺がきっと、この三十二年間で一番聞きたかった言葉だったのかもしれない。

 俺はきっと誰かに、よく頑張ったと言ってほしかった。

「胸を張りなさい、ブレイリー。私は自分を憐れむような男を、娘婿として認めるつもりはありません」

 自分を憐れむ。その言葉はあまにも的を射ていて、俺はただ苦く笑うしかない。

 結局はそういうことなのだ。そう言ってのける容赦なさ、厳しさは、かえって小気味よくて、俺は胸がすく気がした。

 俺はこの人と、きっとうまくやっていけるだろう。そう思った。

「エルフルトが娘を嫁に出す父親らしく、臍を曲げて何かをぐだぐだ言うかもしれませんが、心配いりません。私が認めます。認めさせます」

「ありがとうございます」

「ただ一つ、条件があります。私は娘を、ただでくれてやるつもりはありません」

 俺を再び立たせ、ロスマリンと等分に見やりながら、試すように夫人は言い放つ。

「貴方はこのバルカロールから、一の女官を務める総領姫を連れていくのです。ロスマリンはその地位と、学者としての功績を置いていくことになるのです。貴方はその娘に、レーゲンスベルグでどのように報いてくれるつもりなのですか? 貴方はこの結婚で、娘に何を与えてくれるのですか?」

「母上、それは私の問題です。私が望んで、選んだこと。彼に責を負わせることでは――」

 これまで口を挟めずにいたロスマリンが、かぶりを振って反論する。だがその言葉を、俺は敢えて遮った。

「大丈夫、俺にも考えがある。それをお前にも聞いてほしい」

 戸惑うロスマリンの頬を指先で撫でると、俺は胸の中でその名を呼ぶ。

 アデライデ。昨日の晩お前が聞かせてくれたこと、気づかせてくれたことだ。

 お前が道のりを共にしてくれたこと、本当に感謝する。

 一晩考えた。そして覚悟を決めた。

 確かに選択肢は他にもあろう。だが俺が選ぶ道は――傭兵団を導いていく先は、やはりこれしかない。

「俺は今まで、傭兵団とレーゲンスベルグの間に距離をおいてきました。俺たちはレーゲンスベルグの所有物にあらず、俺たちは俺たちだけのものである、と。その基本理念はいまもって変えるつもりはありません」

「ええ」

「だがもう一歩だけ、距離を縮めてもいい、と思います。もっと俺たちは、レーゲンスベルグに責任を負ってもいいかと。その代わり、それに見合うだけ見返りを、街から受け取ってもいい。俺たちはレーゲンスベルグを守るものであると誓う代わりに、施政への発言力の強化と傭兵団の地位の向上を求めます」

 それの意味するところは、ただ一つ。

「軍務と都市防衛の責任者として、施政人会議に席を要求します」

 一介の平民ではなく。施政人会議に雇われるただの傭兵でもなく。

 独立不羈のものでありながら、レーゲンスベルグを我が街我が民と愛し守り、その舵取りの一翼を担うもの。

 お互いを従い従えるのではなく、敬い敬われながら互いに力を尽くすもの。

 それが俺の望む、未来の傭兵団の有り様。俺が子どもたちを導いていきたい未来。

「そしてそこに、ロスマリンを座らせるつもりです――よろしいですね」

 俺の言葉に、ロスマリンはしばし絶句し、侯爵夫人は面白いものを見る顔をした。

「貴方はその席に、自分が座らなくてもよろしいの? 妻が自分を差し置いて、レーゲンスベルグの領主の一人となっても構わないと?」

「施政人会議の狸親父と渡り合うのは、俺よりもロスマリンの方が慣れているでしょう。対外交渉に関しては、俺よりも優れています。ならばその仕事は預けたい。そう思いました」

「あなたは私に、団長を務めろと言うの?」

「まさか。だがそうだな、団長の仕事をお前に少し肩代わりしてほしい、という点では間違っていない。一対の車輪のように、お前が俺と対等の立場となって傭兵団を回してくれればと思ってる」

 小さく苦笑して、俺は請う。

「無論事務方の幹部の育成も進めているが、すまん、もう俺一人じゃ無理だ。助けてくれ」

 恥も外聞もない俺の言葉にロスマリンは俯いたが、やがて顔を上げて宣した。

「私はあなたの右手になると約束しました。あなたが傭兵団のためにさらなる責を負うというのならば、私はあなたのために力を尽くすのみです」

「助かる」

「あなたはつくづく面白い男ですね、気に入りました」

 くつくつと侯爵夫人は笑い、俺に挑んでくる。

「レーゲンスベルグ施政人会議に、身内を送り込めるのはバルカロールとしては重畳。それが叶うのならば、ロスマリンを勘当も絶縁もいたしません。成し遂げてごらんなさい。楽しみにしています」

「承ります、侯爵夫人」

「母上とお呼びなさい。貴方はもうロスマリンの婚約者、私の息子です」

 俺たちは揃って驚き、侯爵夫人の顔を見やる。だが夫人はそれさえも見越したように、なおも笑った。

「この家はもはや貴方の家。この家の者は皆貴方の家来です。使えるものは何でも好きにお使いなさい。であると同時に、この館の中では貴方はもうバルカロールの人間です。それが当家の総領姫を娶るということの意味です、ブレイリー」

 俺よりたった十三歳しか年上ではない義理の母親は、圧倒的な貫禄をもって俺に告げた。

「貴方がこれから大望を果たしたいと願うのなら、もっとしたたかにおなりなさい。私どもを利用し尽くすほどの気概が持てるのならば、それはそれでこちらとしても本望――そうでしょう、婿殿?」

 ああやっぱりこの人は、大貴族の夫人だ。きっとこの人は俺を利用しようとする。すべてが情愛だと思い込めば、絶対足下をすくわれる。

 だがそれはそれで構わない。納得と諦観を込めて俺は笑った。

 俺はそれでもきっと、この人を嫌いになれない。

「ご期待に添えますよう、母上」

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